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白銀の鎖-2

 そして朝がきた。
 不思議と、このところ悪夢をみない。
 夢自体見なくなった。
 理由はよくわからない。しかし夢そのものが脳の働きによるものなのだから、何らかの変化があったのだろう。意識は、神経の電気信号から為る。回路の接続が上手くいけば調子も良くなるだろう。つまるところ、気分というものはそういうものだ。
 目覚めは珍しく快調だった。
 着替えて階段を降り、明香の用意した朝食を食べる。
 いつも通りの朝。しかし、体調次第で気分はだいぶ違う。
 食器を下げた後、明香が訪ねてきた。
「今日のご予定は?」
「昼から鷺澤と会食だ。帰りは夕方になる」
「判りました。ご夕食はいかが致しましょう」
「軽いもので頼む」
 私は身支度をすませると玄関を出た。
「いってらっしゃいませ」
 明香が深々と頭を下げて私を見送った。  寡黙な運転手の運転する車に乗って、私の体は目的地へと運ばれていった。
 残された日々をどう過ごしたらいいか判らなかった。
 その答えを出そうと考えるほど時間が過ぎていく。あらゆる事に流され続けていた自分が今更自らの足で歩こうとしても無駄だという事なのか。
 しかし、抗うとしてももはや流れは変えようが無く、終わりが来る事は誰にも止められない。 
 つまらない会話をするために人のところへ行き、書類をまとめ、食事をし、寝る。人の一生はそんなものの集合体だ。
 意味などあるはずもない。人生に意義など求める方がどうかしている、と時々思う。世の流れは個人ではどうにもならない。
 流れていくしかないのなら、身を任せて流れに乗るしかないのではないか。流れを変えることも出来なければ流れを遡ることも出来ない。だがそのたどり着くべき場所を変えられる、そう考える人間もいる。たとえば西遠寺恭也の様に。
 その結果、彼は死んだ。それを蛮勇と見るか、運命と見るかは人によって異なるだろう。
 窓から車外を見れば、大勢の人間の姿を見る事が出来る。 
 こうして通り過ぎていく数多の人間たちにもそれぞれ語られるべき物語があるのだろうが、交わらない者にとってそれはないものに等しい。己以外のすべては偶像であり、意味を持たない。意味は、主観を持つ者が付与するだけだ。存在そのものに意味はない。
 誰とも交わらないようにして生きてきたはずなのに、好むと好まざるとに係わらず関わらず私の周りにはいつの間にか多くの人間が係わっている。
 それは何故なのか。
 私は孤独を求めていたのではないか。
 だというのに、私は人とのつながりを断ち切れていない。
 何処かへ行きたい。
 ふとそんなことを思うときもある。
 遠い国。遠い場所。誰もいない、島のような場所だ。
 だが、人と係わらなければ生きてはゆけない。それも当たり前の摂理だ。他人を遠ざけるのは私の精神が脆弱だからだ。
 そう、私はこんなにも人を恐れている。
 明香さえも恐れている、と言ったら彼女はどんな反応を示すだろうか。

 会食は無意味で、そして長かった。
 鷺澤の話は長い。
 相づちを打ち、適当な話題を振る。
 答えが返ってきて、判った振りをする。
 これが会話か。
 これが相互理解か。
 意味のない言葉の重ね合わせより、もっと価値のある意思の疎通方法があるのではないか。
 たとえば、そう、今手にしているワイングラスを投げつける、とかだ。
 鷺澤自身、私を快く思って会食に誘ったわけではないだろう。鷺澤との会談は互いの手の内を探り合うようなもので、それ自体に意味はない。
 私自らが動いて何かを成すはずもないのに、彼らは私の動向を知りたがる。それは即ち、彼ら自身が私を恐れていると言うことだ。
 この世は恐怖で出来ている。知っている恐怖、知らざる恐怖、知ることの出来ない恐怖。他者は理解できない怪物だ。それは私の出会う全ての人間が抱えている印象だ。
 いや一人だけ違った。明香のそれは、恐怖とは異なる感情だ。明香は知りたいとは思っても、知らなくても物事を進めることの出来る人間だ。それは強さといってもいい。
 恐怖を御せる人間は強い。それは恐怖を知らないわけではないからだ。
 だから、時に彼女は自らが駒として使われようとしても動じずにいられる。
 それは彼女自身にとっても「もの」に過ぎないからだ。
 魂と体は違う。体がどうなっても魂それ自体には何の影響も及ばないように。
 …………それはいささか過大評価しすぎか?
 しかしそういう種類の人間はいる。たとえば、宗教を信仰しているものだ。神への愛。神への忠誠心。信仰。絶対的他者に身を委ね、判断を見えざるものに捧げる彼らにとって肉体はただの器だ。愛すべきものではない。愛すべきは己の魂であって、その入れ物を愛せよ、とは言わない。盲信は時に肉体的な恐怖を凌駕する。狂信ともいうべきか。
 明香は己の信念に殉じる。それが彼女の拠り所。
 ならば私は?
 いや、考えるまでもない答えだった。
 私は嘘つきではあっても裏切り者には成りたくない。それが私の因るべきもの。
 7年。約束の期限はもうすぐやってくる。
 期限、というのは私の思いこみなのかもしれない。だが、自らの道を選ぶまでに成長した人間に必要なのは導き手であって養育者ではない。
 私の役目はもう終わる。
 そう思えるのは、何もかもが終わりに近づいているからだ。
 一つの綻びが、波紋の如く事象を変えていく。今はそういう時の中に身を置いているのだ、と実感している。
 焦りや不安は、日を追うごとに諦観にも似た落ち着きに変わっている。
 終わる事への期待。それはもはや不安では無かった。
 だからこそ、無意味な時間に苛立ちを感じる。これが生きる術なのだ、といい聞かせるにも飽きてきているのかもしれない。
 会話の中に笑いを盛り込むことも出来るし、実際笑うことも出来る。私はそういう仮面を持っている。人が見るのはその仮面だけだ。誰も素顔を見ることはない。
 それが仮面であるか素顔であるかどうかなど問題ではないのだ。人は見るものだけを全てと考える。
 私が今話している鷺澤とて、本当の鷺澤ではないのかもしれない。孫娘の前では微笑み、会社では冷徹に振る舞う。どちらも本当なのかもしれない。私にそれは判らないし、たいして興味もなかった。
 向かい合っているようで、実は背中合わせになって鏡へ向かって会話しているようなものだ。人は、常に人格という名の影だけを見ている。人となりが見える、というのは単に強い光が濃い影を映し出しているに過ぎない。影絵の劇場だ。
 制限時間まで、人はそういう喜劇を演じ続ける。
 人生というものはそういうものだろう。問題なのは、その喜劇を鑑賞する側にはなかなかなれないと言うことだけだ。

 無意味な会食は終わった。
 脂の多い食事でもたれた胃とつまらない会話で浪費された神経を土産に、私は屋敷に戻ってきた。
「お疲れ様でした」
「…………ああ」
 身を引きずりながら、私は明香の前を通り過ぎる。
 こういうとき、明香は無駄なことを言わない。
 その沈黙がありがたかった。
 あと二日。
 自室へ戻る階段を上りながら、ふと考える。
 いや、今日という一日は殆ど使い切っている。時の経つのは、こんなにも早いのか。避けようのない刻限は、これほどまでに早く過ぎていくものなのか。
 これもまた主観の問題に過ぎない。人によって固有の時間の流れが違うなどと言うことは、空想の産物でしかない。
 時間は巻き戻せないのだから、時間の経過に意義を見出すかどうかもまた個人の手に委ねられている。
 ネクタイをゆるめてベッドの上へと放り投げる。ネクタイは常に首を絞められているような気がする、という話を聞くが私も同感だ。こんなものを首に巻いたところで別に何かが変わるわけでも無かろうに。
 そう思いつつも、出かけるたびにネクタイを締めている自分は相当な馬鹿なのだと思う。嫌ならばやめればいいものを。
 習慣だと思ってつい締めていってしまう。慣れ、とは恐ろしいものだ。何をするにも疑問を持たなくなってしまう。
 私は第一ボタンを外して、ベッドの上に身を投げ出した。
 ベッドの布団は暖かく、太陽の匂いがする。明香が干しておいたのだろう。
 懐かしい匂いだ。
 記憶を掘り下げても、何処でその暖かさを覚えたのか思い出せない。
 私には、子どもの頃の記憶が曖昧だ。たぶん、必要なかったから覚えていないのだろう。だが、体が覚えていること言うことも、ままある。それは突然甦って、郷愁に似た感情を引き起こす。化学変化だ。
 化学的な変化そのものには善悪はない。爆薬が爆発するといって爆薬そのものが悪ではないのと一緒だ。
 何か必要があるのかもしれない、と意味を見出すことも出来るだろうが、あいにく私は詩的には出来ていない。どこだろう、と思い、思い出せなければそのまま消える。
 懐かしい、というその感覚だけは本物なのだから、それを楽しめばいい。
 じわり、と暖かさが浸透してきて、眠気を喚起される。
 目蓋を閉じると共に闇が降りてきた。
 その中に私の意識はゆっくりと溶けていった。

 何か夢を見ていたように思えたが、思い出せない。今日は思い出せないことが多い。
 気がつくと布団が掛けられていた。
 ベッドに身を投げ出したままだったはずだから、明香が掛けてくれたのだろう。
 たっぷり寝てしまったらしく、窓からは闇が差し込んできていた。
 薄闇の中で手を伸ばし、枕元のスタンドをつけると白熱灯のぼんやりとした光が部屋を満たす。
 軽く頭を振って、眠気を頭から追い出した。
 もたれた腹も、不快感も、完全に失せていた。空腹感すら感じる。
 食事の時間が近いからか。だとすれば現金なものだ。
 とりあえず喉の渇きだけでも何とかしたい、と思い部屋を出る。
 階段を降りて食堂へ向かう。
 台所で料理をする明香の後ろ姿がちらりと見えた。
 それは完全に背景と馴染んでいて、絵画の中に同じ明るさで書き込まれた人物のようにそこに在った。
 その光景ももうすぐ無くなる。そうなったとき、此処はどんな風な見え方をするのだろうか。僅かに考えを巡らせたが何も浮かんでこないので思索を打ち切った。
「あら、お目覚めですか」
 明香は私の気配に気が付いたようだった。
「水を一杯貰おうと思ってな」
「それなら一言仰っていただければいいのに」
 明香は食器棚からグラスを取り出すと冷蔵庫のミネラルウォーターを満たし、私に手渡す。
 一息に飲み干すと、清冽な冷気が眠気の混じった精神を洗い流していく。
 水だけではなく、輪切りにしたレモンを浸して風味が付けられているようだった。ほんの僅かなその香りが口中に余韻を残す。
 水の一杯にも手をかける。そういう細やかさが明香の才能だった。
「もうすぐ御夕食の用意が出来ますけれど、いかがなさいますか?」
「そうだな」答えて、私は逡巡する。その間に腹が小さく鳴った。体の方は準備OKという事らしい。「折角だからすぐに貰おう」
「かしこまりました」
 明香は一礼し、私はそれに見送られて食堂のテーブルに着く。
 こうして食事をするのも後数回。残されたのは僅か一日。それでも、時は何事もなかったかのように過ぎる。当たり前だ。
 そういう感慨は無意味だし、時間を止められるわけでもない。
 どう足掻こうとも、人は流れる時の中でしか生きられない。
 引き留めることは不可能だ。そしてあらゆるものはいずれ失われていくのだ。もし、この世に神というものが居るなら、それは巨大なシステムのようなもので、真に人間的な意志を持っているはずがない。神とは、人間を顧みない存在だ。
 人の意志をもって願っても、神には届かない。神とは応えないものであり、そこにあったとしてもそれを理解することは出来ない。真に神たり得るものはただ「存在」であるに過ぎず、構造そのものが違う人間との意思の疎通が出来るはずもない。
 人の願いとは勝手なものだ。だから私は願うことを辞めたのだろう。
 そうあって欲しい、と願いかなったことは一度もない。
 己の望みを託した半身は失われ、理解者を得ることもなく、共に歩むものもなく、ただ長い旅路を辿っていくだけだ。
 願わくばその道程が短くあって欲しいと願ったが、それも叶えられていない。
 あれから七年も経ち、何も終わっていない。
 うんざりする。だが、自分で切り離せるはずの糸は、未だ切られていない。
 何が私を現世に繋ぎ止めているのかが判らない。
 何が私を生かしているというのか。
 できることなら、その理由があって欲しい、という願いもまた無に帰すだろう。私は何かを願って生きているのではなく、ただ何とはなく、消える理由がないから留まっているだけなのだろう。
 生きる理由がないのと同様に、死ぬ理由がないから生きている。そんな程度だ。私の命というものは。
 ひょっとしたら、世にいる人間の多くはそういう想いを少なからず抱いているのかもしれない。しかし他者と交わらない私には、それを確かめる術がない。
 こういう悶々とした想いを抱えながら、私は生きていくのだ。死ぬまで。
 残り少ない回数の中にも楽しみを見いだす。それもまた、生きる理由としては十分かもしれない。
 テーブルには茶碗に軽くよそられた白飯と器に盛られた鶏肉、それに吸い物が置かれた。鶏肉には貝割れ大根が乗せられている。
 続いて出された小さな器には何かを溶いた醤油が入っている。
「ささみと貝割れ大根を芥子醤油でいただいてください」
「ふむ。シンプルだな」
 そういいつつ箸を伸ばす。
 自然の素材をそのまま活かす。それも十分に料理といえる。手を加えるだけが技ではない。手を加えないようにする、という技もある。これはそんなものの一つなのだろう。
 貝割れ大根の鮮烈な辛みと全く違うベクトルを描く辛子醤油の辛み、ささみの淡泊な味がそれを引き立てる。組み合わせの妙だ。
 あっさりしたものを、という私の注文に会わせて、明香はこういう品を出す。予想の出来ない、しかし注文通りの品。
 明香は時折自らを魔女に例えるが、その魔法の多さは驚嘆に値するだろう。
 正直に言って、料理人の想像力というものにはしばしば驚かされる。何を、どう作用させればこの様な作品が生み出されるのか。私のような凡人には想像の及ばぬ領域だ。
 無論、彼らとて何の苦労も無しに作っているわけではないだろうが。
 それにしても、ささみと貝割れ大根だけの単純な品がこれほど美味いとは思わなかった。
「食事は一人か、せめて気心の知れた人間とするものだな」
 ついそんな言葉が出てしまう。
「今日の会食は楽しくなかったみたいですわね」
「楽しいものか。料理の味もわからないような食事に何の意味がある。仕事のためとはいえな」
「嫌なら出て行かなければ宜しいのでは?」
「断れる相手と、そうでない相手がいる」
「男の方は、何故無理ばかりするのでしょうね」
「女は無理をしないのか?」
 屋敷の維持管理に加えて私の世話までするのだから、 明香の労働量は相当なものだ。無理をしていない、とは到底思えない。
「さぁ?私は全世界の女代表ではありませんから、私を基準にされても困ります」
 明香はいつものように微笑を浮かべて答えた。 
 答えになっていない。
「生きるためには労働が必要だ。私にとって労働は苦痛なのだから、無理をしないというのは即ち働かないことになる」
「それも困りますわね」
「だから我慢している」
「楽しくする努力は?」
「なるべくしているさ」
「どういう風にですか?」
「この場をぶち壊しにしたら楽しいだろうな、とかそういうことを考えて、だ」
「貴方の嗜好が破壊へ傾くのは性格ですか?」
「違うな。男というのはそういう生き物だ。壊すことでしか生きられない。男に子供は産めないからな」
 古来より、芸術その他の分野で名を残してきた男は多いが、彼ら男とて女の腹から生まれてくる。彼らはまず、女によって産み落とされ、その後にようやく自らによって作るに至ったわけだ。
 こう考えるのは些か女性寄り過ぎるか?
 しかし、生物としては使い捨てに過ぎない男の存在は何かを破壊するか、何かを作る事に因ってしか存在を誇示出来ない、そんな気がする。
「極論だと思いますが」
「男にしか判らない事というものも、あるさ」
「ではそういうことにしておきましょう」
 空になった食器を手早く下げて、明香が答えた。
「お前の食事も残すところあと3回か」
「そうですね」
「楽しみが一つ減るな」
「まぁ。ずいぶんと嬉しいことを言ってくださいますね」
 相変わらず瞳は伸ばされた前髪に隠されたままだが、口元の笑いは優しい。
「事実だ。お前の作るものは素直に旨い、と思う。昨晩のローストビーフも素晴らしかった。お前に不満を感じたことはない」
「褒めすぎですわ」
「他に方法を知らないからな」
「…………それは本当に褒めているんですの?」
「褒めているさ。それだけの腕を世に出さないのは正直惜しいと思っている。店でも持ったらどうだ?なんなら出資してやってもいい」
「それも魅力的な提案ですが、私はこの家業を辞めるつもりがありませんので」
「変わった奴だ」
「一人の人間にお仕えする方が、私には気が楽ですから」
 私のような偏屈を相手にしている方が楽だというのも何処かずれているような気がするが。
「そうずっと続けられるものでもないだろう」
「生涯、とは言えなくとも腰が曲がるくらいまでは続けるつもりですけれど」
「気の長い話だな」
「そうでもありませんよ。何処かへ嫁いでも似たような事をしていると思いますし、違う仕事をしていたとしても一日の仕事の積み重ねであるという事に変わりはありませんから」
 私にはよく判らない考えだ。
 その日一日でも十分に持て余しているというのに。
「勝手に辞めていく人間が言うのも何ですが、貴方はこれからどうするおつもりですか?」
「私は人生に幻滅している。夢も希望もだいぶ前に捨ててきた。私の人生は暇つぶしのようなものであって、意味など無い」
「由梨香お嬢さんのことも?」
 唐突に明香が言う。由梨香は恭也の娘だ。私が後見人になっているが、恭也が死んだときはまだ分別の付かなかった彼女も、今ではもう15歳。時の経つのは早い。
 そういえば、明香は一度会った事があるのだった。
「由梨香はもう自分自身の道を選択できる歳だ。私の助けなど、いらんさ」
「何故そうお考えに?」
「由梨香を育てているのは私ではない。別にあの場所でなくても、腕の良いベビーシッターに預けても構わなかった。金を出して別の家庭に引き取らせる、ということも出来た。彼処に預けたのは、単に、私が見知った場所だったからだ。それは別に由梨香のことを考えてそういう結果になった、というわけではない」
「なるほど。貴方はあくまでも自分が何もしていない、と言い張りたいのですね」
「事実だからな。紛れもなく」
「何故そんなに頑なに他人を拒絶するのですか?」
「私は人間が嫌いだ。身勝手で、嘘つきで、そのくせ脆いときている。最低で最悪の生き物だ。傷つくのが嫌なら大人しくしていればいいものを、声高に自分が痛いと叫び、嬉々として他人を傷つける。この上なく醜悪で無様な生き物だ。愛せる方がどうかしている」
「…………そんなことを断言するのは二人目ですわ」
「もう一人は誰だ」
「悦也さん」
「…………今日また一つ、自分のことが嫌いになったな」
「そうですか?私はまた一つ、貴方のことが好きになりましたけれど」
「差し引きゼロだな」
「実りのある計算ではなさそうですね」
「恭也はともかくとして、悦也とはどういう関係なんだ」
「あらあら。男と女のことを聞くのは野暮というものですわ」
「そうか。では聞くのはよそう」
「…………少しは乗ってくださいまし?」
「聞くなと言われれば聞かないでおくのが人情という奴だろう」
「本当は知りたいくせに」
「時間と手間はかかるが、私の方から調べられないことでもない」
「でも本人が目の前にいるのですから、問いただしてみるのがよろしいのでは?」
「…………つまり、お前はそのことを私に話したいのか?」
「いいえ、別に」
「私の頭は回りくどい謎かけが解けるようには出来ていないのでな。話したいなら話せばいいし、話したくないのなら聞かん。私は常にそういう立場を取ってきた。それはお前に対しても同様だ」
「では、この件は悦也さんに直接お聞きくださいませ」
「つまり、悦也と話をする気のない私としては、直接答えを聞くことはない、ということだな」
 明香は苦笑した。
「本当に悦也さんのことが嫌いなんですの?」
「嫌いだ。理由を述べるのも馬鹿馬鹿しいぐらいに嫌いだ」
「意外と仲が良さそうに見えましたが」
「見間違いだ」
 悦也にたいして好意的な対応をしたことは一度もない。
「でも、悦也さんにはご自分の思うままをぶつけていらっしゃいますでしょう?ああいうのは少し、羨ましく思いますのよ」
「勝手にそう思え。悦也は顔に出し、口に出さないと判らんからそうしているだけだ」
「でもそれは、私の知らない貴方の顔を引き出せる、ということですから」
「何でも表に出ればいい、というわけでは無かろう」
「それは貴方の哲学ですか?」
「哲学と言うより処世術だな。まっとうな手段で人の上に立った奴はいない。少なくとも、私の相手はそういう人間ばかりだ。それに、私自身も知らない顔をお前が引き出すことだってあった。真実とはそういうものだ。常に見る側だけにある。そしてそれは見た者だけが持ちうる真実で、万人にとっての真実など存在しない。お前が欲しがっているものはそういうものだ」
「つまり、悦也さんを羨むのは筋違い、ということですか?」
「そういうことだ。お前はお前の出来る事をやっている。私はそれに満足している。そういう私を見る事が出来るのはお前だけだ。悦也はそれを見る事が出来ない」
「確かにそういう見方も出来ますわね。…………しかし貴方がそんな事を言うのは少々意外です」
「別に大したことを言っているわけではないだろう。客観的な事実だ。お前の仕事は過小にも過大にも評価していないつもりだ。」
「それは、光栄ですわね」
「正直に言えば、私は、この過ぎていく時間が惜しいと思っている」
「そう思っていただけるだけで、私はこの屋敷に来た甲斐がありましたわ。そんな褒め言葉を頂けるとは思っていませんでした」
 しばしの沈黙。
 酒も飲まずにこうして長々と話をしているのも珍しい事だった。
 掛け時計を見ると、そろそろ日付が変わろうとしている。
「このまま朝を待つというも悪くないが、それは過ぎゆく時へのルール違反だな」
「左様ですね」
「ここは大人しく、体の求めに応じるとしよう」
 私は椅子から身を起こして立ち上がった。
「では私も後かたづけをして休ませていただきます」
 答える代わりに頷いて私は食堂を出た。
「それでは、また明日」
 背後からかけられた言葉に私は思わず笑い、ゆっくりと寝室への階段を上っていった。

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