shadow Line

<黒の長腕>ー出会い

 世界が白い。
 それが額を冷やすためのタオルがずれたものだと気付くのに時間がかかったのは、発熱のせいだろうか。
 あまり感覚のない手を動かし、それを持ち上げた。とはいえ天井も白かったので、あまり世界に変化はない。僅かな陰影の差、それさえもがあやふやになっている。
「気が付いた?」
 マリスの顔が見えた。
 普段は表情を表に出さない彼女の顔が、何故か不安そうに見えた気がした。
 自惚れだな。
「……ヤツは?」
「彼も、明日からは味方じゃないかしら」
 マリスが肩をすくめる。 
 ……ドブネズミも、マリィの人形か。どうやらマリスが屠った奴の肉体はマリィが回収していったらしい。
 洗脳、人格再構成、意思改竄は奴の十八番だが、クリムゾンまで弄ることは無かろうに。 なんか、ここ最近で戦力が大幅にアップしてるな。
 俺は微かに目を開けると、数瞬の後に目を閉じた。
 窓越しの柔らかな光が俺の頬を撫でていった。


 私はそんな十六夜を見て、昨夜のことを思い出す。 
 重傷の「クリムゾン」にとどめをさすべく対峙したものの、半狂乱になって炎を振りかざす相手には容易に近づけない。見ていた時にも思ったが、実際に対面したら余計に煩わしいヤツだ。冷静な判断を下せず、状況を悪化させるヤツは性質が悪い。
 肌をチリチリと焼く熱風。空気を焦がす火柱。もう炎の制御さえままならないようだ。衝動で死ぬつもりだろうか。
 この程度の炎など躊躇するほどの障害ではない。が、面倒だ。傍らの十六夜をちらと眺める。
 ブラストヴォイスで消し飛ばす。
 ヒュッと短い呼気。それを圧縮して練り上げようとして、息を潜めた。
 炎が空気を燃焼させる音が耳障りに響き、聴覚の働きを阻害する。軽く目を閉じて感覚を遮断すると、居心地の悪さを感じた理由を探る。
 わずかに訴える気配。誰か………来る?
 疾風。私にはそうとしか形容できなかった。
 再び開けた視界に、止まっている姿さえ見えない、風。「それ」は光の閃きにも似た速度でクリムゾンの両腕をへし折り、首をねじ曲げた。あっと言う間もない、刹那の出来事。それを辛うじて目の当たりに出来たのは、咄嗟に視覚に気を集中させたからだ。
 心当たりはある。そいつが何者であるかは推測がつく。しかし、何故ここにいるのか。
 ランクZ。「スピードスター」エクセル・シューマッハ。
 クリムゾンは呆気なく、生命活動を停止した。命を象徴するような灯火が、体表で燃え尽きる。ヤツの命を守るはずの炎は、命を散らす役目しか果たせなかった。
 飛びかかろうとしたクリムゾンの躯が、力なく地に落ちる。待ち焦がれるアスファルトが止めを刺そうとした刹那、重力を撥ね退けた左腕。その傍らに舞い降りた人影が、それを免れさせたのだ。私は、ようやく「スピードスター」の姿をはっきりと捉えることが出来た。
「はじめまして」
 そう声をかけてきたのは少年だった。外見は黄連雀や十二紅と大差ない。
 ランクZは極秘の要項だ。「ランツエンレイター」の姿を映像で見た以外、目にしたことはない。それでも、彼等の情報を求める人々から見れば、選ばれた人間ということになるのだろうが。マリィから聞いていた「スピードスター」の名をもう一度、脳裏に浮かべる。
「確か……マリスさん、でしたよね」
 はにかんだような笑みが私を覗きこんだ。手にしたクリムゾンの死体が不釣合いすぎて、思わず意識の外へ弾きだされるほどに。
「どうして……」
 声を出そうとして、出来なかった。気圧されているのだ。呼吸と同じ音の声は、喉の奥へと戻ってくる。
 しかし、何故なのだ。マリィは使わないと言った。彼は人でなしだから嘘くらい平気でつくだろうが、あの言葉は嘘ではない響きがあった。
 なんとなく、脳裏に浮かんだ疑問が、ひどくバカバカしく思えた。どうもピントがずれた問いのような気がする。
 今、目の前には最強のランクZの一人がいる。しかも、何故かはにかんだ笑みを浮かべて。そんな状況でマリィの道徳心など考えたところで、どうにもならない。彼がどうして目覚めたかも、ましてや敵か味方かも分からないと言うのに。マリィが起動した確約もないのに。
 軽く錯乱しているのだろうな。
 自己分析の真似事をすると、無性におかしくなった。自分の強さなんて儚いものだ。
 その諦めが、虚勢を張るための活力を搾り出したか。どうにか声が出せそうだ。大きく深呼吸をして、喉の奥で声音を調整する。少し昂ぶりそうだったから。
「初めまして、『スピードスター』」
 緊張の糸は、安堵で途切れた。何時の間にかクリムゾンは視界になく、笑顔のスピードスターの手だけが差し伸べられていた。本来ならまだ油断できない状況なのに、懸念さえ浮かばせない笑みが私をにこやかに見つめていた。
 伸ばした手をどうにか握ると、少年は小首を傾げる。
「ああ、なるほど。確かに、彼は僕の半身ですからね」
 どういう意味だろうか。あの圧倒的な速度こそ、スピードスターそのものではないのか。間違っていたのだとしたら、何となく気恥ずかしい。
「緊張、解けました?」
 少年の問いに、私は素直に頷いた。この少年の笑みには、どうにも不可思議な魔法の力があるようだ。握ったままの手は断ち切り難いぬくもりがあり、そこを起点に安寧が湯水に浸かるように広がっていく。抑圧していた感情だけでなく、既に失ったと思っていた感情までが心の奥から沸いてくるような感覚。
 恋人に会った小娘のような気持ちだ。冷静にそう思ったが、顔が綻ぶのは決して不快ではなかった。初対面だというのに、彼に対して感情を晒すことを厭う気持ちはない。
 開放されたような自然な気持ち。そう、きっと彼方に置き忘れたものなのだ、この感情は。ずっと昔に失ったつもりだったのに。
「うーん、それじゃ自己紹介から始めた方がいいかな?」
 微かな戦慄。
 その予感に、私自身驚いた。彼が「スピードスター」でなかったら夢が覚める、そんな懸念をした自分に。
「僕はヴォン。『スピードスター』と対を成す『サイレンス』です」
 ……? 彼は自分を「スピードスターの半身」と言った。つまり、互いに融合することなく、互いを意識しつつも存在を可能にする存在だというのか。
 魂の誘因さえもはねのけてしまうほどの、能力、ということ?
 ランクZとは、そういう存在なのか。
 ……どうも自分の思考が制御できない。ただ、今ならランクZを狂信し、その情報を追い求める連中を理解出来る。彼の言葉は、推測するほどの内容を提示したわけではない。私の結論は、根拠なき憶測だ。
 少し嫌なのは、この結論を導き出した自分自身だ。好きな相手を少しでも理解したいと願う、そんな感情の揺らぎに似ている。嫌というより、違和感か。
 ……なんだろう。私、舞いあがってる。
「多少違います」
 少年はもう一度、はにかんだような笑みを浮かべてから、握った手を離した。
 思考が読まれたらしいことは、別段どうということもなかったが、そう思ったのは手の感触が名残惜しいからかどうか。
「『スピードスター』の本質は僕、ヴォンであり、『サイレンス』の本質がエクセル・シューマッハなんです。
 つまり、幼児が精神的外傷を受けた際に、自己の中に新たな人格を構築することで逃避するのと類似した行為で、仲間たちが眠りを望んだときに物質化した自己の側面なんです。だから、僕の半身でもあると同時に、僕という個の一側面でもあるんです」
「ごめん、ちょっと舞いあがってるみたいで理解できない」
 思わず、気持ちを口にしていた。羞恥が顔を火照らせる。
 とりあえず、落ちつけ。
「……そんなことが可能なの?」
「それを実証したのが、僕です。まあ、ただ眠るのもよかったけど、僕は飽きっぽいから、能動的な部分を分離して自由を満喫するのに最適な形態を創造したというわけ。だから、僕は僕であり彼でもあるけれども、僕と彼は独立した個でもあるわけです。とはいえ」
 彼は言葉を区切ってから、自分の姿を眺めた。その姿は、初めてのファッション・ショーに登場した自分を興味津々で眺める子供のようだ。
「眠りの欲求の方が強かったのかな。肉体を構成する意思が弱かった分、こっちの身体は未発達な状態ですけど」
「多重人格とはちがうのね」
「そうですね。僕らは同じ時間軸には存在できない、異なる人物だと思ってください。彼は結果として生じる時間を進められる。僕は自分以外の時間を緩くする事が出来る。時間を操作できる人間が同一に存在することはパラドックスだから、僕らは同時に存在できない。そういうことです」
「そんな簡単に、自分たちの秘密を教えていいの?」
「知ったところで、どうにか出来ることじゃないですから」
「そうね。少なくとも私じゃどうにも出来ないし、どうにかするつもりもないし」
「正直ですね」
「冷めてるだけよ」
 私は自嘲めいた笑いで答える。ようやく、普段の自分に戻れそうだ。
「そんなところに惚れたわけですね、この眠りの王子様は」
 その言葉に、火が点いたように一瞬で、顔の温度が急上昇した。あまりの熱さに一気にのぼせ、視界までグルグル回る。
「フフ、あなたも正直ですね」
「そそそそそそそれより、もう一つ聞いていいかしら」
 動揺を微塵も隠せていない言葉に微笑ながら、ヴォンは「どうぞ」と応じた。
「さっきの説明によると、その身体が『サイレンス』なら、あなたはエクセルのはずでしょ。何故なの?」
「融合してしまっても良かったんですが、お互いの意思を尊重し合った結果、魂の方を一時的に入れ替えたんです。本来のような、完全な時間制御はできませんけど、それほどの不都合でもありませんから」
 どうにか探した疑問の説明を聞いてるうちに、なんとか顔の火照りと動揺が治まってきた。けれど、すぐに次の質問でもしないと、またからかわれそうだ。
「『クリムゾン』も、その能力で倒したのね」
「いいえ。それほどの敵でもなさそうだから、普通に戦いましたけど」
「……あれで、普通なのね……」
 基本ステータスから違うわけだ。
 それに加えて時間操作能力。成る程ランクZたるに相応しいと言えるだろう。
 思い知らされた現実が、急激に体温を下げる。
「さて、散歩も終わったし、僕は帰ります」