町立図書館の臨時職員として働いていた俺は、その日地下の書庫で仕事をしていた。
どこかの先生が亡くなったので、寄贈のために図書館に持ち込まれた本。それは段ボール十箱分もあり、皆がその扱いについて困っていた。貴重な本も少なからずあるようなのだが、ほとんどが外国語の本であり、町の図書館に置くには少々専門的すぎる。
民俗学か宗教学を研究していたらしく、怪しげな装丁の革装本の山は、町の図書館向きではない。俺個人としては、こういう本は宝の山のように見えるが、中身についてはさっぱりだった。
結局、寄贈された本は日本語の物だけ置いて、他は県立図書館に預けようという話になり、俺が詰め替え作業を仰せつかった。
古くなって赤茶けた粉を吹いた本を、間に紙を挟みながら詰めていく。いっぱいまで箱に詰めたら、書庫の隅に置いていく。割と孤独な作業だ。
そんな中、一冊の本が俺の目にとまった。それはまるで肌に吸い付くような、今思えば異様な装丁だった。人肌に触ったかのように滑らかで、僅かな湿り気さえ感じた。革装の本は仔牛や羊などの革で作られていることが多いが、それは今まで俺が触ったことのないような手触りだった。きめは細かく、色は僅かに青みを帯びた黒。タイトルもなく、表紙の四隅には角の補強のための金具が鋲で留めてある。金具は長い年月を感じさせるように黒く変色していたが、指で触れると氷のように冷たかった。
俺の記憶にある限り、こんな本はなかったはずだ。
それは、明らかに俺を呼んでいた。『開け』と。
逆らうことはできなかった。
俺はぼんやりとした感覚にとらわれ、本を開いた。
何かが聞こえた。それと、光。
次の瞬間には俺はクレアールに飛ばされ、文字通り空から落ちてくることになったのだ。
「もうちょっと遅かったらドレアドに食われただろうな」
感慨深げにエマさんは言うが、笑い事でも懐かしんだりするような事でもなかった。
ドレアドというのは、森に住む肉食のトカゲみたいなやつらしい。何でも食うらしく、人間も例外ではないとのことだ。獲物を足から噛み砕きながら飲み込む、という余計な情報も聞かされた。
いきなり異世界に飛ばされた上、空中に放り出されて全身打撲に骨折、そして身動きできずに生きたままトカゲに食われるオチは、いくら何でもあんまりだ。ファンタジー小説の中でも聞いたことがない。幸いにして、俺はたまたま森に出ていたエマさんに助けられ、今こうして生きているというわけだ。
ちなみに俺を食べる予定だったドレアドは、昨日と一昨日の俺たちのご飯になっていた。味は鶏肉みたいで意外とおいしかった。これも食物連鎖の一つとして成仏してほしい。この世界に仏やあの世があるかは分からないけれど。
右手、左手、背中、脇腹、左足、と順に魔法の光が当てられ、今日の治療は終わった。
ここに運び込まれたときはあちこち折れていたが、ものの数日で骨折は鈍い痛みを残すだけになり、一週間足らずで俺の怪我はほとんど治っていた。実際、魔法の力は凄いと言わざるを得ない。昔交通事故に遭ったときは、肩を折っただけでも動かすのに一ヶ月はかかった。
「この手の魔法はあまり使ったことがないんだが、いい練習になった」
そう言ったエマさんの肌からはすでに紋様が消えている。魔法を使うときだけ浮かび上がるようだ。
「ありがとうございました」
俺はエマさんに頭を下げ、それから服を拾い上げた。
「それで今日の食事は何だ」
元の世界に戻る手段が見つかるまで、食事は俺が作ることになっていた。家政婦兼、個人司書というわけだ。
「なにか希望はありますか?」
「ううむ」エマさんは腕組みをして考え込んだ。「おまえに任せる」
さもありなん。エマさんの料理の腕は壊滅的だった。壊滅という単語を使っても足らない。ベッドで寝ていたときに、最初に振る舞われた粥のような物は、控えめに表現しても糊だった。
「じゃあ食料庫の材料をみて、決めます」
「うむ。わかった」
偉そうにエマさんは返事を返したが、その顔は明らかに期待していた。この人、俺が来るまでは普段は何食ってたんだろうか。
浮かび上がる疑問を胸に、俺は研究室の扉を開けて地下の倉庫へと向かった
この世界に冷蔵庫はないが、似たような仕組みの物はある。地下倉庫の一角には人が余裕で入れるぐらいの巨大な氷の箱があり、食料品はそこで保存されていた。俺がここに降り立ったときには、ミイラ化したニンジンのような物やその他不可解な食材が永遠の眠りについていたが、家政婦特権で全部処分した経緯がある。
今は新鮮な野菜や、ブロック状に切り分けたドレアドの肉が置かれている。
エマさんが頼んだのだろう、食材は地元の人がわざわざ届けてきてくれていた。この辺り一帯はエマさんの土地であり、形式上は領主と言うことになっているらしい。見たことのない野菜ばかりだが、形から何となく使い方を考えてみることにした。
カブっぽいものやジャガイモのっぽいものは、たぶん煮て食える。葉物は一枚ちぎって噛んでみたが、レタスとセロリを一緒にしたような味だったので、これはサラダにできる。
肉はここ数日焼くばかりだったので、鶏肉っぽく茹でてほぐし、サラダに添えよう。
ネタは決まった。
俺は食材を抱えて階段を上り、キッチンへ運び込んだ。
ここも初めて来たときはひどい有様だったが、今はきれいに掃除され、機能的に整理されている。ナイフは全部研いだし、鍋の焦げ付きも全部こすり落とした。掃除だけで丸二日かかったが、その成果はあった。やはりキッチンたるもの清潔でなければいかん。
俺は汲み置きの水を鍋に入れて、料理を始めた。かまどの熾火に薪をくべて、火をつける。
それからカブっぽいものの葉を落とし、イモの皮をむきながら鍋の湯が沸くのを待った。自分がこの世界に適応しつつあるのはなんだか複雑な気分だ。開き直ってしまえば世界の何処でも生きられる、ということなんだろうか。
帰れるものなら帰りたい。が、それができるかはエマさんにかかっている。彼女曰く、別の世界に転移するにはすさまじい量の魔力と繊細な術式が必要と言うことだ。それだけのリソースをどこから持ってくるのか。どういう術式を組めばいいのか。前代未聞の大魔法なだけに、万に一つの失敗も許されない。
失敗したどうなるのかと聞いたら、運がよければさらに別の世界に飛ばされる(ただし、人間が生きて生きられる世界とは限らない)、最悪の場合には時空のねじれに放り込まれ、そのまま永遠にさまよう羽目になるとのこと。
どっちの可能性も絶対駄目なので、俺には待つことしかできない。だったら、俺は俺にできることをするしかないのだ。
都合がいい、といっていいのかどうかわからないが、エマさんにはまともな家事能力がなかった。交換条件としての労働力は、思った以上に簡単に受け入れてもらえた。炊事、洗濯、本の整理。代わりにエマさんは元の世界に帰る手助けをする。元々一人暮らしが長かったので、こういうことは大して苦ではなかった。
皮むきが終わったところでちょうど湯が沸いたので、俺は煮立った湯に野菜を放り込み始めた。塩を足しておくことも忘れない。
俺自身の体を使った実験により、このキッチンにおける調味料のなかで使える物は岩塩の塊だけ、ということがわかっている。この状況はいずれどうにかするとして、今は塩だけでやりくりするしかない。嗚呼せめて、胡椒と醤油があったなら。ついでに味噌と昆布と鰹節があったなら。さらに贅沢を言うなら白いご飯があったなら。
白いご飯。
危険な空想だった。それを口にしなくなってまだ一週間しか経っていないのに、俺はその単語を思い出したことによって禁断症状に陥った。炊きたてのご飯の匂いは新しい本のインクと同じぐらい官能的だ。この世界に本はあるが、ご飯はあるのだろうか。なかったらどうしよう。果たして、俺はご飯のない生活に耐えられるのだろうか。
いやしかし、と俺は思い直した。麦があるのだ。ご飯だってあるかもしれない。麦しかなかったら……麦を炊くしかない。やったことはないが、食べられないということはないはずだ。
元の世界に帰れたら、絶対にご飯を食べよう。一トンくらい。
鉄串を通して大体煮えたことを確認すると、素焼きの器に盛っておく。
ドレアドの肉は薄くスライスして野菜を茹でた湯に通す。色が白くなったあたりで取り出し、よくほぐしておく。これであとは、あの葉っぱをちぎってサラダにすればいい。
瓶入りドレッシングなど言う気の利いた物があるはずはないので、自作する。使えるのは塩だけだが、工夫のしようはある。
エマさんが飲んでいる酒は、風味も香りも赤ワインそのものと言ってよかった。それを少々拝借して、小鍋にたっぷりの塩と一緒に入れる。あとは水分が飛ぶまでそれを煮詰めて、サラサラになったらできあがりだ。
何の油だかわからないが、とにかくそれと和えれば即席のドレッシングの完成である。
こんなことができるのも、図書館で料理雑誌を愛読していたおかげだ。まさか、異世界で役に立つとは思っていなかった。あり合わせの物で作った割には、なかなかの仕上がりだ。
俺は作った料理をお盆に載せると、エマさんの研究室へ上がっていった。
食うのは一瞬だった。
「これは……なんてことだ!」
エマさんからもらえた感想はその一言だが、がっつきぶりから察するに十分に満足してもらえたようだった。皿には欠片一つ残っていない。俺の勝ちだ。人の心を掴むなら、まずは胃袋から。叔父さんの教えはいつも正しい。
「お粗末様でした」
俺はエマさんの前から食器を片付けた。
「コウ、いつも気になるんだが……なぜ自分の作った料理のことを、そんなに低く評価するのだ?」
エマさんの疑問はもっともかもしれない。どうしても、日本語の受け答えにはへりくだるような表現が多い。
「ああ、俺の国では謙遜してそういう風に言うんですよ」
「おかしな国だ。自信があるなら胸を張って返せばよかろう」
「最近は言わない人の方が多いですけどね。俺の場合は口癖のようなもんです」
「では、やめたまえ。これだけのものを作る腕があるなら、謙遜する必要はない」
「努力します」
俺は苦笑いするしかなかった。エマさんの言うことには一理ある。身についてしまうとなかなか変えられないのも事実だが、必要以上の謙遜は卑屈に映ることがあるのは注意すべきだった。言葉っていうのは難しい。
「コウがこれほど料理ができるとは思ってなかった。ひょっとして魔法の心得があるのか?」
「ありませんよ。今日の料理は全部茹でるか、洗ってそのまま出したもんです」
「いや、しかしだな。ただ煮るだけでこうはなるまい?」エマさんは疑問とも好奇ともつかない眼差しで俺を見ている。「なにか、あるはずだ」
「何もありませんってば。信じられないなら、今度一緒に厨房に立ちますか?」
「ばっ! 馬鹿者! 未婚の者がそのようなことを言うでない!」
エマさんは顔を真っ赤にしながら怒った。何かまずいことを言ったのだろうか。
「一緒に料理をしたらいけないんですか?」
「それはだな、若い男女が、その、夜をだな」
エマさんが言葉を濁している。おかげで、さっぱりわからない。夜がなんだというのだろう。
「つまり、それは今夜、一緒に……ええい! これ以上言わせるつもりか、この変態め!」
共同作業の提案をしただけで変態扱いされるとは思わなかった。なにか、よほどよくない理由があるらしい。
「俺の国ではそんなに珍しい話じゃなかったですよ?」
「なんだと!?」エマさんは目を見開いて絶句した。「馬鹿な……なんて恐ろしい国だ」
全くわからん。
「おまえの国はいったいどんな国なんだ」
「どんな国と言われましても……普通ですよ。人が住んでて、生きてる。魔法はなかったですけど」
「魔法なしで生活を? 想像できないな」
「ああ、電気はありましたよ」
「そのデンキというのは何だ」
仕組みを話してもあまり理解できないだろうと思ったので、俺は簡単に解説した。
「雷のことです。俺の世界では雷を起こして、それを使って道具を使うんです」
「それは魔法ではないのか? それとも精霊を閉じ込めているのか?」
案外、解説が難しい。相手が前提となる知識を持っていないので、どう言ったらいいものか迷う。
俺は努めて自然にあるもので説明することにした。
「色々な方法でお湯を沸かして、その蒸気で大きな風車みたいのを回すと雷が起きるんです。俺の世界ではそうやって作った雷を針金に通して使ったりしてるんですよ」
「ううむ。原理が全くわからん。湯を沸かして風車を回すだけでなぜ雷が? 小さな雨雲を作り出す装置だとでもいうのか?」
「磁石……ってわかります? 金属にくっつく石ですが」
「テグマスのことだな。わかる」
「その周りで針金を巻いたものを動かすと、弱い雷が針金の中に生まれるんです」
そういう表現でいいのかどうかはともかく、原理的にはたぶん間違っていないだろう。
エマさんの目がまん丸に見開かれた。
「その話が本当なら……コウ、それは大発見だぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。テグマスと雷が同じ性質を持っている、ということは、魔法の術式に大きく影響してくる。それに私が知る限り、テグマスを魔法の触媒に使った例はない。これはいいことを聞いたぞ……」
なんだか悪そうな顔をしてるんですが、エマさん。
「お前の知識は色々と役に立つ。元の世界に帰らず、ここで暮らすのはどうだ?」
エマさんは真剣な表情で提案してきた。それは彼女の研究にとって、俺の持つ現代社会の知識がブレイクスルーを起こすためであり、他意はないのだろう。
ここにいれば、俺は必要とされる事も多くなるだろう。待遇や立場を考えれば、元の世界にいたときよりも、満足のいく生活ができるかもしれない。だが、俺はこの世界の人間ではない。本来、居てはいけない人間なのだ。タイムパラドックスものの物語で歴史が変わってしまうように、俺という存在がこの世界によくない影響を及ぼしてしまうことだってあるかもしれない。
「いえ、俺は元の世界に帰ります」
俺はそう答えた。
「そうか」
エマさんもそれ以上は言わなかった。