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瑠璃の天秤-3

夢の続き。
だがそれは事実を上からなぞっただけの醜悪な見せ物。
今この時にこの夢を見ることに、何かの意図はない。ただの夢だ。
人の山。
黒と白のパトカー。
鑑識。警官。
その他のオブジェ。
舞台の中心にあるのは焼けこげた一台の乗用車。
持ち主の意思を最大限に発揮すべく徹底的なチューニングが施され、外装以外は全く別物と評していた、特別な一台。
恭也が持てる僅かな時間を注ぎ込んで作った、大切な一台。
知識の無い私が、恭也に乞われるままに取り寄せ、あつらえた部品を集めて作り上げた、世界で唯一無二の一台。
だが、私の目の前にあるのは、そんな夢とは程遠い、すすけた残骸だ。
焼かれ、砕かれ、ひしゃげ、骨のようになった外装をのこして持ち主もろとも炭になった、唯の鉄屑。
こじ開けられ、中から引き上げられた黒い塊が担架に乗せられていくのを私は呆然と見ていた。
こんなものが、あの恭也なのか?
こんな煤けた、炭の塊が?
あの、尊大で、自信家で、皮肉屋で、だが誰よりも優しい、あの男なのか?
お前がそんな物になっていいはずがないだろう、西遠寺 恭也。
それは私の役割だ。
私が、そうなるべきだったのだ。
私には何もないのだから。
自然と足が前に行くのを、周りにいた男達が止めた。
突然膝から力が抜け、男達の強い力で支え直されたのに気がつくと、再び自分の足で立ち上がっていた。
私は涙も怒りも出ずに、ただ呆けていた。
痛みが深すぎると何も感じなくなるというのはきっと本当のことだ。
その時の私は、ただただ現実を冷静に見つめながら、その後のことを淡々と考えていただけだった。
その後、全く同じ様な事故が立て続けに3件起こり、何人かの人間がこの世から居なくなったが、それは全て事件ではなく、事故だった。
少なくとも、新聞で明らかにされた限りでは。
恭也と同じように。
だが3人を生け贄に捧げても彼は帰ってこないのだ。
私には本当に何もなくなったのだという事実が私を叩きのめし、そういう意味ではあの三人は私と恭也の息の根を止めることに成功したのだ。
その後の人生は、西遠寺 恭也の遺産を闇に葬ることとその遺児を育てることだけにあったようなものだ。
「ただいま帰りました」
玄関先で明香の声がする。
混濁した意識が次第に鮮明になっていく。
少し眠っていたようだ。
ソファから起きあがる。
四肢は頼りなく、だがとりあえず意思の通りには動いた。
応接間から台所までよろめきながら歩いていく。
買い物袋を下げてやってきた彼女へ、私は言った。
「明香。少し話がある」
私の言葉を明香は笑みで返した。
「丁度よかった。私もお話したいことがあるのです」

テーブルの上にはティーセットが一式。カップにはいつものブランデー入りの紅茶が。それと明香の手製であろう、オレンジを刻みいれたクッキーが皿に盛られている。
しかし二人とも手をつけない。
何から話したものか。
そんな言葉を十数回、反芻している。
胸が息苦しい。
知らずのうちに握り締めた拳が汗でべっとりと滲んでいる。
応接室に入ってからもう10分余りが過ぎた。
「それで、お話というのは」
たまりかねたように、明香が口を開いた。
「ああ」
私は気の無い返事をしてから、我に返った。
呼気に乗せて音を発し、意味を伝える、ただそれだけの行為に何故忍耐と緊張が必要になる。
何を恐れている。何も恐れるものなど有りはしない。
私の恐れは既に現実となり、過ぎ去っていったのだ。
私には何もない。
一息つく。
胃のあたりに妙な圧迫感がある。臓器自体が収縮してしまったかのような、奇妙な感覚が。
もう一度息を吐くと、それは少し楽になった。
「西遠寺恭也という男を知っているな」
どう答える。
私は固唾を飲んで明香の反応を見守った。
明香は小さく息を吐くと、いつもの笑みを張り付かせて一言。
「よく存じ上げております」
やはり、という思いは無かった。
それは分かっていたことだ。
すでに知っていたことだ。
だが、判らない。
「お前はいったい何者だ」
「何者だと言われましても、名前は榊 明香、年齢と体重は秘密、職業は六道家の専属メイド。このほかにも何か?」
「榊 明香などという人間は居ない。柏原 静恵という人間もだ。少なくとも、この国にはな。お前が誰であろう興味はないが、西遠寺が関わっているとなると話は別だ。しかも、おまえの素性は私でも掴めないときている」
「日当二万五千円で貴方に仕える忠実な下僕、それでは不満だと?」
「甘く見るな。少なくとも、お前が西遠寺を焚き付けていることは判っている。私の所からいくつかの情報を盗み出して、二重三重の擬装を施し、西遠寺へ伝えていたことも、な」
「まぁ、クビにするには十分な理由でしょうけれども、証拠の方はおありで?」
「証拠の有無など関係ない。お前が何者で、何をしようとしているか、私が知りたいのはそれだけだ」
「貴方にも主張や考えがあるように」明香は一口紅茶を飲み下して、口許で笑う。「私にもそれなりの目的と責務があるのですよ」
「責務?」
「私は傍観者ですから。貴方と同じく」
「何を傍観する。私と悦也の共倒れをか?」
「いいえ。西遠寺恭也という男が死後なお操り続けるゲームの」
何の感情の響きもない宣告を、私は遠くで聞いたような気がした。
どれくらい時間が経ったのか感覚がない。
数時間のようにも感じる。が、おそらく数分、あるいは数秒だろう。
言うべき言葉が見つからないのではなく、思っていたとおりのことが起きてしまった、そんな既視感に似ている。
空白。
時間さえも停滞したような錯覚。
呼吸することも忘れていたのか、妙な息苦しさがあった。
私は短く息を吸い、言葉を繋いだ。
「恭也とはどういう関係だ」
「私の依頼主…………というよりは、お願いされたと言った方が正しいですわね」
答える明香の言葉はいつもどおり、何処か茶化したような響きがある。
「…………今回の一件は、全てお前と恭也が発端か」
本来ならば激昂してもおかしくないはずだが、不思議と怒りは湧いてこなかった。
現実感がないのは衝撃が強かったからか。
あらかたの筋が読めた今では、どうでもいい、という感情もある。
重要なことを話しているはずなのに、私には諦めにも似た感情があった。
この想いは何なのだろう。
失望?いやそういうものではなさそうだ。
これから急速に終わりが近づいてくる、それを惜しく思っているのか。
だが終わりのないものなど、変わらないものなど無い。
全ては流れていくだけだ。今までと同じようにこれからも。
それを惜しんだりすることに意味など無い。そんな甘い感傷など必要ない。
「発端なんて大げさな物ではないですけど、知らない間柄ではなかったですし、前金もいただいてしまいましたので」
明香はそういってから手元のティーカップに視線を落とした。
「前金、という言い方は適切ではないのですけれど………」
彼女のいう前金が何なのか、私には興味がなかった。
明香は恭也の見えざる手によって操られ、私という男を観察し、試し、そして判断を下した。
それだけのことだ。
賽は振られ、ゴールにたどり着いた。
スタートに戻ることはない。
「一つ聞かせてくれ」
「何なりと」
「今回の一件で、お前が得るものは何だ。何が望みだった」
「故人の頼みですから無下にも出来ませんもの」
「そのために3年、か。正気とは思えんな」
「まぁおこぼれに預かろうという気もちらほらと」
「嘘だな。遺産がどんなものか判っている以上、それを手にすることの意味もわかっているはずだ」
「ふふ、前にも言いましたように、満足感こそが私の報酬ですから。世の中にはいるのですよ?他人の喜ぶ顔が何よりも好きだという人間が」
「私が遺産を手に出来れば喜ぶとでも?」
「嬉しくはないのですか?」
明香は理解できない、というような顔で首を傾げた。
「全くな」
「どうして」
「あれは悪い夢のようなものだ。あれは私が闇に葬ったものだ。そんなものを手にして何が嬉しい」
「親友の残したものなのに?」
「私は、恭也がそれを全て葬り去るように遺言しておきながら、それを裏で隠蔽しようとしていた意図がわからん。それを他人に引き継がせて何になる」
「さぁ。ただ、故人は貴方がそれを手にすることをお望みだったようですよ?それを扱うに相応しい人間なら」
「私は相応しくなど無い」
「それを決めるのが私の仕事。ひいき目に見なくても、貴男は素晴らしい人間ですわよ。ハンサムで、お金持ち。それにクール」
「真面目な話だ」
「ふふ、そう、それですわ。甘言に乗らない用心深さ。傍目には金銭の虜に見えても、実際のところ厳しく己を律する自制心をお持ちでいらっしゃる」
「そういう人間が、相続の条件だと?」
「毒にも薬にもなる物ですもの。私の判断からすれば、それを『毒にも薬にもしない』人間こそ、相続に相応しいと思いまして。残念ながら悦也さんでは毒か薬にしかならない。それでは不的確」
「もし私の気が変わったらどうする」
「別にどうもしませんわ。そこから先は私の仕事ではありませんもの」
「厄介なことを」
「別に気負う事でもないでしょう?貴男の持つ手がほんの少しだけ広くなるだけですわよ」
「……………………」
私にはこの女の意図がどうしてもわからない。
どうして、という答えすら見いだせない。
掌がじっとりと汗で滲んでいる。胸の動機も収まりそうにはない。
だが、答えは得た。
「それでお前の話したいこととは何だ」
「覚えていらっしゃらないかも知れませんが、あと3日で契約更新の日です」
「いや、覚えている」
そしてこの場でそういう台詞が出てくる意味もわかっている。
「つまり契約は更新しない、ということだな」
「次の職場がもう決まっていますので」
そう、生きている限り人間の物語には続きがある。
関係の途切れは終わりではない。
ページの終わり。
次章の始まり。
一新され、全く別の事が起こる。
人は誰しもそうなのだ。
転機というには語弊がありすぎるが、そうとしか形容の出来ない、事の切れ目。
無数に区切られた章の節目。
私も、明香も、この世に住み、存在し、生きとし生ける全て、いや死者ですらそうやって自らの時間を組み立てる。
だが、しかし。
「ずっとそうやって生きていくのか」
「さあ?未来というものは予測できないからこそ面白いのではないでしょうか?」
それが彼女の矜持。
生き方。
理解してはいた。
彼女には、私とて一人の雇い主に過ぎない。これからの人生の中で無数に出会う、雇い主の一人。
自分が特別であろうなどとは思わない。
それでも、名残惜しい気がする。それは紛れもなく私の感情の一部を成している。
「3年か。長いような短いような時間だった」
だが何も思い浮かばない。
「充実した仕事ではありましたね」
しみじみと、明香が呟く。
「雇い主としては光栄な言葉だな。それが社交辞令だとしても」
私はカップの紅茶を啜った。
また、何の味もしない。
だがそれを飲み下す。
「社交辞令ではなく事実ですわ」
「しかし此処で仕事をする気はもう無い、というわけだ」
「辛辣ですわね。また来て欲しい、とか気の利いた台詞はないのですか」
「言ってほしいのか?」
「いいえ」
確固たる口調で彼女は言った。
それでよかった。
「次の仕事がいい職場であることを祈っている」
「まぁここより居心地のいい場所はないと思いますけど」
「……………別に気遣う必要はない」
「本心なのですよ?」
「そうか」
明香はいつものように笑みを浮かべたまま立ち上がり、深々と一礼した。
「それでは私、明日の用意がありますので」
踵を返し、応接室から出ていく。
その動きには、名残惜しさなど感じない。
いつものように、淀みのない動き。
ドアの閉まる音とともに、私は広い応接室に、一人だけになる。
時の流れが必然であるならば、運命というものもまた必然であろう。
私が独りで生きていかざるを得なくなったこと。
私が施設で恭也と出会ったこと。
私が父親と同じ道を歩んだこと。
私が恭也と死に別れること。
怒りにも似た感情の高ぶり。何への怒りか。運命そのものを呪うなら、私はもっと早く死ぬべきだった。そうしなかったのか、出来なかったのか、今となっては判らない。しかし、私はいったい何を求めていたのか。
己を呪ったところで事態が解決するはずもない。
だが汲めども尽きぬ怒りを私はどこへぶつければ良かったのか。
常に独りであり続け、何者とも断絶し、理解を拒み続けた私が他者に怒りをぶつけるなど自己欺瞞以外何者でもない。
私が孤独なのは、他者から理解されないのは、何の助力も得られないのは、全て己がそう望んだからだ。
己が境遇を呪ったところで何にもならないことが判りながら、私は己を憎悪し続けることしかできなかった。
私はどうすれば良かったのか。
その答えも見出せない。問うことが答えであるという楽観的な見方も、最早出来ない。
夜が静かに通り過ぎる。
沸々とした想いが胸の内で渦巻く。
何が良くて何が悪かったなどと言う判別はもはや無用のものだった。
明香の居ない応接室で私はソファに深く身を預けた。
この椅子も、石のようなもので出来ていれば私の期待通りであったのだが、皮肉にも極上の柔らかさで私の体を受け止める。
私は目を閉じた。
夜よ明けるな。
朝など、明日など来るなと願い、念じながら。


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