shadow Line

塔の魔女と俺-1

 本。本。本。
 目の前には山のように本があり、俺はそれと対峙していた。
 とはいえ、これが俺の仕事だ。本を両脇に抱えて机に戻り、そいつと睨めっこする。
 俺の名前は朝倉 洸。図書館司書だ。いや、司書だった、というべきか。
 今の俺の仕事は個人宅の本を整理することだ。毎日、部屋に押し込められた本の山を引っ張り出して分類し、整理し、蔵書として体系化する。そんな仕事を、一週間ばかりやっている。
 ちょっと前ならパソコンがあったし、分類も日本十進分類法というものがあった。カテゴリ分けに困ったら基本件名標目表をみれば何とかなった。人に聞いたり、ネットでほかの図書館の分類も参考にできた。
 今あるのはランプと、覚えている知識だけ。何の本で、どう分類して整理するかは全部自分で考えなくちゃならない。しかも本一冊一冊が馬鹿でかくて重く、殴ったら殺せそうな鈍器まがいの代物と来ている。ブックトラック……本を載せて運べる移動式の棚があればもっと作業が楽だが、それもなかった。
 司書の仕事は給料が安かったし、変な利用者も来るし、力仕事も多かったが、それでもひどく懐かしい。置いてきた色々な物のことも思い返してしまう。
 大丈夫かなぁ、冷蔵庫の牛乳。
 いや、まだ大丈夫だ。文明の力を信じろ、洸。あともう一週間くらいは平気なはずだ。無事帰れれば。
 改めて、机に積んだ本を見る。
 全く知らない文字だ。頑張ればアルファベットが変形したように見えなくもないが、読めないという事実は変わらない。
 俺は大きくため息をついた。
 窓の外に広がる森はどこまでも続いているように見えた。空にはニワトリの羽を全部鱗にして十倍くらいに拡大したような生き物が飛んでいた。どう見ても肉食だろうなぁ、とぼんやり思う。
 見知らぬ場所。見知らぬ生き物。
 俺はどういうわけか、別の世界に来てしまっているのだった。

 この世界は『クレアール』と呼ばれているらしい。
 機械や電気はないが、魔法はある。空を飛んだり、手から火を出したりする、あの魔法だ。今、俺がこうして何とかクレアールの世界に適応できているのも魔法のおかげだ。正気を疑われるかも知れないが、本当にそうなのだ。人生、何があるか分かったもんじゃない。
 左手の中指にはまった指輪。
 元々は家畜と意思疎通するための道具だそうだが、俺のように言葉の通じない人間にも効果があるらしい。原理はともかく、ありがたい代物だった。
 だが、残念なことに文字を翻訳してはくれない。何が書かれているのかは、辞典らしき物から書き写したメモだけが頼りだ。俺にとっては暗号の解読と同義だった。
 ようやく単語を二つほど解読したところで、傍らに置いてあった砂時計が鈴のような音を出した。
 俺は作業途中の本を本棚に戻し、それから書庫を出る。
 書庫から出ると目の前は踊り場になっており、そこから階全体を取り囲むように階段がある。下にあと三フロア、上に二フロアある、塔のような構造だ。いや、「ような」ではなくて塔と言うべきだろう。俺は階段を降りてすぐ下のフロアへと足を運んだ。
 塔は、魔法による物なのだろうが一分の隙もない石積みで作られている。所々、石そのものが発光して足下を照らしていた。飾り気はないが、合理的な作りだった。
 書庫の真下は研究室になっている。俺は扉の前に立つと深呼吸した。すすけた茶色をした木の扉は、人の侵入を拒んでいるようだ。以前ノックをしたら、金属のように堅かったのを思い出す。
 俺は金属製のノッカーを二度打ち鳴らすと、声を枯らす勢いで主を呼んだ。
「エマさーん! 時間になりましたー!」
 ややあって、扉が開いた。
 顔を出したのは、この塔の女主人のエマ・リットさんだ。
 目を見張る美人、というものがいるとすればこんな人だ。本物を見たことはないが、ギリシャ彫刻の女神とかがこんな具合だった。白とも金ともつかない不思議な髪の色をしたその女性は、偉そうな口調で俺に言った。
「入ってこい」
 招かれるままに、俺はエマさんの研究室に入る。
 ……相変わらず、汚い部屋だ。
 散らかした本、洗ってないガラス瓶、ほこりの積もった床、そして部屋いっぱいに充満する奇妙なにおい。机には飛び散ったインクの跡がたくさんあり、書きかけの羊皮紙にも青黒い汚れがこすりつけられている。
「あのー」差し出がましい真似だとはわかっているが、俺は言わずにはいられなかった。「やっぱりこの部屋、掃除しましょうか?」
「駄目だ」エマさんはこちらを振り向き、断固とした口調で言った。「どこに何があるかはわかってるんだ。それに危険な薬品もある。素人が触っていい物じゃない」
 危険な薬品があるなら、なおさら整理しておいた方がいいのでは、と思うのだが。
「それに、キミには仕事をまかせているだろう」
 エマさんが近づいてきたので、俺は少し視線をずらした。彼女の格好は、若い健全な男子が見るにはいささか目の毒だ。
 胸と腰を覆っているのは薄っぺらい切れ端のような布だけで、服と言うより下着か、水着。スタイルは見事としか言いようがなく、うらやむほどの大きさの胸に、滑らかなくびれを描くウエスト、ともすれば布地が食い込むほどの優美なヒップラインが、お色気三重奏といった勢いで俺に迫ってくる。
 しかも、本人にとっては普通の格好であるため、恥じらいというものが全くない。後ろめたい気分なのは俺だけ。正面から迫られると、いやでも胸に視線が向いてしまう。大きいことはいいことだが、露出度九割の巨乳を真っ正面から見続けるほど、俺の心は強くなかった。正直言って、ものすごく恥ずかしい。こういうのは、えっちな御本でたしなむ程度にしておくのが健康のためだ。
「どうした?」
「何でもないっス」俺はちょっと腰が引けた状態で答えた。
「調子でも悪いのか?」
 俺の顔をのぞき込むように近づいてくるのだが、そのせいで胸の谷間がことさら強調されるので、俺の一部が危うく元気になりそうになった。
「いや、大丈夫です」
 俺は深呼吸した。
 思い出すんだ、洸。ときどきカウンターに来た、紫のおばちゃんのことを。香水の臭う、変なシースルーの服を着た、あの太ったおばちゃんのことを。
 とたんに俺は憂鬱な気分になり、この部屋どころか世界そのものから逃げ出したい気分になった。もうちょっとマシなものを思い出せばよかった。
「じゃあ服を脱いでくれ」
 エマさんに言われるままに服を脱ぐ。
 元の世界できていた服は洗濯中なので、今の俺はTシャツみたいな貫頭衣に麻のズボン、それとふんどしみたいな下着を身につけている。ズボンにベルトはなく、折り返した布地に通した紐で、腰に締め付けて止めている。下着は細長い布を股下から通して腰に巻き付けているが、これが正しい着方かは分からなかった。特に教えてもらえなかったが、女性に下着の事を聞くのも気が引ける。尻のあたりがスースーして変な感じだが、着心地は案外悪くなかった。
「馬鹿者! 下着は脱がなくていい!」
 エマさんが叫びながら赤面していた。
 俺は服を全部脱いでいた。
「う、うわああああ!」
 事故だった。ズボンを脱ぐときに、一緒に下着も引っかけてしまったらしい。そりゃスースーするわけだ。
「いいから下着をつけろ!」
 エマさんに怒鳴られて、慌てて俺は下着を拾い上げた。が、うまく腰に巻けない。焦れば焦るほどうまくいかないので、俺はついに下着をつけずにズボンをはいた。ものすごく違和感があるが仕方なかった。
 エマさんは俺から目をそらしたままだった。というか、明らかに見られていた。
「あー、ごほん」わざとらしく咳をして、エマさんは言った。「キミの世界では診察の時は全部服を脱ぐのかもしれないが、ここではそんなことはしなくていい」
「はい」
 俺はうなだれるしかなかった。俺の世界の印象が少々下がったのは間違いない。
「じゃあ、そこに座ってくれ」
 とエマさんが指した椅子の上は、何かの薬品がこぼれて白煙を上げていた。変な臭いの元はこれか。
「おっと、そこはいま実験中だった」
 嘘つけ。
「まあいい。どこか適当なところに……ああ、その本の上がいい」
「ええっ?」
「椅子がないんだから仕方がないだろう」
 本を愛する者としては断固として拒否したいところだが、尻を焼かれるのと二択なら、本の上に座るぐらいの柔軟性は持ち合わせていた。
 俺は渋々積み上げられた本の上に腰掛けた。
「右手を前に」
 エマさんに言われるがままに右手を伸ばす。エマさんは不思議なリズムで何か呟きながら、触れるか触れないかの位置で俺の手に両手をかざした。彼女の手のひらは燐光を帯び、それに呼応するかのように露出した肌のあちこちから幾何学的な模様が浮かび上がる。よく見れば、紋様は内側ではなく外側から光っていた。何かが彼女の周りに集まり、肌の紋様がそれに反応しているのだ。
 エマさんが露出度の高い格好をしている理由がこれだった。
 彼女曰く、「魔法の源を外から吸収し、体内で調整して使う」流派なのだそうだ。あの格好にちゃんとした理由があった事が驚きだった。初めて会った時は露出狂の変態かと思った。裸みたいな格好をした女の人と出くわした場合、大抵は喜ぶより動揺するものだ。
 エマさんの手から発せられる光は、太陽のように暖かく俺を照らしている。その熱は俺の肌から浸透して骨まで届いていた。その感触は接骨院で当ててもらった赤外線治療器に似ている。エマさん曰く治癒を促進する魔法とのことで、日に一度この処置を受けていた。
「調子はどうだ?」
「特に痛むところはないです」
「そうか。あれだけの怪我を負った割に回復が早いな」
 感慨深げにエマさんが言う。
 俺も、あの時のことを思い出していた。