「おい、しっかりしろ」
俺を呼ぶ声がする。まぶたを開けると、見知らぬ顔があった。
アッシュブロンドを短く切りそろえた精悍な顔つきの女性は、心配そうな表情で俺を見ている。背中に棍棒のような物を背負っているところを見ると、旅の女戦士といったところか。
「大丈夫か?」
俺は頷いた。声を出そうとしたがかすれて出ない。
「こんな街道のど真ん中で倒れてるなんて、何があった?」
「み、みずを……」
「ミミズ? そんな物がほしいのか? ちょっと待ってろ」
違う。というか、この世界でミミズという単語が通じるとは思わなかった。
所々で疑問に思っていたが、この世界の単語には時々俺の世界の単語と同じ物がある。指輪の翻訳のおかげなのか、それとも人間以外の物も外から持ち込まれたせいなのか。
おかげで変な誤解をされてしまった。
辺りを見回してミミズを探してくれているのが、余計に申し訳ない。
俺は舌を口の中で動かしてどうにか唾液を出し、喉を湿らせた。
「すいません……けほっ……ミミズでなくて水をいただけませんか」
「水だぁ?」
眉を寄せて、女戦士は俺を睨む。超おっかない。
「最初に言えってんだよ……探しちまったじゃねえか」
その手には生きの良いミミズが。
でもちょっと考えてほしい。行き倒れの人間がなぜミミズなんて欲しがるのか。ミミズがないと死ぬ病でもあるのか? いや……あるかもしれない。
ミミズは森の奥へと放り投げられた。ごめんな、ミミズ……達者で暮らせよ。
女戦士は腰に手を回すとベルトから革袋を外し、俺に差し出した。
「ほらよ。半分くらいしかないけど全部やるよ」
俺は水を入れた革袋をうけとり、栓を引き抜くと音が出るほどの勢いで飲み干した。
少し油臭かったが、乾ききっていた俺には甘露にも等しい。
人心地ついたところで、俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます……あなたは命の恩人だ」
「よせよ。行き倒れを見捨てたら気分が悪いから助けただけだ」
女戦士は照れ顔で鼻を掻いた。見た目は怖そうだが、案外いい人のようだった。
意識を失った俺に助けを呼んでおいた、と水神は言っていたが、夢ではなかったようだ。
「で、なんだってこんなところで倒れてたんだ?」
「ええと……」俺は恥を忍んで正直に答えた。「飲み水を持ってくるのを忘れまして……」
「忘れたって、お前……」女戦士は絶句した。「泉がすぐそこにあるのにか?」
指さした先には、こんこんと澄んだ水が湧き出す石造りの水場があった。
マジかよ。
神様の助けはどっちだったんだ。
「変な薬とかやってるんじゃないだろうな」
女戦士の顔が懐疑のそれに変わった。ひったくるように俺から水袋を奪うと、あからさまに距離を置く。
「ここの領主はそういうのに厳しいぞ」
警告した後、女戦士は早歩きで俺から遠ざかっていった。
名前を聞く暇さえなかった。ヤク中ではないと弁明する間もなかった。
俺はひどく傷ついた。が、悩んでも仕方が無い。見知らぬ人に誤解を受けても平気だ。俺が薬なんてやってないことは神様が知っている。
まずは食事。それから前へ進もう。
脱水症状を起こすほど歩いたにもかかわらず、俺の体は精気に満ちあふれていた。
疲れが全くない。歩く速度も変わらず、エマさんの作ってくれた靴も快適だ。
馬で二日の距離だと聞いていたが、俺は一日半で目的の屋敷と思われる場所にたどり着いていた。地図で確認したところ、昨夜朦朧としている間にかなりの距離を稼いだらしい。自分で言うのも何だが驚くべき速度だった。
老魔術師の屋敷は、廃墟かと思うような佇まいだ。
屋敷を囲む塀は所々崩れており、門につけられた金属の柵も所々ひしゃげて人が通れるぐらいの隙間がある。門の上には、魔除けのためか悪魔の像――ガーゴイルのような物が据え付けられているが、片方は首がなかった。
「レザンさーん! いーまーすーかー!」
とりあえず門の前で怒鳴ってみる。
返事はない。考えられる選択肢は二つ。一、留守。二、屋敷の状況からして、死んでいる。確率が高そうなのは後者。
俺は屋敷の周りを一周してみた。崩れた壁越しから見る老魔術師の屋敷は生活感がまるで感じられない。庭の木も枯れ果て、この状況で人が住んでいるとは到底思えなかった。
俺は再び門の前に戻ってきた。どうしたら良いか、少し考える。
とりあえず、屋敷に行ってみよう。俺は鉄柵を掴んで引いてみた。錆びて脆くなっているように見えたが、元がしっかりしているせいかびくともしない。困った。
やはり隙間を抜けていくしかないか。不法侵入するみたいだが、一応は呼びかけたのだ。道理は通っているはず。
先に革袋を放り込んでから、俺は身をかがめて隙間に頭を突っ込んだ。少々狭いが、何とか通っていくことはできそうだ。
鉄柵に体を押し込んでいくと、柵がガタガタと音を立てた。事情を知らない人が見たら、どう見ても押し込み強盗だ。
俺はいっそう身を縮めて隙間をくぐるが、柵はほんの少しだけ俺の体より小さいらしく、胸を過ぎたあたりで少し引っかかってしまった。足も何かにぶつかっているらしく、上手く動けない。
おかしい。
障害物なんて無かったはず、と思い俺が首を巡らすと、俺の足には見慣れぬ灰色の物体がしがみついていた。
それは門扉の上に飾られていたガーゴイルの一体だった。
「ぎゃあああああ!」
俺は恐怖の叫びを上げた。ここ数日は毎日のように叫んでいる気がしないでもないが、首なしの石像に足を捕まれたら誰だってビビる。
俺は足をばたつかせてそいつを振りほどこうとしたが、何せ石像である。全く動かない。
「たーすけてー!」
助けを求めるのも慣れたものだった。そして誰も来なかった。
うん、これはわかってた。
俺はしがみつく石像を蹴りまくり、ちょっとずつ前進する。ガーゴイルは俺を引っ張り出そうとするだけで、これといった攻撃はしてこない。それが救いだった。
そしてズボンが脱げていくのに気づくのには、そう時間はいらなかった。
ああ、だめ! ガーゴイルから逃げると下着丸出しに!
でもこのままガーゴイルに捕まった状態でいるのも碌な事にはならなそう!
しかもガーゴイルは二体いる!
そいつは俺の正面に回り込んでおり、大きく口を開いていた。
とても悪い予感がする。
口の中が見えたと思った瞬間、そこからオレンジ色の熱の塊が俺に投射される。
石像が火を噴くなんて非科学的な! あと俺の事いじめないで!
俺は迫り来る炎から必死に身をよじった。火球は俺の顔すれすれの位置に着弾し、派手な火の粉をあげる。
「あ、熱っ!」
俺は悲鳴を上げたが、前髪をすこし炙られただけで済んだ。髪のたんぱく質が燃える嫌な匂いがする。まともに当たっていたら、黒焦げになっていただろう。
門に挟まった尻丸出しの焼死体なんて、見つけた人が気の毒だ。あとそんな死に方をする俺も。
くっ! 異世界に召喚されたのに、何か秘められた力とか俺には与えられてないのか!? 手から破壊光線が出るとか!
「うおおおお!」
俺は吠えた!
ズボンは脱げた!
その後直撃した炎により、ズボンは灰になった!
俺は革袋をひっつかむと下着のまま走って逃げた。下半身のことは後で考えよう!
「ひゃあっ!」
炎が脇をかすめ、あちこちに着弾する。とりあえず、屋敷の中へ行くしかない。
俺は脱兎のごとく駆けだした。屋敷の扉までは目算で十メートルも無い。
立て続けに火を吐くガーゴイルを振り切って、俺は屋敷まで一目散に走る。
何とか扉の近くまで来た俺は、そのまま止まらず体当たりした。上品にノックしている場合ではない。
しかし、必死の勢いで放ったタックルは、扉を打ち破ることなく跳ね返された。
鍵がかかっている!
ドアノブを捻ってみても、扉は動かない。
くそっ!
扉は押しても引いても駄目だ。そうこうしているうちに、ガーゴイルは迫ってくる。
一か八か、もう一度体当たりするか、それとも別の入り口を探すか。
迷っている暇は、あまりない。
扉は力一杯動かそうとすれば僅かに動くが、開く気配はない。
いやまて――動いている? 開くのではなく?
俺は扉の下を見た。確かに、ほんの僅かだけ動いている。扉の合わせ目の部分にはごく小さくだが隙間がある。
俺は気づいた。
これ、引き戸だ。
俺はドアノブを握り、勢いよく横方向へ力を込めた。
ドアが大きく横へスライドし、道を開く。俺は屋敷内へ転がり込んだ。