shadow Line

模型曜日

HGザクウォーリアを組み立てながら、ブレイズウィザードを改装。
とはいってもウィザード自体はよくできているのでノズルを開口したりスラスターベーンを薄く削り込んだりするだけで結構見栄えのするものに。
そしてその過程で指に思いっきりアートナイフを人差し指に突き刺してしまい、大量に血が出たりした。というわけでキーは人差し指を使わないようにして打っているのでやりにくい。
しかしSEEDのときよりもDESTINYになってからの方がキットのリリースが遅いような気がするのは気のせいだろうか?
1/100モデルも1/144もどちらも数が少なめ。単体の出来は素晴らしいが、あれもこれも買いたい、と思わせるにはまだ数が不足しているような気がする。
ひょっとすると、Zの映画化を控えてそちらの方にも力を割いているからなのか?
ガンダムといえば何かと初代が神格化されがちだが、個人的にはそう凄いものでもないな、というのが本音だったりする。
話は物凄い勢いで飛んでいたりするし、ニュータイプが何で人の革新なのかよく判らん。
人類の対立を超越するには超能力めいたものに頼らないとダメと言うことか?それは即ち人間同士は分かり合えないという絶望が前提にあるわけで、希望もへったくれも無いなぁ、と思ってしまう。
あとZのダカール宣言は意味不明だと思った。
人類の重さで地球が沈むとか、魂が地球の重力に引かれてるだとか、かなり電波が入っているので、あれを「地球の皆さん」とか放送されても正直困るだろうなぁ。
映画版ではその辺をどのように調理するのかちょっと興味がある。
とはいっても、なんだかんだ言ってメカ大好きっ子な私としては、ナイスバディなロボが登場すればストーリーが多少電波だろうと許してしまうので、ガンダムSEEDDESTINYも電波OKの方向で色々変なことをやって欲しいと思う。
ゲームやってるとZのモビルスーツも悪くないな…………とか思い出して、旧キットでいいからメタスとか買ってきて自分でリファインするのもいいな、とか思い始めてしまうのだが、未完成品が多すぎるので自粛しなければ。
Zはいろんなデザイナーが参加しすぎで時代背景とか開発経路とかがよく判らないゲテモノばっかりだが、なんかそれが良く思えてくるのだから人間という奴は不思議なものだ。

本日の映画

「ゴールデンボーイ」
我らがスティーヴン・キング原作の、非常によろしくない映画。
優等生の少年が、元ナチスの収容所監督だった老人を脅して話を聞いているうちにその世界にのめり込んでいく、というような物語。
原作では老人も少年も狂気に捕らわれていくのだが、映画版では違った展開を見せる。
個人的にはどうしようもなくなっていく原作版が好きだが、映画は映画でまた違った趣があるため、楽しめた。
いや楽しくはないのだが、違った感慨を抱いた、とでも言おうか。
原作では収容所での残虐な行為の描写に力が入っているが、映画ではそういった場面は出さずあくまで老人と少年の関係に重点が置かれている。
映像という媒体であることを考えると、これは成功だったと思う。
原作の収容所の描写はえぐすぎるし、なによりセットに金がかかりすぎる。
短絡的に狂気に走るのではなく、あくまで少年の内部に少しずつ邪悪なものが芽生えていく、というのは見ていて怖かった。というよりも気持ち悪かった。
この手の映画は「気持ち悪い」と思わせたら勝ちだと思っているので、ゴールデンボーイはなかなかの出来映えだったと思う。
二度と見たくないけど。

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