shadow Line

白銀の鎖ー1

 永遠などこの世には存在しない。

 星空ですらいつか冷めゆくこの世界で

 全ての結末は必然たる物。

 祈りも届かぬ最果てで

 神ならぬ者が数え続ける

 別離のための72時間。

 それは

 過去と未来と今を繋ぐ

 細い鎖。


第一夜

 軋む体に力を込めて身を起こした。
 刹那、自分のいる場所に違和感を抱き、思わず見渡す。
 そこは寝室ではなかった。
 何故応接室に、と思いつつ昨夜の一件を思い出して納得した。
 二階に上がる気力がなかったので、そのままソファに横になったのだった。
 どうにも現実感がない。
 それはまるで夢だったようで。
 しかし紛れもない現実だった。
 なぜなら、私が今此処にいることがそれを裏付ける。
 気分が悪かった。
 口の中が乾ききっていて、粘ついた唾液が口の中で嚥下もされずにわだかまっている。
 ふと体から滑り落ちたものがあった。
 何が、と確認するまでもなくそれは毛布だった。
 誰かが掛けてくれた。誰か、というのは考えるまでもなく明香だった。
 いや、正確には、明香と名乗っていた女だった。
 それは全くの嘘と過去の残像が形をなしたものに違いなかった。
 彼女が何者であるか、という問いはもはや意味をなさない。
 伏せられていたカードは全てオープンになった。彼女は必要なことを全て話した。私は知りたかったことを全て知った。
 否、知っていたことを思い出し、且つ突きつけられた。
 永遠の夜など来ない。明けぬ夜など無く、この身を満たす虚脱感が絶望だと知っていても朝は来るし、現にこうして今は朝になった。
 眠ったという感覚さえ乏しく、それは目を閉じて、再び目蓋を開けたときには朝になっていた、というただそれだけのものだった。
 夜が明けた。
 それは単純な事実。付け加えるなら、明香と名乗っていた女がこの屋敷に留まる期間が一日減った、ということだった。彼女は契約を更新しない。ゆえに、彼女はこの屋敷から居なくなる。
 それに対して特に惜別の感情はわかなかった。
 いずれこういう日が来ると判っていた。それがたまたま、あと三日後だったというだけだった。
 …………本当にそうだろうか。
 しかし答えを持っていないことを自問しても始まらない。
 何より、今はこの乾いた口腔を水で満たしたかった。
 両手の指を開閉させてみる。動く。錆び付いた関節に血が巡り、体温が回復していく。
 立ち上がると突然視界が暗くなった。
 目隠しをさせられたのか、と思うまもなく膝から力が抜け、思わずソファに倒れ込む。
 一呼吸おく。ただの立ちくらみだ。急に起きあがろうとすれば誰だってそうなる。
 暗転した視界に光が戻ってくる。
 何も問題はない。
 もう一度起きあがる。今度は少しだけゆっくりと。
 何も起こらない。当たり前だ。
 水を飲むために、私は食堂へ歩いていった。

 応接室から食堂までは近い。
 ホールになっている玄関へ出て横切るように向かいのドアを開けると食堂に着く。
 食堂の後ろは台所になっていて、そこが明香の城だった。
 ヴィクトリア朝の頃は、料理人は上級メイドにすら口を挟ませない権勢を誇っていたというが、強い者が支配するという当時の情勢を考えればそれもまた至極当然のことであったのかもしれない。
 料理は時に主人の心すら支配するものだ。
 ものに疎い私ですら明香の料理には心奪われるときがある。
 私が食堂へたどり着くと、奥から肉と野菜の匂いが流れ込んできた。
 明香がいるのだろう。
 無意識に足が止まったが思い直して台所へ入る。
 足音で気づいたか気配で気づいたのかは判らなかったが、明香が振り向いた。
「おはようございます、六道様」
 微笑む。
 伸ばされた前髪で隠された瞳は、私には窺い知ることが出来ない。
 だが、その笑みはひどく穏やかで、優しげに見えた。
 今までと全く変わらぬ口調で私に接する明香に私は戸惑っていた。
 それは不自然なくらいに今まで通りの明香だった。
 挨拶された、と気がつくまでに時間を要した。
 明香が小首をかしげる。
「どうかなさいましたか?」
「何故、此処にいる」
「なぜ、といわれましても。契約の期間は今日を含めて後3日ですし、私としては別命無くばそれが履行されるもの、と思っているのですが」
 自嘲めいた笑いを口元に浮かべて、明香は肩をすくめた。
「まぁ今まであれだけのことをしておいてまだ居座ろう、というのも虫のいい話です。貴方のお怒りはごもっともですし、仕方有りませんわ。
 それでも、やりかけの仕事を自分で放り出すわけにもいきませんし、どんな仕事であってもやり遂げるのが私の主義であり、誇りです」
 そうだ。
 この女はそういう女だ。
 今更考えるまでもない。
 私が一言、「出て行け」と言えばすぐにでも荷物をまとめて出て行くだろう。
 しかしその一言を言わなければ、彼女は残された期間の仕事を全うする。
「ところで昨日仕込んでおいたポトフが出来ましたけれど、朝食はこれでよろしいですか?」
 すなわち、このように、だ。
 明香の言う「やりかけの仕事」にはこのポトフもその一つに数えられるだろう。
 私が知らないところで、まだ何か色々と用意されたものがあるに違いない。
「それで構わん」
 いつものように答える。
 私はため息をつき、それから椅子に腰掛けた。ここで問答していても意味はない。そして答えも出ないだろう。ポトフの匂いを嗅ぐと、急に腹も空いてきた。
 座った私の前に明香が朝食を配膳していく。
 それは何処か異様な出来事だった。
 彼女は私の、もう一つの顔を知った。私もまた、明香のもう一つの顔を知った。
 それでいて、朝が来れば何事もなかったかのように、こういう時間を過ごしている。
 それは虚構に過ぎないのかもしれない。
 いままでどおりに。
 演じているだけというのならそれもまた良し。
 おかしな点があるとすれば、それはただ一つ。昨日の夜のことだけだ。
 あの時だけは雇い主と雇われた女ではなく、六道という男と明香と名乗る女のやりとりだった。それはこの屋敷のルールに反する。
 誰が決めた訳ではなく、お互いが了承している規範。
 暗黙の了解。
 それでも、昨日だけは、明香は仮面の一つを脱いで自らの手の内を明かした。
 その意味するところ、意図するところは私には判らない。何も明かさぬまま終わらせることも出来たのだ。
 私は知りたいことを知り、明香は言うべき事を言った。取引としては妥当な終わり方だ。
 昨日の夜、あれほどたぎった私の精神はもはや怒りも焦燥も無くなり、喪失感にも似た妙な虚無に満ちていた。
 席に着いた私の前に、器に盛られたポトフと切り分けられたパンが出される。
 時間を掛けて煮込まれたポトフには僅かに胡椒が効かせてあり、塩気は控えめながらそれを感じさせない絶妙の味付けがなされている。
 ゆっくりとそれを味わい、パンと共にそれを収めると、最後に出されたオレンジのジュースで朝食を締めくくる。
 いつもながら手の込んだ食事だ。
 そんな自分をおかしくも思う。
「一つお聞きしてよろしいですか」
 問いは明香から来た。
「なんだ」
「何故、私を追い出さないのですか」
「どちらにしても後三日で居なくなる。お前が望むなら、そうしても構わん」
「それは本心からのお言葉で?」
「嘘をついて何になる」
「お優しいのですね」
「何故そう思う」
 私が逆に問うと、明香は笑った。
「なんとなく、そう感じただけです」
 よく判らない。
「…………正直言えば、昨夜の事は少々拍子抜けさえしておりました。
 私としては、殺されるぐらいのことを覚悟しておりましたのに」
「殺して何になる。自殺したいなら余所でしろ」
「ご存じの通り、私の命は安いですから。そのような結末もまた良いものかと思っていたのですが」
「いささか気が短いのは自覚しているが、見境無く逆上したりはしない」
「そうですね。貴方はそういう方です」
 明香は空になった皿を下げると台所へ行って洗い物を始めた。
 この屋敷には、私の知らないところで、私のためだけに、何かが用意されている。
 それが彼女の役割であり、私が望むことだ。
 そしてそれに支障のない範囲で彼女は私について色々と探りを入れ、試し、あるいは観察している。
 それは詭弁だ。そんな都合のいい理屈など通るはずもない。そもそも、雇われの家事使用人が屋敷の様子を探る、という時点で契約違反だ。
 それでも、彼女はそれを通す。
 善悪や倫理といった枠から、彼女が離れているように感じるときがある。
 つとに、それを考えるときがある。
 ひょっとすると、彼女は何も持ってはいないのかもしれない。
 私と同じく。
 何も持っていないから、何も惜しくない。
 金も地位も、役割さえもその場限りのもので、それは未来へと続くような礎にはならない。
 ただ今があり、そしてそれ以外は存在しないのと同じ。
 だが根本の部分ではきっと私とは違う。
 私は私でしかないが、明香は明香ですらない。恐らくは、名前さえ持っていない「居ないものと同じもの」だ。
 それは自由にはほど遠い。それは鳥が自由だ、と誤解するようなものだ。空を飛べる鳥だとて、行ける場所は限られている。
 それでも彼女には翼すらない。人は誰でも大なり小なり翼を持っているものだ。
 明香はそれを持たない。言うなれば、風に吹かれる綿毛のようなもの。
 何も依るべき所がない。
 彼女の今までを考えようにも想像がつかない。自分さえも持っていない人間は如何様にして今までを生き延びてきたのか。
 …………やめた。
 そんなことを思って何になる。
 何もかも終わったのだ。
 今此処にあるのはその余韻。流れ去っていったものの残光に過ぎない。
 明香が戻ってくる様子はない。
 私は二階の書斎へ歩いていった。

 手持ちの書類をまとめ上げると、すでに日は傾いていた。
 途中、明香に呼ばれて昼食を取ったがその時には何の会話もなかった。
 何かに没頭していたかった。
 おそらく、明香もだ。
 時間は過ぎていく。
 このままでいいのか、と問う声と、このままでいい、と囁く声。
 どちらも私の中の真実だった。
 明香を知っておくべきなのか、それとももうすぐ居なくなる人間を詮索するのがよいことなのか判らない。判らないが、何かしたいと私は思っている。
 私は階段を下りた。
 磨き上げられた手すり。塵一つ無い廊下。目を向ければ、明香の手の触れていない場所はない。この屋敷は明香によって命を吹き込まれているのだ。
 明香は台所にいた。
 オーブンの炎を見つめ、焼き上がりの時間を見計らっている。
「もうしわけありません、いま少しお待ちください。ローストビーフがもうちょっとで焼き上がりますので」
「別に急かしているわけではない。暇だから降りてきただけだ」
「お食事の用意をしながらですからあまりお相手できませんが」
 そういいながら、明香の視線はオーブンに注がれたままだ。
「気を遣う必要はない。ただ、お前の仕事を見ていたいだけだ」
「まぁ珍しい。どんな風の吹き回しで?」
「ただの気まぐれだ」
 会話をしながらも明香の手は忙しく動く。
 その手際の良さはまさしくプロのそれだ。
 ふと思って訊ねた。
「お前は何処かの厨房にでもいたことがあるのか?」
「半年ほどですがとあるホテルに。勉強にはなりましたが、偏見の多い厨房だったので辞めてしまいました」
「そういうものか」
「コックの全てがそうではありませんが、腕っ節で劣るのでフルコースなど時間のかかる料理は作れない、と言う見方をする人はいますね」
 きっとそのコックは人を見る目がないのだろう。
「くだらないことだ」
「まったくです」
 明香はミトンを手にはめるとオーブンから焼き上げたローストビーフを引っ張り出した。
 部屋一杯に、濃厚な肉の匂いが立ちこめる。
「旨そうだな」
「もちろんです。私のローストビーフはそこらの店には負けませんよ」 
 そんな軽口を叩きながら、明香はローストビーフを別の皿によけ、天板に残った脂を捨ててからそこに赤ワインを入れて何やらやっている。
「掃除か?」
「いいえ。ローストビーフのソースは焼き汁をワインに煮溶かして作るんです」
 それから私の方へ向きなおった。
「申し訳ありませんが、出て行ってもらえませんか?ここから先は秘密なんです」
「駄目なのか」
「はい。こればかりは」
「頼んでも?」
「駄目です。教えてくれた人との約束ですから」
 別に頼んでまで教えて欲しいことではない。
 私は素直に席を立った。
「申し訳ありません」明香が済まなそうに謝った。「さほどお時間はかかりませんが、今少し外でお待ちください」
「気にするな。夕食を楽しみにしている」
 私は台所から出て行った。

 思い立って庭に出てみた。
 春の香りを含んだ夜風が柔らかく流れている。
 若葉の芽吹いた枝が揺れ、さわさわと音を奏でている。
 時は巡る。
 それでもこの優しい季節は私にとって、苦しい。
 光に溢れ、ぬくもりさえ感じる空気が不安をかき立てる。
 それがなんなのか、どういう理由に因るのか、わからない。
 ただ、春は嫌いだった。
 この身はすでに死んだものでありながら無理矢理生かされているような、そんな脅迫めいた思いがする。
 恭也が何故明香に私の身辺を探らせたのか、その答えを知ることはもう一生ないだろう。理由そのものがあるのかどうかさえ判らない。
 恭也は一体私に何を残そうというのだろう。
 それと引き替えに、娘の由梨香を育ててくれということなのか。いやそんなことはあるまい。そんな俗な理由ではないはずだ。
 だが、深い理由があるようにも思えなかった。
 今一度明香に問うか。
 それもまた愚かな行為だ。訊ねても明香はその理由を話さないだろう。聴かされてさえいないのかもしれない。
 結局、西園寺恭也という男について、私は理解していたような気がしていただけなのだ。
 いつの間にか、私は公道の方まで歩いていた。
 考え事をしながらこんな所まで来てしまったらしい。
 屋敷の周りは深い森だ。半径10数キロ内に民家もない。点在する外灯がかろうじて道路の存在を示しているが、人影はもちろんのこと、車さえ走っていない。
 闇と光が入り交じるその道を独り歩いていく。
 別に何処へ行こう、というわけではないがただ何となく歩いてみたかった。思えばこうして散歩することなど今まで一度もなかった。
 ガードレール沿いに歩いていくと、下で沢の流れる音が耳に響く。
 どうやら道路と下とではかなりの落差があるようだ。車に乗っているときは気づきもしなかった。
 ガードレール越しに覗き込んでみたが、闇に阻まれて底は見えない。仕方がないのでガードレールに寄りかかって、天を仰ぎ見る。
 月光。
 ほのかに明るい。星の輝きも霞むようだ。
 そのまま、虚ろに見上げる。
 何も浮かばない。
 後ろでは流れる水音が響いている。何かの拍子に倒れると、私は真っ逆さまに底へ落ちていくのだ。
 だが沢から吹き上げるように冷たい風は私には心地よかった。
「そのようなところにいらっしゃいますと、体に毒ですわよ」
 声は、私の来た方からした。
 見れば、自然の物ではない光源が近づいてくる。
 エプロンを身につけたままの姿で明香が現れた。手には懐中電灯を持っている。
「明香か」
「失礼ながら、後をつけさせて貰いました」
 明香は申し訳なさそうに言った。
「突然出て行かれましたので」
 手にした懐中電灯は台所に備え付けのものだ。おそらくは、台所からふと私の姿を見かけて追いかけてきたのだろう。
「何処にも行きはしない」
 しかし、何処へ行こうとしていたのかと問われれば答えようもなかった。
「まさか自殺するようなことはしないと思いますが、なんとなく心配だったものですから」
「昨日のことか」
 明香は少し言い淀んだが、頷いて言った。
「かなり動揺されていらっしゃるようでしたので」
 たしかに、ふらふらと沢の方へいったのでは自殺するように見えるのかもしれない。
 明香が心配するのも無理はない。
 私が自殺したら明香にしても後味が悪いだろう。
 喜ぶ人間は大勢居るが、私は他人を喜ばせる趣味はない。
「死にはしないさ。死ねないのだ、私は。約束があるからな」
「約束?」
「お前と同じだ」
 それだけ言って私は屋敷への道のりを歩いていった。
 後ろから明香が足音も静かについてくる。
 月の光だけが我々を照らしていた。
「それにしても、何故お外へ?」
「外で待っていろといったのはお前だ」
「あれはそういう意味では…………」
「判っている。冗談だ」
 小砂利の敷かれた並木道を通り、屋敷の目の前についたとき、
「あと2日ですね」
 と明香が呟いた。
 私はそれが聞こえなかったふりをして扉を開けた。

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