shadow Line

<黒の長腕>ー休息

 ランツエンレイターが追ってくる気配もない。おそらくはコントロールの範囲外なのだろう。
 目算だが……有効距離は500メートルくらいと見るべきか。挟み打ちにされなかったのは僥倖という他はない。
 どんな方法で操っているかは判らないが、洗脳とは少し違うようだ。何かしらの手段に依存している。地下に逃げたのはどうやら無駄ではなかったようだ。
 取り敢えず、自宅に戻るのはヤバそうだ。ヤサを知られているのがプラスになることはないだろう。何処かで隠れ家を調達するとしよう。
 俺は身体を引きずるように歩き出した。
 臭いだけじゃない。
 ドブネズミのせいで時間を浪費しすぎた。下水道を満たす有毒なガスが、徐々に身体を蝕んでいく。
 下水道はほとんどが作業用リブロイドによってオートメーション化されているので、人間が立ち入ることはほとんど無い。ガスの発生に無関心なのもそのせいだ。時にはそれがありがたいこともあるが、長時間いると命に関わることに違いはない。
 それを見越しての逃走だったが、今度こそ振り切れただろう。
 確信があったわけではないが、そうも言っていられない状況になってしまった。
 手近な梯子を見つけ、這いずり上がる。身体が重い。
 蓋を外し、外の空気を肺一杯に吸い込む。うまい。命が助かった実感だ。
 肺の中の汚染された空気を吐き出し、まだ清浄な空気を吸いこむ。空気の質が急激に変化したせいか、酷い眩暈に襲われた。
 その視界に、半透明の女性が浮かび上がった。またか、と思う。
「……大丈夫?」
 錯覚だろうか。焦点が合うと、その女性がマリスに見える。
 手を伸ばすと確かな実感がある。マリスは俺の手を掴み、マンホールから引き上げた。
「どうしてここが?」
「私の仕事、忘れた訳じゃないでしょ」
「ああ……そうか」
 スポンサーの条件として、マリスを監視につける。マリィとはそういう約束だったな。
「それにしても、助けてくれてもよさそうなもんだが」   
「私の役目は監視であって、手助けじゃないから」
 俺が抗議すると、マリスはしれっと答えた。 
 無論、マリスの助けがあってもランツエンレイターをどうにか出来るようなことはなかっただろう。格が違いすぎる。あれはもはや個人がどうにか出来るような代物ではない。人間ですらなかった。反応速度、攻撃力、あらゆる点で格が違いすぎる。
 格闘能力では俺を遙かに凌駕するマリスだが、やはりランツエンレイターのそれとは比較にならないだろう。 言葉では上手く表せないが、あれは身体能力とかそういうレベルの問題ではない。明らかに俺たちとは「違うモノ」だ。
 リスクを秤に掛ければ賢明な判断だった、というべきか。腹は立つが。
 俺は掴んだままの手に力を込め、抱き寄せた。
「何する……」
 怪訝そうな声が嬌声に変わる。もう片方の手は、脇腹を這いまわっていた。
「薄情だから、お仕置き」
 背後からマリスの小さな身体を抱きしめ、耳元で囁く。ついでに耳朶も噛む。
 行為に対する反応が、明快に返ってくる。マリスの身体がピクっと跳ねた。
 が、そこまでだった。身体の力が抜けていく。「アブソリュート」を連発して疲労した身体に、あのガスはキツすぎたようだ。
 刹那、マンホールの周囲が爆ぜる。肉の焼ける異臭とともに、黒い影が飛び出した。
「いざよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおいいいいい!!!!!!!」
 ! まさか、「アブソリュート」を消すために、自分の身体を焼いたのか!
 確かに論理的に考えれば全身を炎で包むことによってアブソリュートから身を守ることは出来る。だがそれはまさしく自殺に等しい行為だ。 
 あきれた耐久力と称すべきか。自分の身を炎で包むなど正気の沙汰ではない。まともな人間の考えることでもないだろう。
 生存本能の成せる業か、それとも奴の乗り越えてきた修羅場がそういう判断をさせたのか。
 奴は俺の切り札から生還した。 
 だが命があるだけまし、という考えならさっさと身を隠して入院でもすればいい。
 奴を追撃に駆り立てたのはプライド、か。
 格下の相手にいいようにあしらわれて致命傷まで負った。しかも死んだふりまでして。
 命を賭してでもプライドを取り戻したい。……その気持ちは分かる。
 クリムゾンはそういう男だ。だからこそ、奴は俺を執拗につけねらっていた。勝負で言うなれば俺は負けたのだろう。 
 俺にはそれに抗うだけの余力はない。
 眼を開いているのが精一杯で指一本動かす気力もない。奴の発火能力「スカーレット」は最低でも300度近い高熱を発生させることが出来る。焼き殺される前に俺はショック死してしまうだろう。
 奴の「抜き」の速さは並ではない。「能力」を行使するまでの時間にはかなり個人差があるが、クリムゾンのそれは俺が知る限りでも一、二を争うほどに素早い。弾丸をよけるぐらいの反射速度でなければ「スカーレット」をさけるのは容易ではないだろう。そして今の俺にその余裕はなかった。
 だが意に反して俺の体は弾かれたように地を滑り、その後を「スカーレット」の高熱が焼いていく。一瞬何が起こったのか理解できなかったが、何とか眼を動かしてその理由が判った。
 マリスが俺を蹴り飛ばしたのだ。
 荒っぽい移動方法だったが、あとほんの少しでも遅かったなら、俺はローストチキンになっていた。咄嗟の判断としては上出来だ。
 背中が物凄く痛むがそんな文句は言っていられない。
 何より俺の体は限界に来ていた。文句を言おうにも、口から漏れるのは「ヒュー」という頼りない呼気だけだ。 
 マリスが何をするつもりかは判っていた。
 だから俺は何もせず、ただ崩れ落ちた。
 それが俺に出来る唯一のことだったからだ。 
 赤い炎は吹き消されるだろう。優雅な死神の凍てつく息吹で。
 見届けられないのが少々残念ではある。血の混じった咳をすると、俺の意識は闇に飲まれた。