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塔の魔女と俺-3

 なんだか気まずい雰囲気になったので、俺は食器を下げるとキッチンへと戻った。
 辺りはすっかり暗くなっている。塔の中は魔法の明かりで照らされているが、電灯のように明るいわけではない。気をつけないと足下が少々危なかった。備え付けられたランプもあるが、見えないわけではないのでついケチってしまう。油だってただではない。万一の時にとっておくべきだ。
 貧乏性だな、と思うが性格なのだから仕方がない。俺は、RPGでも『HPとMPを全回復するアイテム』をケチってラスボス戦でも使わない男なのだ。使えば楽になるとわかっているのに。
 キッチンから塔の外に出ると、俺はバケツに器を入れ、汲み置きの水を注いだ。わらをより合わせたタワシで汚れを落とし、ひしゃくで流してきれいにする。
 汚水は小川となって足下から流れていった。上下水道が整備されていないのがこの塔の難点だ。
 ナイフの刃も通らぬほど精巧に石は積まれているのに、設計についてはいまいち、というのがこの塔に対する俺の評価だ。俺だったら、キッチンのそばに井戸と上下水を設置して、あとオーブンか、窯を作る。ちょっと考えればそういうことは思いつきそうだが、今まで放置されてきているということは、エマさんにとってキッチンの使い勝手は問題にならなかったということだ。あるいは、全く使っていないか。うん、そっちの方が正しそう。
 改築プランにあげる箇所はざっと二十はあったが、現実の俺は単なる居候に過ぎないので文句は言えない。
 俺はふと空を見上げた。
 本当の闇というものを俺はこの世界で知った。そしてそれがもたらす神秘も。
 空には宝石箱をひっくり返したように、輝く星々が瞬いている。目を奪われるような美しさだった。一つ一つの星がこれほど鮮明に見える場所を、俺は知らない。そして、そこに俺の知っている星座は一つもなかった。
 星空を眺めていると自分の小ささを実感する、なんてことを聞いたことがあるが、俺の胸に去来したのは圧倒的な孤独感だった。ここには俺のことを知るもの、俺を形作ってきたものは何もない。それは存在の不確かさであり、焦りだった。
 帰らなければ、と思う。
 ここは俺の世界ではない。

 エマさんは風呂が沸いても研究室から出てこなかった。
 帰ります、なんて言ったが、エマさんが転移魔法の術式を完成させてくれないと俺は帰れないのだ。機嫌を損ねるのはまずい。
 エマさんがここに残れ、といったとき、心が動かなかったと言えば嘘になる。
 なんといっても、あれだけの美人と屋根の下で二人暮らしだ。常時薄着なのは刺激が強すぎるし、態度も尊大で偉そうだが、面倒見のいい親切な人だというのはわかる。困った人を放っておけないのだろう。そうでなければ、空から落ちてきた身元不明の男を連れて帰り、介抱するなんてことはしない。しかも、自分にメリットがあるのかもわからないような帰還術の研究までしてくれている。
 けれど、エマさんは同時に危うさも感じさせる。こちらもなんだか放っておけないのだ。一点集中型なのか、目的以外のことがおろそかになりがちで、近くで見ていないと危なっかしい。村の人が、わざわざ森を抜けてまで塔に物を届けに来ているのは、そういうことなのだろう。俺が来る前は、食材ではなく料理そのものを届けに来ていたのかもしれない。
「先に入りまーす」
 大声で呼びかけてから、俺は浴場に行った。
 塔の風呂場は、実によくできている。床は塔の他の箇所と同じように石を組んで作られているが、排水と滑り止めを兼ねて意図的に溝が作られている。使った湯はこの溝を伝って浴槽の隅にある排水溝に集められ、排出される仕組みだ。巨大な花崗岩をくりぬいた浴槽は、鏡のように滑らかに磨かれていてホーローみたいになっている。外の窯で沸かされた湯は、仕掛けを介して浴槽に流れ込むようになっていて、沸かす温度さえ間違えなければ快適な温度で入浴を楽しむことができた。
 ちょっと熱めにしておいて石で冷ますとちょうどいい湯加減になることは、ここ何日か試していてわかっていた。
 手早く服を脱いで、掛け湯をしてから風呂につかる。
「ふぃー」
 染み入るような心地よさに、俺は息をついた。風呂はいい。これだけで生きる価値がある。
 エマさんも風呂好きなのか、この塔で唯一きれいだったのが風呂だった。飲みっぱなしの酒瓶があったぐらいで、床も浴槽もきれいになっていたので驚いた記憶がある。あのエマさんがまめに風呂掃除をしていることは驚きだったが、魔法でも使っているのかもしれない。二人の人間が風呂を使っている割には、いつもきれいで掃除も楽だった。
 驚きと言えば、もう一つ驚いたのが石けんの存在だ。この世界にはちゃんと石けんがあるのだ。どんな製法かはわからないが、図書館で夏休み自由研究の手伝いしたとき、後でお礼にもらった手作り石けんに似ている。香りはついていないのでちょっと変な臭いはするが、湯で流せば無くなる程度の物だ。
 暖まったところで、俺は浴槽から出て石けんをとる。この風呂で唯一欠点があるとすれば、石けんや桶を置く棚が少し高い位置にあることだ。立って使うことを考えればそれでいいのかもしれないが、シャワーもないのに肩と同じくらいの高さに石けんがあるのはちょっと使いにくい。もう少し低くてもいいのではないかと思う。
 俺は海綿で体を洗い、浴槽の湯で流した。石けんの質がいいのか、肌のつやがよくなった気がして俺はちょっと気分がよかった。スキンケアなんて気にしたことはなかったが、身綺麗なのに越したことはない。海綿を洗ってよく絞り、所定の位置に戻す。後はもう一度湯につかって、それからもう一度エマさんを呼んでみよう。
 そう思って浴槽に手をかけたとき、ふと俺は今まで気づかなかった取っ手の存在に気がついた。それは壁にオブジェのような形で埋め込まれていて、片手で握れるくらいの大きさだった。浴槽の水を抜く仕組みかと思ったが、木の栓を押し込んでお湯を溜める構造上、それはあり得ない。
 なんだろうか。
 好奇心に駆られた俺はそれを引っ張ってみた。こう見えても、何でも試してみたくなるタイプなのだ。小学生の頃は火災報知器のスイッチを押したくてたまらず、事故を装って押したことがあるほどだ。もちろん、あとでめちゃくちゃ怒られた。
 しかし、今回は期待外れに終わった。取っ手は空の引き出しのようになっているだけで、何かが入っている様子はない。入浴のための小物を入れておくようなスペースだったのだろう。
 少し残念に思いながらも、俺は取っ手を再び押し込んだ。押し込んだ。……押し込んだつもりだったがびくともしない。
 いけねえ、壊してしまったかな。
 何かが引っかかっているのかもしれないので、スライド部分に指を這わせてみた。金属のレールには何かが噛んでいる様子はなく、油でも塗られているのかむしろぬるっとしている。
 いったん俺は手を引き抜いた。
「うえっ。なんだこれ」
 手には、緑色のネバネバとした粘液状の物体がこびりついていた。劣化したグリスみたいのものだろうか。とにかく洗い落とそうと思い、石けんを泡立てて手をこすり合わせる。何とかきれいになりそうだ。明日は、ここを掃除した方がいいかもしれないな。
 そう思ったときだった。
 足下を、何かがなでていく。
「ひゅわっ!」
 俺は思わず飛び上がり、振り向いた。
 目の前には、不気味な緑色をした粘液の海が広がっていた。それはあの取っ手のあった場所からどんどんあふれてきており、当分止みそうにない。何のための仕掛けか知らないが、ともかくこのままだと俺はスライムに飲み込まれてしまう。
 俺は急いで浴室の扉に手をかけた。
 ……鍵がかかっていた。そういえば、さっき取っ手を引いたときに何か物音が聞こえた気もする。
 スライムはどんどん増殖し、今や俺のくるぶしのあたりにまで迫ってきている。
 扉は恐ろしく頑丈で、俺が全力でたたいてもびくともしない。風呂の扉は丈夫にしないでほしい。そうこうしているうちに、太ももまで粘液が上ってきている。
 裸の美少女がスライムにまみれるのは絵になるかもしれないが、二十歳過ぎの男がスライムで溺れても誰も得をしない。トカゲに食われて死ぬのを回避できたと思ったら、今度はスライムで溺死の危機か……なんだってこんなことに。
 どう考えても俺のせいだった。
「たぁすけてー!」
 腰の位置までスライムに漬かりながら、恥も外聞も無く俺は叫んだ。
 股間の大事な部分に、流動するゾル状の物がうごめいているのは、きわめて良くない。下手に体を動かすと大変なことになってしまう。
 粘度が高すぎて掻き分けて動くこともできず、俺は助けを求めながら沈まないようにバランスをとることしかできなかった。スライムはあっという間に首あたりまで迫ってきており、非常にピンチだ。仕事柄いろんな本を読んできたが、いかなる英雄譚にも浴室でスライムに溺れて死ぬ、というのはなかった。平凡な人生だったが、死に方だけは斬新だった、と言われてしまうのだろうか。
 スライムまみれという現実も嫌だが、さらに悪いことには消化酵素のようなものを分泌しているらしく、体のあちこちがピリピリしている。つまり、俺の体は溺死と消化の二つの線から風前の灯火であり、エマさんが助けに来るか、何かの拍子で扉が開かない限り死亡が確定。せめて、もうちょっとかっこよく死にたい。
 粘液の中でやっと手を動かすと、俺は力一杯扉を叩いた。本当は殴るぐらいの勢いで力を込めたのだが、速度が出ないのだ。それでも何もしないよりはマシだ。エマさんが気づいてくれるのを願いつつ、顎を上へ向けて叫ぶ。
「エマさーん! 死にそうなんでー! 助けてー!」
 自分で言っておいてなんだが、もうちょっと上手い表現があったと思う。
 ありがたいことに、この間の抜けた叫びは通じた。
「コウか? さてはアレを開けたな!」
 扉の向こうからエマさんの声がする。どこか呆れたようにも聞こえたが、とにかく俺は安堵した。
「スライム! スライムがいっぱいなんで! 助けてー!」
「ちょっと待て!」
 そう言ってから何か呟きのような声が聞こえてくる。おそらくは呪文の詠唱だったのだろう。スライムは潮が引くようにどこかへ流れていく。
 助かった。ひどい目に遭った。
 スライムがきれいに浴室から消えると、掛け金が外れるような音がした。スライムとこの浴室のロック機構で一つの仕掛けになっているのだろうが、今の俺にはそんなことはどうでもよかった。
 俺は即座に扉に手をかけ、そこを飛び出した。風呂場はもうこりごりだ。
 扉の前にはエマさんが立っていた。
「ありがとうございました。助かりました」
 俺は深々と頭を下げた。
「礼には及ばない。あれは原生生物を使った浴室掃除用の仕掛けだったんだが、説明するのを忘れていた。悪かった」
 だからいつも風呂が綺麗だったのか。
 それはともかく、エマさんのおかげで助かったことには違いない。元はといえば、俺が勝手に作動させたのが悪いのだ。『好奇心、スライムで司書を殺す』という新しいことわざが生まれるところだった。
「いや、俺も勝手に仕掛けをいじったりしてすいませんでした」
「ああ、いいんだ……頼むから、後ろを向いてくれないか?」
 エマさんは顔を赤らめて俺から目をそらした。
 この流れは前にも見た。
 そのとき俺は全裸で、今も全裸だった。俺は自分の状況を理解した。
「うわあああああ!」
 俺は絶叫した。今の俺は二つの意味で大変なことになっていた。一つは、自分が素っ裸ということ。それと、もう一つはスライムに漬かっていた部分の……その……毛が、全部、抜けていたことだった。意図せずして、俺の首から下は全身脱毛されていた。もし頭まで漬かっていたら丸坊主になっていたのか……しかし、エステに行ったみたいにツルツルの肌は、素直に喜べなかった。
 俺はその場でターンし、エマさんに背を向けた。たぶん、脱毛したところも見られただろう。どこかへ雲隠れしたい気分だ。いっそ、殺してくれ。
「と、とにかく無事でよかった! し、仕掛けはっ! 今度っ! 改良しておくっ」
 うわずった声でエマさんがフォローを入れてくれたので、余計にダメージが大きかった。
「わ、私は外に出てるからなっ! 何かあったら呼ぶんだぞ!」
「わかりましたっ!」
 すぐそばに居るのに、なぜか二人とも大声を出してしまう。
 エマさんが脱衣所から外に出て行くのを確認すると、俺は急いで服を着た。あるべき毛がないというのは何だか変な気分で、下着も上着も全部違った感触に思える。服を着ているのに、裸でいるような気分だった。
 そそくさと脱衣場を出ると、エマさんが座り込んでいた。
「すまなかった」エマさんは落ち込んだ様子で言った。「身体に異常は無いか?」
「大丈夫です」
「あれは魔法で簡単に制御できるんだが、キミにはできないことを念頭に置くべきだった。完全に私の失態だ」
「ま、まあいいじゃないですか。こうして無事だったわけですし。俺も気にしてませんから」
「怒ってないのか?」
「全然」俺は首をぶんぶんと振った。
「そうか……」
 エマさんは安堵した表情でため息をつき、そのまま黙り込んでしまう。
 うん、とっても気まずい。
 何か話して和ませなければ。
「あ、あのスライムって、脱毛できるんですね」
 場を持たせようとした言葉のキャッチボールは、俺の暴投によって初手から躓いた。もうちょっと何か、違うことが言えたんじゃないか、俺?
「そ、そうなのか? それは大発見だな」
 何かを思い出したのか、エマさんは狼狽えながら言葉を返す。
 沈黙が重い。
 思い切って俺は聞いてみた。
「あの……見えましたよね?」
「み、見てない! 見てないからっ!」エマさんが慌てて否定した。「いや、見たとしても忘れるっ!」
 ばっちり見た、という意味で受け取っていいようだ。
 エマさんは深呼吸した後、額に汗の玉を浮かべながら渾身の虚勢を張った。
「安心したまえ。男の裸はキミが初めてじゃない」
 それはフォローになっていません。
「今日は風呂はやめておく。寝る」
「俺もそうします」
 お互いに憔悴しきった顔で脱衣場を抜け、それぞれの部屋に戻る。
 エマさんは研究室とつなぎの寝室に。俺は一階の空き部屋に。
 俺の寝室は、物置だった場所を片付けて作られた部屋だ。ベッドの代わりに麻袋にわら束を詰めた物が寝床になっていた。ちょっとゴワゴワするが、贅沢は言えない。というより、慣れた。
 俺は寝床にダイブすると、今日の成果を省みる。
 目録が五冊。食事は満足してもらえた。掃除もほぼ予定通り。診察の結果も異常なし。あと裸を二回見られた。スライムに脱毛された。
 総評。全然駄目。
 明日はもっとしっかりしよう。
 そう思ってから俺が眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。