shadow Line

今よりもっと、とくべつに 4

 その言葉の意味するところ。
  体温がさらに上がる。鼓動が早まる。背筋に悪寒めいた戦慄が走る。筋肉は萎縮し、四肢は麻痺したように動かない。
  求められることに幸福感を感じるべきであろう。
  しかし読子を支配したのは、困惑。
  その理由も定かでないまま、状況は進んでいく。
「返事が無いわね、読子。私はどうしたらいいのかしらね? このまま楽しませて貰うべきかしら? それとも、健全な立ち位置に戻るべきかしら?」
「せ、先輩は……」何とか言葉を吐き出す。「先輩はどうしたいんですか?」
「それを私に聞くと言うことの意味を分かっているのかしら? 進んで間違いを犯すのも恋の妙味なのだけれど?」
  ゆきなの艶を含んだ声は魔性の響きを帯びていた。
  間違いの意味を悟り、その結果に怯えながらも読子は拒みきることができない。
  ゆきなの手が、僅かに外へと動く。
  その行為の先にあるもの。読子がいずれはと望み、今は望まぬ出来事。
  読子の肌は粟立った。
「ただい……ま?」
  ドアノブに手がかかる音に二人が反応するより先に、ランニングを終えた瀬方 海が室内に足を踏み入れる。
  最悪のタイミング。
  いや絶妙と言うべきか。
  背中を剥き出しにしている読子。
  その肩に手を掛けているゆきな。
  ドアの前で硬直する海。
  寸劇そのものの光景に、一瞬の間が空く。
「すまん! そんな、あれが、ええと。取り込み中だったなんて知らなかったんだ」
  文字通り海は飛び退くと、慌てて部屋を飛び出した。
「入ってらっしゃい。別におかしな事をしている訳じゃないのだから」
  ゆきなはその後ろ姿を制止する。読子の肩に滑り込ませていた手は、いつの間にか彼女のワンピースを正す動きに変わっていた。
「いや、本当、もう、その、ごめん! 悪かった!」
  振り向くも視線をそらしたまま、海は弁明する。
  その慌てように、ゆきなは苦笑いする。
「廊下で大きな声を出さないの。いいから、部屋に入りなさい。外に聞こえているんだから、これ以上騒ぎにしないで」
「でも、ほら……」
「貴方が思っているようなことじゃないわ。サイズ違いが招いた、ただの喜劇よ」
「そ、そうか」
  理解できないながらも納得した海は、靴を脱いでしずしずと部屋に入った。
  三人でテーブルを囲むも、海も読子も黙ったままだ。
  耐えられなくなって口を開いたのはゆきなだった。
「何で反省会みたいになっているの?」
「でもさあ……」
「貴方がそうかしこまると、読子がくつろげないじゃない」
  ゆきなの口調は不服そうだ。
「いや、あたしのことは気にしないでくれよ」
「ふう……」ゆきなはあからさまにため息をついた。「貴方は空気が読めているのか、鈍いのか、時々分からなくなるわね」
「酷い言われようだなあ。誰だって、お楽しみのさなかを邪魔したらばつが悪くなって当たり前だろ」
「膝抱っこに失敗した読子の打ち身に、薬を塗ってただけよ。誤解も甚だしいわ。ねえ?」
  ゆきなは読子に同意を求めたが、当の本人は耳まで赤くしてうつむくだけだった。
  その姿に海までいたたまれなくなって顔をそらした。
「あー。ちょっと汗かいたしシャワー浴びてくる」
「たった今、そのシャワーから帰ってきたところでしょうに。そんな見え透いたごまかしが通用するわけないでしょう。落ち着いて、お茶でも飲んで、『ひょっとして邪魔したかな?』くらいで済ませとけばいいのよ。裸で抱き合っていたわけでもあるまいし」
「誤魔化してるのは宮影もだろ……読子ちゃんの態度でダダ漏れだ」
「あくまで情事の邪魔をしたということにしたいなら――いいわ。汗かいているらしいから、私と読子で隅々まで拭いてあげる。そしたら気まずいのも吹っ飛ぶでしょ」
「ま、まて! そういうことじゃない!」
  海は本当に汗を滲ませてうろたえる。
「貴方もスキンシップしたいんでしょう? 仲間に入れてあげるわよ」
  二人のやりとりを聞いていた読子は、ふと顔を上げて叫ぶ。
「やっぱり私、帰ります!」
  そしてぬるくなった紅茶を一息に飲み干すと立ち上がった。
「ごちそうさまでした!」
  ハンドバッグを掴むと一礼して、そのまま駆け去って行く。勢いよく開けられたドアはゆっくりと閉まり、足音は遠ざかっていった。
「おい、読子ちゃん追いかけなくてもいいのか」
「あの子なら大丈夫よ。怒っているわけではないから」
  ちらりとドアの向こうに目を向けて、また海へ視線を戻した。
「邪魔するつもりはなかったんだ、宮影。本当にごめん」
  テーブルに両腕をついて、海は深々と頭を下げる。
「だから何度も言ってるじゃない。自分も膝抱っこしてみたいと言うから、私が乗ったらひっくり返っただけだって」
「でも、あたしがちゃんとノックして入ればこんな事には」
「読子はただ照れてるだけだから。何も逃げることはないのにね」ゆきなは涼しい顔で紅茶を一口飲み、それから付け加えた。「これからもっと恥ずかしいことがあるかも知れないのに」
  海は絶句した。
「やっぱ宮影はすごいな」
「すごくないわ。海だって、男とつきあったらそういうことをするかもしれないじゃない。結婚したら絶対するわ。それと一緒よ」
  堂々としたゆきなの回答には、海も苦笑いするしかなかった。
「あけすけだなあ」
「事実だもの」
「まあ、でも、宮影があの子を気に入ったのは何となく判る気がする。いい子だな、彼女」
「いいでしょう」ゆきなは悪戯っぽく笑った。「あげないわよ」
「取らないから安心しな。大事にしろよ」
「まるで恋敵の捨て台詞みたい」
「泣かすなって意味だよ」
「判っているわ」
  ゆきなは自分の手を見る。
  そこにはまだ、読子の感触が残っている。彼女の匂い、彼女の質感、彼女の体温。そういったものがありありと蘇る。半ば強引とはいえ、もう一度告白させたあの言葉が響く。得がたい幸福感と、目も眩むような充足。
  こんな感覚をもう味わうこともないと思っていたのに。
  自分は溺れている。
  胸の奥に芽生えた苦しさを押し隠し、ゆきなは海に笑みかけた。
「それより海、お茶でもどうかしら?」
「いいね。ちょうど喉が渇いていたところだよ」
「2杯目だから少し薄いかもしれないけど」
  ポットの湯をゆっくりと満たしていく。ベルガモットの香りは先ほどと同じなのに、読子が居ないだけでずいぶんと味気なく思えた。
「なあ……宮影」
  海は改まった口調で口を開いた。
「なあに?」
「あたしに遠慮なんかするなよ? 部屋ぐらい、いつでも空けてやるから」
「どちらかと言えば、二人だけにしないで欲しいわ。危ないのよ、いろいろと」
  海がいれば少しは歯止めになるだろう。
  自分が燃えやすい体質だと言うことを久しく忘れていた。時が経っても、人の本質は変わらない。駆け引きも主導権も関係ない。欲しいと思えば、そこに手を伸ばさずにはいられない。たとえ、この身を灼かれようと。
  それをまざまざと思い知る。
  また二人きりになったら、本当に押し倒しかねない。
「あたしはお目付役かい」
「安全弁ね。今度は逃げちゃ駄目よ」
「あー。とんでもない役目を背負わされた気がする」
  海は頭を抱えた。
「大丈夫、別に見せつけたりしないから」
「さっきのだけで十分ごちそうさまだよ」
「海もしてあげようか? 膝抱っこ」
「遠慮する。読子ちゃんにばれたら殺される」
「両手に花も悪くないのに」
  読子が嫉妬したら、どんな感情を自分にぶつけてくるだろうか。酸いも、甘いも、苦いも、全ては一つ。それが恐るべき邪悪であると知りつつ、自分は読子の激情を愉しんでしまうことだろう。
「そりゃ宮影だけだ。あたしゃ面倒事は真っ平御免だ」
  海は渋面のまま紅茶に口をつける。満たされた深い橙色に舌が触れた瞬間、その表情が驚きに変わった。
「旨いな、これ」
  確かめるようにもう一口飲む。
「ミカンみたいな香りがする紅茶だとは思っていたけど、砂糖無しで飲めるんだな」
「それはもう、奮発したもの。いつものティーバッグとは物が違うわよ」
「おーおー。読子ちゃんのためって事かな」
  にやにやと笑って冷やかす。
「当たり前じゃない。こういうときは、年上だって背伸びするものよ」
「あたしらが背伸びしたら天井に付いちまうぜ」
「気持ちの問題よ、気持ちの。本当は3人で飲むつもりだったのよ」
「宮影も空気読んでるんだかそうでないんだか、判らない奴だなあ」
「ひどい言い草ね。勝手に連れ込むわけにはいかないんだし、海にも読子のことを知ってもらう必要があったから、わざわざ部屋に呼んだのに」
「知ってもらう必要って言ったってなあ。部活も違う、学年も違う、そしてあたしは図書室には行かない。接点ゼロの女の子だぞ。どうしろっていうんだ」
「ま、一つは証人ね」
「何か面倒なことが?」
  海が真剣な目つきになる。
  こういう時、彼女は勘がいい。
「噂が流れていると言っていたでしょう? どうも担任の耳にも入っていたみたいなの」
「それはまた面倒な話だな」海は眉根を寄せた。「見当は?」
「心当たりが多すぎね。ただ、噂がしたいだけなのか、明確な意図があるのかが判らないのよね」
  そして悪意があるならば、しかるべき対応を考えなければならない。
「宮影、後輩から人気高いもんなあ」
「変なやっかみ持たれたくないから、部活じゃ平等に扱っていたのにねえ。読子とつきあっているのがばれる事自体は気にしないけど、妙な茶々入れられるのは避けたいの」
  不純同性交遊、という規定が校則には無いにせよ、何者であろうと自分と読子の邪魔をすることは許せなかった。それほどの怒りが自分にあることに少し驚く。
  それは決して表に出ることの無い、地の底のマグマのような感情だった。
「そのための寮とあたしって訳ね」
「そういうこと。ルームメイト公認の逢い引きってところね」
  ゆきなは海に笑い返す。
「宮影にこんなこと言うのもあれだけどさぁ……恋愛って結構めんどくさいもんだな」
「それは認めるわ。面倒なのは男も女も大して変わらないだろうけど。それでも私が男なら、もうちょっと問題は少なかったのにね」
「男だったら読子ちゃんに会えてないじゃん。宮影が女で、この学校に来たから付き合えたんだろ? 宮影は宮影で良かったんだよ」
「ねえ海。惚れそうになるから、あんまり人を感動させるようなことを言わないでくれる?」
  もし読子が居なければ、ゆきなにとって海は押さえておくに値する人物だ。たらしの才能があるのに、無自覚なところが恐ろしい。
「そりゃすまなかった」
「それと飲み終わったら明日の予習ね」
「ぐ……やっぱあたしもやるのか?」
  ゆきなの提案に、海は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
「当然でしょ。勉強は日々の積み重ねよ」
「宮影、本当はさっきのこと怒ってるんじゃないのか?」
「あれはいいタイミングだったわ。抑えがきかなくなるところだったもの。予習に付き合うのはそのお礼よ」
「お礼が勉強っていうのは、ありがたいけど複雑な気分だな」
「教科書見ながら呻いている海は、なかなか素敵だからいいのよ」
「そういう楽しみ方をするの、やめろよな」
「役得よ。さ、教科書持ってきて」
「へいへい」
  海は渋々立ち上がり、机へと向かった。