shadow Line

踊る道化

 敵か味方かはわからない。マリィはそういう種類の人間だ。裏切ったとか裏切られたとか、そういう世界には生きていない。
 善悪、などという二元論の価値観では収まらないところにいる。
 超然としている、といえばそう言えないこともないが、俺の見解としては『たちの悪い愉快犯』だ。
 ただ、敵になるにせよ、味方になるにせよ、コンタクトだけはとっておく必要がある。相手の要求としてはこちらを雇いたい、という意思表示もされている。話だけ聞くとしてもそう悪いことではない。
 俺は、とある酒場へと向かっている。
 路地をかいくぐり、壊れかけた合金製の扉にたどり着く。
 見た目は、廃ビルの壊れた扉。
 普通はそう捉えるだろう。実際、普通の人間にとっては、この扉はそういうものと同じだ。
 俺はそれを勢いよく蹴り開けた。
 押したり、引いたりでは開かないのだ。特殊な電子ロックの一種と思えばいい。
 開発者がどういうセンスの持ち主かは判らない。粋なのか暇人なのか。圧力センサー、慣性制御、意志関知センサー、そういった物の集合体。最新の技術を惜しみなく導入した、アナクロな思考の産物。
 だが、こういう無駄もいい。遊び心がある。
 一歩、紫煙とアルコールの充満する酒場へ足を踏み入れた。環境制御用フィルターは作動しているようだが、店内の人間の殆どが煙草を吸っているせいで全然役に立っていない。常人なら酸欠になりそうだ。俺には、もちろん慣れた空気だが。
 足元がギィと悲鳴を上げる。このご時世に板張りの床なんて、そうはお目にかかれるもんじゃない。
 丁寧にワックスがけされ、たぶんその上から何かで硬化コーティングされているのだろうが、天然の木材は超貴重品で、そう簡単に手に入る物ではない。床板だけでも剥がして持って帰れば、同量の金と交換できるかも知れない。
 磨き上げられた床板は妙につるつる滑って不便なことこの上ないが、情緒があっていいと言う物好きもいる。店も客も、社会からはみ出しているわけだ。
 生身の俺にとっては馴染むかも知れないが、改造されたヤツが一踏みすれば、床がぶち抜かれる気がする。何故か壊れる素振りも見せないが。
 客のほとんどは小声で何か話しているか、さもなければ下品なジョークで馬鹿笑いをしているかのどちらかに分類されている。
 その中をカントリー風の衣装を身につけたウエイトレスが忙しく動き回っているが、彼女は人間ではない。人間にしては整いすぎた容姿と額の刻印がそれを示している。
 電子工学と機械工学の粋を集めて作られたリブロイド、その中でも最高級の一品に数えられる「シノノメ・クラフト・ワークス」製のものだ。
 荒くれ者ばかりで女一人寄りつかない酒場に花を添えるためらしいが、何もこんな超高級品を置くことは無かろうに。そんなに儲かっているのか?この店。
 下手をすると店が客ごと買えるような、とんでもない金額の代物だと聞いたことがあるが。
 そんな一品だから客の中には「彼女」目当てで来る人間もいるそうだ。文字通りマスコットガールとしての役割も果たしているだろう。
 俺は彼女にいつものウイスキーを頼んでから店内を見回す。
 マリィは店の奥にいた。前に見た姿とは違っていたが、雰囲気で分かる。
 更に数回の悲鳴を踏みしだき、奥の席に腰掛けた。ご丁寧にグラスが用意されていたので、中身を飲み干し一息つく。
「な、なんですか、あなたは!?」
「下手な芝居は止めろ、マリィ」
「おや、つれないねぇ、ムッシュー」
 そういいながら、くるくると手の中でワイングラスを弄ぶ。
「それにしても、よく僕だとわかったね、ムッシュー。今回は自信があったのに」
 ならば、香水くらい変えろ。呆れながら、そう思った。
 ラベンダーの香水など、いまどき時代遅れもいいところだ。
 もっとも、先進科学の凝縮を弄びながら、アナクロな趣味を持っているところがまた、マリィ・マギ・マクドゥーガルという人物を不可解にさせている要因なのかも知れない。他にアナクロな趣味を知らないが。
 ウエイトレスはすぐにウイスキーを運んで来た。
「ありがとう、レニィ」
 俺はウインクで応じながら、グラスを受け取る。彼女だって立派なレディだ。素材はこの際問題ではない。
「それじゃ、乾杯といこうか、ムッシュー」
 何を暢気に、と諦めながらグラスを合わせると、ガチャンと響いた。手の中のグラスは割れてはいない。
 音のした方を眺めると、揉め事の真っ最中だ。カードでイカサマがばれて逆上でもしたか。とにかく、常連の行動でないことだけは確かだ。
 喚き散らしながら、銃を抜いた。刹那、銃身がゴトリと落ち、男の動きは停止した。
 喉笛には、可憐なカウガールには似合わしくない刃が付き付けられていた。
 当然、俺の横にレニィはいない。
 次いで、男の腕が寸刻みで落下した。改造義肢が派手な音を立てる。どうやって見抜いたか、斬ったのも分からなかったけど。
 まあ、マスターは温厚だ。簀巻きにされて放り出されるだけで済むだろう。
「やれやれ、無粋な輩だねぇ。それじゃ、もう一度乾杯……」
「挨拶は抜きだ。ちょっと急ぎの用件がある」
「エクスィードのことかい?」
「耳が早いな。また他人の脳でもハッキングしたのか?」
「人聞きが悪いなあ。ちょっと治療してやっただけだよ、ムッシュー」
「治療ねぇ……」
 いつも通り、ジョークの応酬で会話は始まる。俺は単刀直入に始めたいのだが、ヤツはそれに応じてくれないのだ。大体、他人の脳のハッキング云々に関係なく、俺が得た情報はマリィからの提供だ。
 だが、ネタの内容は事実だし、彼の手に掛かった人間が健康になったとは思えない。「生まれ変わったようだ」などといって喜ぶやつもいるが……人格を再フォーマットされたら、確かに生まれ変わったも同然だ。
 まあ、どんなに感謝をしていても、それも時間の問題だ。
 自分の情報がすべて他人に握られ、記憶のない時間が増え、果ては夢遊病者のように歩き回る。そんな症状を自覚する頃には、感謝の気持ちは彼方へと去り、変わりに憎悪が……それも消されるか。
 とにかく、マリィの目が何処にあるか、考えたらキリがない。生まれ変わった奴らは、マリィの情報端末に過ぎないのだ。ブラックなジョークで俺は笑えないが。
 大災害の被害により、復興を遂げた現在でも文化レベルは大差ない。飛躍的な進化は情報と医療の二分野に限定され、道徳や法律といったものは寧ろ退化した。所詮、目に見えないものより、見えるものだ。人間という生き物に、たいして進歩はない。
 そのおかげで、こんなヤツでも名誉市民だ。寄付した孤児院の子供達がどんな末路を辿るやら。
「僕の悪口かい、十五夜」
「十六夜だ!」
「君の思考はシンプルだから好きだよ、ムッシュー」
 よもやとは思うが、俺の脳は大丈夫なのだろうな。
 そんな思いに囚われることすらある。幸いにして、自分の脳は手を加えていないはずだ。少なくとも、俺の知る限り、俺の意志では、無い。
 しかし、ナノマシンによる脳改造、音響洗脳による思想統制、あるいは人知れず拉致されていじられた上での記憶処理。そんな可能性もある。
 我思う、故に我あり、などという呑気なことではないのだ。思うこと、それ自体が制御されている可能性を考えれば。
 俺は、脳裏に芽生えた嫌な空想を振り払う。
 しかし、完全に否定できないところに、マリィという人物の恐ろしさがあるのだ。遊び半分ならまだしも、何の目的も無しにそういうことをやるから困る。
「それで? 僕にどうしてほしいんだい?」
「もう芝居は良いだろ? そろそろ本題に入ってくれ」
「エクスィードを潰すという相談なら乗れないよ。これでも、技術顧問として給料ももらっているしね」
 多分それは、マリィ本人ではなく、人形のうちの一体が、ということなのだろうが。
「なんだよ、それなら俺はどんな仕事をするために雇われたんだ?」
「こらこらムッシュー、他人の耳なんて何処にあるか分からないんだよ?」
 そう言って、懐から分厚い封筒を取り出した。中身はすべて札束だ。上流階級の人間でも、一年は遊んで暮らせるほどの額だ。
「どうせお前の結界がはられてるんだろ、辺り一帯。仕事の話の前にくだらない芝居して相手をおちょくるのは止めとけよ。俺、疲れてるんだ」
 大体、俺がエクスィードなんぞと事を構えようと考えたのは、こいつの世間話のせいだ。あんな世間話、二度としたくないが。と言うか、世間話で人の半身について語り出すなんぞ、茶飲みの最中にすることじゃない。もちろん、もてなしてはいないが。
「つれないねぇ。それじゃ本題をば。情報は提供する。キャッシュも用意した」
「条件は?」
「三つ。一つ目は、僕の人形を取り返すこと。これは最優先ね」
 マリィが人形の身を案じるなど初めてのことだったが、考えるのも詮索するのもムダなので止めた。その条件ならば、自分の目的とも合致する。問題はない。
「二つ目は、エクスィードを潰すな、ってこと。あそこはまだ、利用価値が高いから」
 そんなものは当然だ。世界を混乱に陥れる気はないし、そんなことをしては命が何ダースあっても足りやしない。自分の命は最優先、が俺のモットーだ。
「それで、最後の条件は?」
「君の行動を逐一監視させてもらう」
「どういうことだ」
「君が間違いを犯さないとも限らない。信用していないわけではないけどね」
「なるほど。大した念の入りようだな」
 まあ、スポンサーの条件としては悪くない。
「それで? どうやっておれを監視するつもりだ? 悪いが俺は全身生身だ」
 感覚野に直結したデバイスを内蔵する手術というのは、大抵の人間がやっている。時間もかからないし、費用も安い。それでいて、現実とは違うもう一つの世界、ネットワーク空間を自在に体験できる。
 だが俺は自分の体がいじられるのは我慢ならない。
 ネットワークを駆使すれば色々便利なのは判るのだが、それより俺は生身の感覚を大事にしたい。
 幾らネットワークで情報を収集し体験できても、現実の脅威の前には何の役にも立たない。明日の献立を考える助けにはなるが、迫る銃弾の盾にはなってくれない。俺にとって、仮想空間の存在はその程度のものだ。
 それに、仮想空間ではウイスキーの味はわからない。
「改造などの処置を受ける必要はないよ、ムッシュー。キミがそういうものを毛嫌いしているお茶目さんなのはよく知ってるし」
 別に茶目っ気で改造を忌避しているわけじゃねぇ。
 マリィはポケットから小さなネックレスを取り出した。
「これを身につけていてくれればいい。デザインはこの際目をつぶってもらうけどね」
 十六夜は、渡されたネックレスをしげしげと眺めた。マリィの用意した情報端末にしては、大きい上にセンスも最悪だ。
 ひょっとして、この死んだカブト虫のようなデザインは、最先端技術の結晶なのだろうか。
「ハッピーバースデー、十六夜。僕のプレゼントは気に入ってくれたかな?」
 話を聞いてみたところ、本当にただの誕生日のプレゼントらしい。嫌がらせのような代物に怒りを覚え、女の外見を考慮した上で殴っておいた。本当に、理解の範疇外の存在である。が、悶絶するあたり、人並みの痛覚はあるようだ。
「それで、どうやって監視するんだ?」
「わたしが、するわ」
 音も気配もなく、美しい声の主は隣にいた。
 無口でクールな女殺し屋、歌姫マリス。それが彼女の通り名だ。俺も命を狙われたことが何度かある。
 理由は簡単。俺は彼女の性感帯を知っていて、いつもこうやって苛めるからだ。男に免疫のない彼女の喘ぐ様はとても楽しいし、抑揚のある嬌声を聞くのも楽しい。
 飾り気のない軽装に包まれた細い腰を抱き寄せ、脇腹を愛撫し耳に息を吹きかける。
「……っ!」
 端正な顔が、怒りにゆがむ。耳元へ息を吹きかけると、それが女の顔に戻る。
 本当に、見ていて飽きない。
 マリスが短く息を吸う。
 俺はその唇を指で塞いだ。あらかじめ、彼女がそうすると読んでいての行動だった。
「『ブラストヴォイス』は無しだ。俺はともかく、店ごと吹っ飛ぶぞ」笑いかけながら店を見回してみせる。「それに、観客を吹き飛ばす歌姫なんて聞いたことないしな」
「別に、わたしの店じゃないから。ま、いいわ。今回は他ならぬマリィの頼みだし、その命、しばらく見逃してあげる」
「感謝感激雨あられだね」
 軽口を叩いてはいるが、本気の彼女には敵わないだろう。彼女の唄は確かに強力だが、恐るべきはその体術だ。
 気配を悟られないことなどは雑作もない。舞うような体捌きのまえに、攻撃など無意味だ。大技に頼らせないほど彼女を追い詰めることができれば、初めて真の恐怖を味わうことができる。死ぬまでの刹那の間。
 背筋を凍らせる、その瞬間。死の恐怖に魅入られる、その愉悦は甘美な麻薬のようでもある。
 俺が魅入られたのは、可愛く喘ぐ彼女か、死を纏う彼女か。
 愚問だな。
「ところで、マリィ……」
 返事がない。見ると、気絶しているらしい。神経も普通に通ってるんだなぁ。
 そんな俺の感動に気が付くはずもなく、マリスが気付けの酒を注いだ。もう少し開放感を味わいたかった気もしたが、あんまり長くマリィなんかと一緒にいたくもない。嫌なジレンマだ。
「う……うぅ~ん……」
 もう平穏は終わりか。
「……ひどいよ、ムッシュー。僕は、キミの過激な愛情表現には耐えられないよ」
「……耐えないでくれ」
 これで今度からは耐えられるような身体で来られたら困る。
「本当に、仲が良いのね」
 あまり抑揚のない口調はいつもの事だが、そこはかとなく呆れている響きがする。失敬な。
「なんだ。仲間に入れてほしいのか?」
「それならそうといえばいいのに、マドモアゼル」
 大きくため息をついて彼女は向き直った。俺も冗談じゃない、と思う。
「今日は、遊びにきたわけじゃないでしょ」
「そうだな。そろそろ詳細に入らないと俺も困る」
 俺の言葉に、マリスも同意した。
「十六夜と私を組ませると言うことは、この話、私にも無関係じゃないのね」
「そうだね。メガネ野郎ことダグラス君が関わっているとなれば、キミも興味を示すと思ってね、マドモアゼル」
「そう。あの男が関わっているの」
 素っ気無い、普段より更に抑揚のない声は、彼女本来のものだった。
 ゾッとするような微笑。歌姫ではない、死神マリスの微笑だ。
「マリス」は、悪意を意味するフランス語である。その名が向けられる人物は、唯一人。
 メガネ野郎の手下に襲われたときから、こうなる予感はあった。悪趣味なマリィのことだから。
 いやぁ。マリスに狙われるなんて、ダグラスも可哀想だなぁ。
 別に同情はしないが、現場には居合わせたくないな、と思う。
 どんな事情でも修羅場は御免だ。
「風、あたってくるわ」
 確かに若干暑い。
 立ち去るマリスを横目で見送り、ため息をついた。自分の表情が真剣なものになるのがわかる。
「相変わらず、悪趣味だな」
 スプレーの副作用か。新陳代謝をナノマシンで補った分、エネルギー不足の身体が発熱しているようだ。酔いのせいじゃない。
 こんな状況で酔えるほど、俺の神経は太くない。
「ノンノン。心憎い演出だよ、ムッシュー」
「それにしては、アイツには声をかけないんだな」
「声をかけなければいけないかい? それは僕の役目じゃないよムッシュー」
 さも心外といった顔でマリィが返答する。
「それは俺に譲るって言いたいのか?」
「もちろんだよ、モナミ」
 顔が自然にほころんだ。
 笑みを形作る。
 怒りで。
 物事を計画的に進めるのはいいが、限度もある。
 自制が効かず、マリィの喉笛を指で締め上げる。
「何でもデータで測れると思うな。感情ってのは理論じゃないんだ」
 その手に更に力をこめる。増幅した怒りが、殺意に書きかえられる気がした。身体が熱っぽく、喉がカラカラになる。
 このまま首を絞め続ければ、マリィの首は折れるだろう。その前に気管が潰れ、窒息死するかもしれない。それでも、手を離すという選択肢は、理性の視野に入らなかった。殺したい、そんな衝動に駆られる。
「もう、大丈夫よ」
 マリスの手が重ねられ、ようやく首から手が離れた。かけられた言葉は、俺に対するものか、マリィに対するものか。
 気持ちの悪い汗が背筋を伝う。意識が軽く酩酊していた。
「……すまない、マリィ」
 マリィは、気にするなという風に手を振り、咳き込んだ。飄々とした調子は、こんな時でも変わりない。
 振りかえると、年老いた男が無数の銃に取り囲まれていた。年老いた男はダグラスの送りこんだ能力者、取り囲んでいるのはマリィの護衛の人形たちだろう。マリィの網にまんまと引っかかった憐れな蝶だ。一応、あの三文芝居の意味はあったわけか。男は、俺の感情を操作し、マリィを殺すよう仕向けたのだ。
 精神攻撃能力。
 珍しい力ではない。だが、俺には効かない……はずだった。普通なら。
「これで分かったかな、ムッシュー。データに置換できないものほど、簡単に影響を受けるんだよ」
「この場合、反論もできないな」
 俺は苦笑した。こうも簡単に侵入を許してしまうとは。
 精神攻撃は物理攻撃とは違う。感情の波長さえうまく合わせられれば、どんな相手でも心の隙をつけば、ある程度の効果は期待できる。
 独特のロジックで攻撃が組み立てられるため、単に精神力だけでは防ぎきれないこともある。腕のいい奴ほど、誘導は巧妙だ。操られていることに気づくことなく事が済んでいることだってある。
 俺の場合は見事に引っかかった、というわけだ。
「で、どうする気なんだい、ムッシュー」
「ここじゃ殺れんだろ」
 しかも、単独で乗り込んでくるぐらいだ。
 精神攻撃だけの能力者ではないだろう。
 まあ、どれほどの能力者であろうと、マリィの結界内で能力を行使したのは奢りと呼ぶしかない。もしくは、結界の存在に気付かなかったか。
「私も、殺人現場で酒を飲みたいとは思わないわね」
 それは非常に同感だ。酒を不味くする行為は、酒に失礼である。
 俺はタバスコの瓶を手に取った。
「明日の清掃局の指定は、燃えるゴミの日だったな」
 なんにせよ、こいつが俺の逆鱗に触れたことは確かだ。
 手加減する気も生かして帰す気もない。
「残念ながら」マリィは俺の手からタバスコの瓶を取り上げ、それを手の中で弄んだ。「粗大ゴミの日に変更したんだよ、ムッシュー」
 こういう時は、こいつの思惑通りに事が進んでいると言うことだ。
 いやに自信ありげなマリィの口調に、怒りが冷めていく。
 そのまま、マリィについて店を出ると、数え切れないほどの躯が転がっていた。どうやら、一人ではなかったようだ。ヤツらも結界を張ろうとし、マリィの結界に弾き飛ばされたわけか。とすると、精神攻撃だけの能力者か。舐められたものだ。
 ……まあ、見事に付け入られた俺に、舐められた云々言う資格はないが。
 マリィの傍らに、一人の少年が跪いた。外のゴミを処理したのは、たった一体の人形、と言う事だろうか。というよりも、マリィが声をかけるまで、影の中に潜む気配に微塵も気付かなかった。それは人形だから、ではない。
「人事は君に任せるよ、ムッシュー。それだけキャッシュがあれば、十分だろう?」
 先ほどまでは、結界の外におちょくって会話を漏らしていたのに。あれで結界は完成ということか。あんなエサに引き寄せられた躯たちが不憫に思える。あんまり他人事じゃないし。
「なんだ、もう口は出さないのか?」
「もう条件の提示は終わったしね。ダグラス君のトコの腕利きも頂いたし」
 俺は、了承の頷きを返しながら、少年に視線を移した。マリィが寄付している孤児院の子供だろうか。だとしたら、本当に不憫だ。
「それにしても、腕利きの護衛だな」
「ランクDだからねぇ」
 ランクD? この刺客でさえ、マリィの人形ランキングの中に入ればランクAクラスの能力者だろうに、ランクDだと?
「提示されるスペックだけが全てじゃないってことだね。君の言う、データで測れない部分かな。まぁ戦術が性能を凌駕することは往々にしてあることだよ、ムッシュー」
「どんな裏技を使ったんだ?」
「興味あるかい、ムッシュー」
「そりゃあな」
 改造素体ですらない完全な生身にとっては、この手の裏技は十分に魅力のある話題だ。
 一般の改造義肢でさえ、潜在的には普通に鍛えた人間の数倍のパワーがある。一般に能力者はその力の低下を嫌うが故に改造を好まないが、それがサイボーグ連中との相性を最悪にしている。
 銃弾の一発、パンチの一撃で容易に死に至るのだ。いくらナノマシンによる処置が可能といえども、内臓への攻撃は十分に致命的だし、頭を吹っ飛ばされた日には漏れなくあの世逝きだ。サイボーグ化も出来ない。
 特に、対能力者用として広まりつつある単分子ワイヤーのカッターは視認しづらい上に切断性十分、という生身の人間には相当辛い代物だ。相手を出し抜く裏技が多いなら、それに越したことはない。
「君の格闘能力とマリスのそれを掛け合わせてみたんだよ。再現率は70%に留まったけどね」
 いつもの飄々とした答え。
 つまりは俺の動きをサンプリングしていたということか。
 考えてみれば、伝承系の格闘技を使う人間などそういるものではない。マリスのは厳密には格闘技とは違うが、両方掛け合わせればかなり面白いことにはなるだろう。
 そもそも、俺の格闘自体が図鑑で見た形意拳と飲んだくれの爺さんから教わった型から派生しただけのもので、正式な套路も覚えていないデタラメ拳法だ。
 それでも、普通の格闘技よりは使える。そこにマリスのあの力を加えれば、再現度が7割とはいえ、一撃打倒の立ち回りはそう難しくはないだろう。
 しかし、破壊力を勁ではなくマリスの能力の疑似再現に頼っているなら、俺には使えないものになる。
 見た目だけの劣化コピーとほとんど同じだ。
「そりゃ著作料をもらわないとな」
「親権なら差し上げるよ。能力的には君とマリスの子供と言うことになるからね」
「……丁重に辞退する」
 再び視線を転じると、母親の視線とかち合った。子供と戯れ、「責任とってよ」とか言われそうな雰囲気である。母親はそんな雰囲気を醸し出す女性じゃないが、シチュエーションは正しくそれだ。
 しかし、マリィの人形は、相変わらず質が高い。ランクDでこのレベルでは、俺を雇う必要などないのではないか。
「あの刺客も人形にするのか?」
「そうだね、手を加えればランクFにはなるんじゃないかな」
 あの実力で、その待遇か。確か、最下級のはずだ。人のとこの腕利きを、嫌がらせで弱くするとは。本当に嫌がらせには努力を惜しまない嫌なヤツだ。
 マリィの人形は、その性能でFからAまでのランクが付けられている。さらに上位ランクと呼ばれる、S、X、Y、Zの階級があるという。上位ランカーなど市井にそうそう存在するはずもなく、ダグラスの所とは、質も量も比較の対象にならない。上位ランク一人で、軍隊の相手が勤まるという噂も、本当かも知れない。
 どうにも気が削がれるような事実だ。自信喪失しそう。
 そういえば、一人上位ランククラスの実力者の知り合いが身近にいる。
 俺はマリスを見た。子供の頭を撫でていたりするが、彼女は確実に上位ランカーだ。確かに、軍隊くらい一人で相手にすることも厭わない実力者である。実際、相手に出来る。
 俺も腕には覚えのある方だが、彼女とは格が違う。
「盗まれた人形、どのくらいのランクなの?」
 子供と接しているせいか、マリスの声が柔らかかった。
「ランクZ」というマリィの答えを聞くまでは。