shadow Line

初めての冒険と俺-1

 日が高いうちは順調だった。街道はそれなりに整備されており、舗装はされていないが道に迷わない程度には轍の跡が残っている。不慣れな俺でも迷うことはなかった。
 思えば、塔の敷地から外に出たのは初めてだ。
 俺は辺りを見回しながら道をたどった。エマさんが言うように、俺はこの世界のことを何も知らない。見て、理解できるもの、知ることができる事は知っておくべきだ。
 植生は、俺のいた世界とよく似ている。もうちょっと図鑑を読み込んでいれば、葉の形から分類できたりもしただろうが、俺の知識だと広葉樹っぽいことくらいしかわからない。森から運ばれてくる湿った風は土の匂いを含んでいて、何だか懐かしい気持ちにさせられた。
 魔法の木靴のおかげで、路面のことも気にすることなく歩けている。石を踏んでたまにコツンと音がするのが耳に楽しい。
 知らない世界を歩くことは、新鮮な驚きと感動に満ちている。出会うもの全てが新しく、発見に満ちている。
 俺はこの得がたい体験に、感動さえ覚えた。
 だが、じきにそれは別の物に取って代わられた。
 道はどこまでも続いていて、それなのに会う生き物は昆虫と鳥だけである。人も居ない。
 俺は身震いするほど孤独だった。それは星を見上げたときに感じたものとは別の、危機感にも似た孤独だった。
 森から聞こえる音は、鳥の鳴き声、木々のざわめきだけではないことを、俺は気づき始めていた。それが自分に敵意のある生物のものかは、出会ってみるまではわからない。
 そして俺には身を守るすべは全くなかった。
 しかも、俺は致命的な間違いを犯していた。
 それはいま現在俺が味わっているもの――渇きだ。俺は飲み水を忘れるという愚を犯していた。
 今まで水は当たり前のように俺の側にあり、困ったことはなかった。塔には井戸があり、汲み置きの水もあってすぐに喉を潤すことができた。
 だが、ここには井戸も、水道も、当たり前だが飲み物の自販機もない。そして持ってきた食料を、ビスケットのような固いパンのみにしたことが、なおさら喉の渇きを促進した。
 俺は旅をするということを甘く見ていた。
 エマさんが言っていたことを軽く考えすぎていたのだ。
 歩けば歩くほど渇きは増し、いつしか俺の頭の中には水のことしかなくなっていた。
 街道からそれて森に入り、どこかで水を探すことも考えたが、その決心がつかない。
 汗の水分が無性にもったいなく思えた。
 それでも足は前へ進み続けた。自分でも不思議なくらいだった。
 何だって俺はこんな辛いことをしているんだ、と自問する。
 誰かに強制されたわけでもなく、この状況を作ったのは自分だ。いささか準備不足だったのは認めるが、途中で引き返しても良かったはずだ。
 ……引き返して水持ってきた方が良かったんじゃないか?
 しかし、結構な距離を歩いてきているから、引き返すのにはちょっと辛い距離でもある。
 それに、もうちょっと先に行ったら水があるかもしれない。大見得切って塔を出たのに、忘れ物があるから戻ってきた、なんて言うのはさらに格好悪い。
 俺はひたすらに自問自答を続け、道を進んだ。それが渇きをごまかす唯一の方法だった。
 日が落ちても、不思議と俺の足は止まらなかった。
 あたりは完全な闇に包まれ、足下さえおぼつかない。
 いまや俺は自分の手さえ見えない夜の中を、何の頼りもなく歩き続けていた。夕食さえ取っていない。体はこわばり、汗は首筋から流れて胸元に染みを作るほどだった。それが夕方のことだったので、今の俺がどんな姿をしているかは自分でもわからない。
 意識の片隅で、これは異常だと訴える声があった。
 だが、歩き続けた。ただ、歩き続けた。
 やがて、限界が来た。

「ああ、やっときたね」
 呼びかけられて俺は目を覚ました。
 身を起こすと、目の前には少年が立っていた――いや、浮いていた。
 半ズボンにシャツという格好だが、手足が異様なほど細い。骨と皮ばかり、という表現がぴったりだ。うなじまで伸びた黒髪は濡れて顔に張り付き、その隙間から僅かに目が覗く。
 その意味するところ。
「うわああああ!」俺は喉が嗄れるかと思うほどの声量で絶叫した。「幽霊だぁぁぁぁっ!」
「人を見て幽霊はないんじゃない?」不気味な少年は口元をゆがめた。「あ、人じゃないか」
「や、やめろ! 俺はまだ死にたくない!」
 俺は立つこともできずに後ろへ身を引いた。
 手には土の感触がない。辺りは暗く、少年の姿だけがはっきりと見える。どう見てもあの世か、その途中にしか思えない。
「あの世じゃないから心配しなくていいよ」少年はにっこりと笑った。どう見てもホラーだった。しかも、心を読まれた。
 本物だ――脱水症状で死にかけたので、死神が迎えに来たのだ。
「だから違うってば」
 少年は笑ったままだ。それが無性に恐ろしい。
 俺はこれからどうなってしまうのか。
「どうもしないよ。ただ、顔を見に来ただけさ」
「お、俺はそんなに美男子じゃないから! 連れて帰ってもいい事なんて何も無いぞ!」
「ちょっとは落ち着いたら?」
 声のトーンが落ちた。俺はすでにパニックを起こしかけていたが、その一言は俺の心に冷や水を浴びせるような効果があった。すなわち、畏怖。
 この少年は幽霊や死神などではない。俺はそれを本能的に悟った。
「うんうん、ようやくそれらしい反応をしてくれたね」
「あ、あの……おたくさまはどちらさまでいらっしゃいますでしょうか」
 敬語が全然駄目だぞ、俺。
「そうかしこまらないで。僕は『水神イセニス』の名で呼ばれている、ただの神だよ」
 斬新な自己紹介だった。ただの神って事はただ者ではない神もいるって事だろうか。
「まぁね。でもみんな気の良い奴ばかりだから、君たちが心配することはないよ」
 やたらフレンドリーな神様だった。
「ひょっとして、俺をこの世界に呼んだのは……」
「ああ、僕」
「なんで?」
 つい素で聞いてしまう。
「たまたまだよ。特に選んでないんだ」
「そんな……いくら神様だってちょっとひどくないですか? 元の世界に帰してくださいよ」
「無理だよ。だって、君がどこから来たのか知らないんだもの」
 そんな馬鹿な。
「いや、これは本当。あちこちの世界に召喚具をばらまいたから、正直どこに置いたのか全然覚えてないんだよねー」
 衝撃の発言。神様は無責任そのものだった。
「神様なんてそんなもんだよ。けっこう頑張って世界を作ったんだし、ちょっとくらい混乱を引き起こしても許されると思わない?」
 駄目だと思います。
「君たちの寿命からするとただの迷惑にしか過ぎないのかもしれないけど、物事は全て繋がっているんだよ。君がここに召喚されたということは、それだけで世界に影響を及ぼす」
 何だってそんなことを。
「世界は動き続ける必要がある。この世界が停滞しそうなときに、僕らは外から異物を持ち込む。世界はそれを拒絶するか、あるいは取り込んで新しくなる」
「でも俺は帰りますよ、絶対」
「いいんじゃない? すでにその行為自体に意味がある。君が召喚された時点で、僕らの目的は達成されているんだ」
 なんか嫌な言い方だなぁ。
「しょうがないさ。神様ってのは威厳を保たないと崇めてもらえないしね。尊大な物言いは、いわば君たち自身が僕らに望んだ個性のようなものだよ。この姿だって、人間が勝手に作り出したもの。水の神がずぶ濡れの痩せた子供、っていうのはずいぶんとひねくれた発想だとは思うけどね」
 その姿は嫌じゃないのか。
「人間は全て、可愛い子供みたいなものだよ」
 神様はにっこりと笑ったが、見た目のせいで物凄くホラーだった。
「最初に授けた天恵を一生懸命解釈して、讃えて、僕らがやってないことまで神の意志だったことにして、精一杯生きてる。そうして、神の姿まで勝手に幻視して作り出した。この姿は、いわば人間が神に授けた贈り物だ。大事にしてあげないとね」
「そんなことまで俺に話しちゃっていいんですか?」
「もちろん、よくはない。君の記憶の一部は、僕の楽しみの一つとしていただいていく」
 せっかくの得がたい体験だったのに。
「神様がぽんぽん人前に現れたら威厳がなくなっちゃうからね。だが、僕に会ったという事実だけは奪わないでおく。君は神と会ったという記憶を抱いて、君のなすべき事をなすといい」
「なすべき事ってそんな……俺はただの司書ですよ」
「知っている。それでも、人には全て役割というものがある。君が常々、そう思っているようにね」
 そうはいっても、俺に出来ることなどたかが知れている。俺という人間を買いかぶりすぎているし、神様の期待に応えることが出来るとも思えない。
「君は世界という水面に投げられた小石だ。それがどんな波紋を起こすか、僕としても興味がある……事が成ったら、一つだけ願いを叶えてあげようじゃないか。これは取引と思ってくれて構わないよ」
 少年の姿をした神様は大きくあくびをした。
「さて、僕はそろそろ寝ないとね」
「ちょっと待って! 俺、死にそうなんですけど! 願いを叶えてくれるなら、いま俺を助けてくださいよ」
「助けなら、そのうち来るよ。そもそも、君がそうなるよう仕向けたのは僕だし」
 今とんでもないこと言わなかったか、この神。
「死にかけてる方が、呼びやすいんだよ。あんなに簡単に暗示にかかるとは思わなかったけど」
 神曰く、魔法に対する耐性はないに等しいと言うことらしい。
 少年神の姿は薄れていく。助けが来るというのを信じていいのかわからないが、神と呼ばれるような存在を俺が引き留められるはずもなかった。
 こんな適当な神様で本当に平気なのか、この世界。
「滅びないようには……手を……打ってるよ……いつも、ね……じゃ、おやすみ」
 そして神の姿は消え、俺の意識もなくなった。