shadow Line

わたしたちは、わたしたちのもの

 宮影ゆきなは職員室に呼び出されていた。
  身に覚えのない出来事である。そもそも、ゆきな自身は保守的な人間だ。目立つ行動をとった覚えはない。それでも呼び出された以上は出向かなくてはならなかった。
  担任の蒼崎は、隻眼という身体的特徴に加えて表情に乏しく、さらに情のかけらもないような話し方をする教師だ。
  あまり生徒受けはよくない。
  向かい合っているだけで冷や汗が出そうだ。
「さて、宮影さん。わざわざ呼びつけたのはちょっと確認したいことがあったからなのだけれど」
「はい」
「図書室で破廉恥な行為をしていたという報告があるのだけれど本当かしら。カウンター当番の一人と不純な関係であるとか」
  ゆきなは一瞬目の前が暗くなった。
  やはり、誰かが見ている。
  見えない悪意か好奇心か。どちらにせよ、あまりよい結果をもたらしそうにない。少なくとも、担任の耳に入っていることについては。
「彼女には編み物を教えただけで、別に何もしていません。ただ、図書委員の仕事を邪魔したという意味では弁解の余地はありません」
  ゆきなは弁明する。
  教師がほしいのは大抵の場合において反省の言葉だ。先に口にしておけば次の波はやり過ごしやすくなる。
  それを見越しての言葉だったが。
「そう。じゃあ話はおしまい。帰りなさい」
  蒼崎は素っ気ない言葉でそう締めくくった。
  追及されるかと思っていただけに、その言葉の意味を理解するのに3秒かかった。
「何か言いたいことでも?」
  呆然と立つゆきなを見上げて蒼崎が言う。
「咎められるのかと思いました」
「編み物を教えたことを? それとも何か別のやましいことでもあるのかしら?」
「いいえ、ありません」
「ではなにも問題はないわ。部屋に帰って勉強に励みなさい。推薦が決まっていても油断しては駄目よ」
「はい。ありがとうございました」
「お礼を言われるようなことではないわ。 噂話を鵜呑みにして騒ぐのは、自分が愚か者だと言ってまわるようなものよ」
  蒼崎はもうゆきなを見ていない。
  興味を失った、そういう仕草だ。
  知っていてゆきなを見逃したのか、それとも追及すること自体を無意味と思ったのか。
  無表情な蒼崎の横顔からは何も読み取れない。
「失礼します」
  ゆきなは一礼し、それから静かに職員室から立ち去った。

 図書室へ行く道中でゆきなは考える。
 誰かが見ている、というのはあまり気分のいい問題ではない。それはたまたま見かけたのではなく、明確な意図を持って観察していると言うことだ。あるいは、敵意を持って。
「宮影先輩さようなら」
「気をつけて帰るのよ」
  通りすがった後輩に応えて、ゆきなは歩を進める。 
  担任の蒼崎が何を考えているのかは判らない。泳がせる気なのか、どうでもいいと捉えているのか。 
  窓から差し込む茜色の光はゆきなの心を照らしてはくれない。 
  敵意を持っているとすれば自分か、それとも読子に対してか。 
  慎重に立ち回ってきたつもりだが、読子の前ではタガが外れる。あの少女が自分に好意を寄せていたことはだいぶ前から気がついていた。それを知った上で慎重に距離を置いてきた。手芸部にも、そうでない人間にも、自分が好意を寄せられてきたことを知っていたからだ。 
  一時の関係で気を紛らわせるような真似は避けたかった。「そう言うことが出来る」人間がいることをゆきなは知っている。行きずりの仲ではないにしろ、「憧れ」を上澄みだけすくい取って味わい、踏み込むことなく別れてまた別の関係を続けていくもの。 
  唾棄すべき考え、行いだ。 
  ゆきなが欲しいのは慰めではない。自分がアウトサイダーであることを知り、それを許容してくれる人間だ。 
  彼女に期待しすぎてはいけない。そう思いつつも、ゆきなは読子に溺れそうになる。それは慢心かもしれず、見当外れな期待なのかもしれない。だが読子の視線と存在からゆきなはそれを感じ取る。 
  すなわち、「彼女は私を見ている」ということを。 
  容姿ではなく、一個の人間として認められているということを。 
  読子を想うとき、それが欲情だと自覚するほどにゆきなは熱くなる。馬鹿なことだ。こんなにも足早に図書室へ急ぐ自分は、まるで愚か者だ。 
  深入りせずに、冷静な視点を保たなくてはならない。読子への勝手な期待は、それがゆきなの思い込みだったとき、巨大な罠となって顎を開くだろう。 
  本物なのか、一過性のものなのか、見極めなくてはならない。そう念じる。 
  それにしても、図書室への道のりは遠い。いくつの廊下を隔て、どれほどの距離を歩かねばならないのか。 
  地理上では、職員室と図書室は対角にある。学園を縦断するのに等しい。 
  3つの学舎を通り抜けたその先の、さらに奥。 
  ミッション系の色を濃く残す学園にとって、同性愛は禁忌そのものだろう。 
  となれば、ゆきなの心安らげる場所が人気のない図書室、学園の片隅であることはあつらえ向きなのかもしれない。 
  走り出しそうな気持ちを抑え、それでも速度は緩めずにゆきなは最果てを目指した。
 人目を忍んで読子に会うことが出来るのは週に2回ほど。寮生活であるゆきなと通学している読子の接点は、実は少ない。手芸部の活動がないときはこうして顔を出すようにしているが、読子が図書室のカウンター当番でないときに逢うことはまれだった。
 今日も図書室は閑散としていて、人影はない。
 文学少女の一人ぐらい常駐していても良さそうなものだが、学園の図書室にいるのはゆきなの思い人ただ一人だった。
 人目がないのは好都合だが、若者の読書離れが進んでいるのは本当だな、と自分が若者であるにも関わらずゆきなはそんなことを考える。
「こんにちは、読子」
「こんにちは、先輩」
 わずかに頬を赤らめて、赤毛の少女が応える。
 ボリュームのある彼女の髪は、指で梳いたときの感触が素晴らしい。
 その小柄な体格は標準より少し太めという人間がいるかもしれないが、ゆきなからすればまるで問題にならなかった。
 読子の肉付きのいい体は、抱きしめたときの質感が極上だ。
 それを知っているのはきっと自分ひとりだと思うと、独占欲が少し満たされる。
「今日は部活じゃなかったんですか?」
「手芸部の活動はないのだけれど、ちょっとした野暮用。少し困ったことがあってね」
「進路のことですか?」
「いいえ。私たちのこと」
 口調に緊張感を出さないようにする。
 本来部外者である自分がそこに踏みいることは許されていないが、ゆきなはカウンターの中へと入り込む。
 読子もそれを咎めたりはしなかった。
 ゆきなは我が家のように椅子を引いて読子の隣に座る。
「どうやらここで読子と逢っているのを、誰かが盗み見しているみたい。いずれは突き止めなくてはだけど」
 盗み見、という単語に反応して読子は辺りを見回した。
「ひょっとして手芸部の人でしょうか」
「わからないわ。誰であろうと関係ないし、いずれ判ることでしょう。それより、今日は一ついい話があるのよ」
「なんですか?」
「ルームメイトの許可が出たからようやく読子を部屋に呼べるの」
「いいんでしょうか」
「何かやましいことでも?」ゆきなは蒼崎に言われたことを思い出し、つい口にしてみる。
 読子はやましいことを想像してしたのか、俯いて頬を染める。
 彼女は悩んだり何かを想像するとき、ほんの少しだけ眉根を寄せる。それがサイン。それを見つけて、ゆきなは「何か」を手に入れた気分になる。
「ルームメイト同伴だけど、事の仔細は話してあるから大丈夫よ。それとも二人きりじゃないから、がっかりしたかしら?」
「いえ、そんな……」
 そんなことは、無いわけがない。
「我慢なさい。むしろ人目をはばからなくていい分、気は楽だと思うわ。いずれはデートに連れて行ってあげたいけれど」
「はい。えーと、私、何か持って行った方がいいんでしょうか?」
「読子一つ、持ち帰りで」
「も、も、持ち帰りと言うことは、あの、寝間着とか」
「冗談よ。宿泊は認められていないから、パジャマパーティというわけにはいかないわ」
「じゃあ、先輩がうちに泊まりに来ればいいと思います」
「そうね。菓子折り持って挨拶にいかないと」
「どうしてですか?」
「お付き合いするのに、ご両親にあいさつに行かないのも変でしょう?」
「き、気が早いです、先輩」
「冗談よ。……歓迎はされないものね」
「そんなことはないと思いますけど……でも、まだ未成年ですし」
 うろたえる読子の頭をくしゃくしゃとなでる。
「ごめんね、読子。私が男だったらよかったのにね」
「先輩は先輩のままで完璧です!」
 読子は断言する。微塵の迷いもない言葉。
 完璧などあり得ないのに、そう断定するのは盲信ではなく彼女が自分を信頼しているからだ。
 目の前の少女は、その大人しげな容貌とは裏腹に確固たる意志を備えているのだ。
 ゆきなは繰り返しそれを実感させられる。
 読子自身は自覚していないだろう。ゆきなが繋ぎ止めているのではなく、読子が自分を繋ぎ止めているということを。
 読子の言葉は細くて丈夫な麻紐のようなものだ。それは少しずつ我が身を縛る。輪になった結び目が少しずつ閉じていくように。わずかずつ、確実に。
 ならば。
 ゆきなは読子を抱き寄せ、その実体を確かめるがごとく力を込める。
 幻でも夢でもない現実の存在。得難いもの。得難いもの。得難いもの。
 ならば、自分がこうやってささやかな反撃を試みてもいいではないか。
「先輩?」
 腕の中で喘ぐように問う読子の存在を、我が身でもって実感する。
「読子も読子のままで完璧よ」
 ゆきなの言葉で読子の身体は熱を帯びる。
 年上のアドバンテージ。
 読子はそう捉えるかもしれない。
 それが実はただの後出しジャンケンだと気づく日が、いつか来るのだろうか。
「完璧なんかじゃないです」
 腕の中の読子が言う。
 もしかしたら。
 それが甘い幻想だと知りつつも、ゆきなは思う。
 もしかしたら私たちは二人で一つなのかもしれない、と。