塔の朝は早い。俺だけ。
ベッドもどきから起き上がると、俺は朝食の支度を始めた。
今日の朝ご飯は、昨夜のうちに塩に漬けておいた肉を焦げ目がつくまで焼いたものとサラダに使った葉を、薄切りにした固いパンで挟む即席サンドイッチだ。
チーズがあれば完璧なのだが……それに類する物があれば今度買ってこよう。人間、美味しいものを食べると元気が出る。特に朝ご飯は。
俺はいつものようにお盆に載せて、エマさんを起こしに行く。
ノッカーを強めに叩き、俺は叫んだ。
「エマさーん! 朝ですよー!」
返事がない。
またか。
お互いどこかに出勤するわけではないので別にいくらでも寝てていいのだが、規則正しい生活は健康の基本である。俺の感覚からすれば、今の時間でも十分寝すぎだ。
「入りますよー!」
大きな声で断った上で、研究室に入った。窓から差し込む光が、きらきらと反射している。綺麗だな、と思っている場合ではない。これはつまり、部屋にこりが舞っているということだ。朝ご飯を届ける前だが、俺は掃除をしたくてたまらなくなった。せめて窓を開けて空気の入れ換えをした方がいい。
「エマさーん、朝ですってば」
お盆を机において、俺はエマさんの寝室に入る。
女性の寝室に立ち入るのは男としていささかマナー違反な気もするが、「時間を過ぎても寝ていたら起こせ」と明言したのは他ならぬエマさんである。公認なので、何ら問題は無い。
寝室は研究室と同じぐらい散らかっており、簡素なベッドの両脇には革装の本が平積みされている。それはもうちょっと高く積まれるとエマさんの顔面を直撃しかねない位置に来ており、最終的にそれが目覚ましになる可能性は十分すぎるほどあった。
ベッドにいるエマさんは掛け布団を豪快にはねのけ、大の字になって寝ている。エマさんが美人であることは論を待たないが、この格好はどうかと思う。
寝間着は薄い青のネグリジェで、いつもの衣装よりも遙かに露出度が低い。起こすときに正視できる点が、俺に良かった。
「エマさん、朝ですよ」
「んんん……もう少し寝かせて……」
その声があまりに色っぽく聞こえたので、俺の顔からは汗が吹き出した。
「だ、だめですよ――起きてください」
どもりながら俺はエマさんの肩を揺する。一緒にネグリジェの下の胸がバインバイン揺れた。
前言撤回。この格好はこの格好で、ヤバイ。この揺れ方から察するに、エマさんは下着を身につけていない。つまり、起こし方を間違えると、大変なことになる。可愛いネグリジェは、その瞬間から蠱惑的で危険な衣装へと変貌した。存在そのものが誘惑だ。健康な男子にとってそれは――パンドラの箱。
違うのは一つ。あの箱にはあらゆる悪意が詰まっていて、最後に残ったものが希望だった。しかしネグリジェの下にはロマンが山ほど詰まっていて、最後に死が待ってる。絶対。
俺は自分の悪魔と戦っていた。
起こす振りして体の角度を変えたりしたら、素晴らしい眺めが待っているだろう。あの、いつも見えそうで見えないエマさんのめくるめく秘密の数々を覗くことができるかもしれない。
俺の中の天使は、やめるべきだと主張する。エマさんは俺を信頼しているんだから、それを裏切るような真似をするのは紳士じゃない。
理性か、欲望か。冒険せずして何が男か。でも、ばれたら死ぬ。
結論は出た。死にたくはないな。
俺はなるべくエマさんに触らずに起こす方法を思案する。
己が知る現代科学全てを検証し、俺は最も合理的と思われる手段をとることにした。
いったん部屋を出てキッチンへ戻り、鍋を掴んで戻ってきた俺は、柄杓でそれをガンガン鳴らした。
「ほらほら、起きて」
エマさんが身じろぎしたので、俺はもうちょっと近寄って打ち鳴らす。効果は抜群だ。
「んん……うるさい……」
エマさんの可愛い唇から呻くような声が聞こえるのと、彼女の体に光のラインが走るのはほぼ同時だった。
振り払うような腕の動きに追随して、紫電がほとばしる。
行き先はもちろん音源である俺。
「ぐえー!」
文字通りの意味で俺の体に電流が流れた。全身が硬直し、四肢が震える。濡れた手で炊飯器のコンセントを触った時以上の衝撃だった。つまり、寝ぼけライトニングの威力は百ボルトより強い。それでもこれが寝ぼけファイヤーボールとか、寝ぼけブリザードでなかったことは不幸中の幸いであったと言える。
理性よ……おまえの言うとおりにしても、死にそうだぞ。
俺はちょっとだけ後悔した。どうせやられるなら悪魔の囁きに従うべきだった。
感電した俺は、そのままベッドに崩れ落ちた。着地点は、エマさんの胸。決して狙ったわけではない。本当だ。俺の体は指一本動かせないのだから。
「ごほっ」
俺の頭が胸に落ちた衝撃で、エマさんがむせた。
同時に、目が覚めたようだった。
「なっ……!」
驚く声が後頭部のあたりから聞こえてくる。頭を動かせないので見えないが、めちゃくちゃ怒っているようだ。
一方、俺の顔はエマさんの重量感あふれる胸に埋没しており、柔らかいやら息苦しいやら役得やら死へのカウントダウンやら。
「な・に・を・しておるかーッ!」
頭を鷲掴みにされているのはわかるが、声が出ないので弁明の機会もなかった。
二回目の電撃は、この後すぐ。
俺はエマさんのベッドに寝かされて、彼女の癒しの光を受けていた。電流を流されて気絶したのは初めての体験だった。楽しくはなかった。体のあちこちに妙なこわばりがあり、筋肉痛のように痛い。
俺が意識を取り戻したことに気が付くと、エマさんは魔法を止めた。
「よかった。気が付いたか」
「ひどいですよ、エマさん」俺は十分な非難を込めて言った。「俺、起こしに来ただけなのに」
「何を言う。キミが私の寝込みを襲ってきたからじゃないか。いささかやりすぎたとはいえ、私は自分の身を守っただけだ」
お互いの主張がかみ合わない。しかも寝込みを襲ったと、あらぬ疑いをかけられている。
「起こしに来たら『うるさい』とかいって電撃を浴びせてきたのは、エマさんが最初ですよ」
「あきれた男だ。私のせいにして開き直るつもりか?」
エマさんは目をつり上げて俺を睨んだ。感情が高ぶっているせいか、体に光のラインが走っている。俺は心の底で身の危険を感じたが、引き下がるつもりはない。
「事実ですから。俺は、やってないことでは謝れません」
「私は、キミをまじめで誠実な人柄の男だと買っていた。この世界に飛ばされてきた事を哀れにも思ったし、何とかしてやりたいとも思った。その信頼に対する仕打ちがこれなのか?」エマさんは溜息をついた。「私は失望したぞ」
「失望するには勝手ですけどね」俺もちょっと頭に血が上りかけていた。「そこに落ちてる鍋と柄杓が証拠ですよ」
「そんな物は証拠にならん」
憮然とした顔でエマさんが返す。
互いに険悪な表情のまま向かい合っていたが、エマさんが鼻を鳴らして視線を外した。
「よかろう……こんなことは魔力の無駄遣いだが、白黒つけようじゃないか」
エマさんは自信ありげにサイドテーブルから古ぼけた手鏡を取り出した。
金属の枠には磨かれた鏡がはまっていたが、奇妙なことに何も写していない。
「これは、ごく最近の過去を映し出すことができる『刻見の鏡』という道具だ。私がこれを持ちだした以上、キミは言い逃れはできない。謝るなら今のうちだ」
「やめた方がいいですよ」俺は忠告した。「真実は時に残酷だ」
「そんなはったりは私には効かん」
エマさんの体に紋様が浮かび上がり、まばゆいほどに発光する。
鏡は映し出した。真実を。
エマさんを揺すって起こし、その後鍋アラーム作戦を決行、無残に撃退される俺の姿を。
重い沈黙があった。
「ね? 最初に手を出したのはエマさんでしょう?」
「そんなはずはない」
エマさんは再び鏡に魔力を送り込み、映像を再生した。
「ほ、ほら、ここだ! 最初に私の胸を触っていただろう! あれが発端だ!」
この鏡、過去を映し出すのはいいが、ビデオと違って一時停止とか巻き戻しというものがない。話している間に、過去の映像はその名の通り過ぎ去っていく。
「そんなことしてませんよ、肩を揺すったんじゃないですか。よく見てくださいよ」
「いいや、胸を触っていた」
再び、過去を再生。
「ほら、肩じゃないですか」
「だ、だがこの時のおまえはいやらしい目で私を見ていたぞ!」
「そんなわけないじゃないですか。もう一度見てみましょう」
「いいだろう!」
そんな感じで十数回にわたって過去を再生した。
俺の疑いは晴れた。
そして、エマさんは何の魔法も使えないほど魔力を使い切ったのだった。まだ昼前なのに。
エマさんは露骨に落ち込んだ。
「こんなことに一日分の魔力を費やしてしまうなんて……」
それは素直に負けを認めないからではないだろうか。
「俺の濡れ衣は晴れましたよね?」
「そうだな……悪かった……」
エマさんは腰掛けたまま俺の顔も見ずに言った。
「朝ご飯は食べましたか?」
「食べた……」
「洗濯しますけど、洗う物はないですか?」
「ない……」
「わかりました」
俺は頷いて寝室から出た。やるべきことはたくさんある。半日近く無駄にしてしまった遅れを取り戻さなければならない。
「待て、コウ。なぜ怒らん」
戸口のところで、背後からエマさんの声が響いた。
俺は足を止めて振り向いた。
「さっき怒ったじゃないですか」
「なぜ私を責めないのか、と聞いているのだ」
エマさんの顔には困惑の色があった。
「間違いは誰にでもあるし、俺は結果がわかって満足しました。だからそれで終わりです」俺は思ったことをそのまま答えた。
「キミはいったいどういう男なのだ。私は寝込みを襲いに来た不埒者だと疑ったうえ、キミを殺しかけたんだぞ? なぜそれが許せる」
答えにくい質問だった。俺にとって終わったことは、どうでも良いことだ。許す、許さないのではなく終わったこと。俺にはそれだけのことなのだが……人には時々、奇妙に思えるらしい。元いた世界でも、変わった奴扱いされることが何度もあった。
「落ち込んでる人に追い打ちはかけられませんよ」俺は居心地の悪さを感じながら言った。「明日の朝、また電撃を食らうのはごめんですけどね」
「……かなわんな」僅かな沈黙の後、エマさんはそうこぼした。「キミが来てから、私は失態の連続だよ」
「そんなこと気にしてたんですか?」とてもそうは思えなかった。意外だ。
「私にだって矜恃がある。キミの保護者としての立場もな。ところがキミときたら、あっという間にこの塔に馴染み、今やどちらが主かわからない有様だ。落ち込みもするさ」
表情の陰ったエマさんを見て、俺の心は少し痛んだ。どちらかと言えば俺の方が世話になっている面が多いし、昨日などはスライム風呂で脱毛されたところまで見られている。失点は俺の方が多いと思っていた。
しかし、人が物事のどれくらいの重さで受け止めるかは、その人の生き方によって違う。俺にとって些細なことでも、彼女のプライドをひどく傷つけてしまうことだってあるのだろう。難しい問題だ。
「俺いた世界には、『誰にだって欠点はある』っていう言葉がありますよ」
人生経験が豊富ならもっと上手いことが言えるのだろうが、今の俺にはこんな言葉が精一杯だった。
「いい言葉だな……偉大な言葉だ」
エマさんが感慨深げに呟いたが、元ネタがコメディ映画というのは伝えない方が良さそうだ。
「エマさんが偉そうにしてくれないと、俺は調子が出ません」
ぼっ、と言う効果音が出そうな早さでエマさんが赤面した。
からかわれるとすぐ顔に出るのは、短所ではなくて長所だと俺は思う。
「ば、ばかなことを言ってないで仕事をしろ!」
そうそう。エマさんはこうでなくては。
「昼食の頃に呼びに来ますね」
そっぽを向くエマさんからの返事はなかった。けれど、俺の足取りは軽かった。