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<黒の長腕>ー紅夢

 それからヴォンは足下の物体を一瞥した。
「これ、おみやげにもってかえってもいいですか?」
 まるで気に入った調度品でも見つけたかのように、そんな質問をしてくる。
「燃えるゴミの指定は来週だと思ったけど」
「そんなこと言ったら可哀相ですよ。次からは、この人とも仲良くしてあげてくださいね。気さくな人に生まれ変われると思いますから」
 生まれ変わる、の意味はクリムゾンの肉体を弄る、と言うことなのだろうか。
 僅かに考えてから思い直した。ランクZがいかに高位の存在だとしても、マリィ・マギ・マクドゥーガルの手のものなのだ。いかなる者も「素材」としか見ていない彼ならば、 クリムゾンの肉体を弄ってみたい、と思うことは当然だ。
 そう思えば、哀れですらある。死後もなお、肉体を弄ばれる存在。
 ヴォンは手を振りつつ、クリムゾンを引きずっていった。
 ……ひょっとすると、気遣ってくれたのだろうか。
 少年は去っていった。腕の中には、尚も眠り続ける王子様だけが残された。
 刹那、気配が周囲を包む。顔を上げ、視線を彷徨わせて確認する。
 数が多い。おそらく、ダグラスの配下だろう。
 十六夜の腕を肩に回し、立ち上がる。倒すのは容易いが、「ランツエンレイター」まで来たら事だ。
 恐らくは自分の「能力」をフルに使っても良くて相打ち、という相手だ。
 下手をうてば確実に死ぬ。
 そう考えると、体が微かに強張った。 
 が、途端に気配が消滅していく。
「……ヴォン?」
 そうか。彼はこのために来たのだ。
 友人である「ランツエンレイター」を救うために。
 何となく顔が綻んだ。そういう理由で戦えることが羨ましい。
 けれど。自分には戦う理由が存在する。悲しい事に。
 それでも。
 片掌を上げ、構える。
 誰かを守るためでもいい。一瞬でも、過去を忘れていられるなら。
 死線に身を置いているのはそのためでもあるのだから。
 相手は雑魚だ。全力を出すまでもない。
 ならば。
 私は疾走し、向けた掌を添えるように、眼前に迫った男の額に当てる。
 体内で練り上げた圧力が掌から浸透していく。瞬きするほどの間もなく。
 爆砕。
 高められた内圧が頭蓋を弾き飛ばし、男の首から上を血の霧に変える。 
 たまには、真の絶望というものをレクチャーしてやるのも悪くない。
 男達がたじろいでいるのが判る。 
 私は十六夜の身体を、物陰にそっと横たえた。
 この程度の相手を全滅させるなら、ブラストヴォイスで容易に事足りる。が、今は身体を動かしたい衝動が強かった。
 不釣合いな自分に苦笑した。血が騒ぐ。
 軽く手を振る。だが、雑魚には恐るべき手刀となる。
 袈裟懸けに両断され、肺腑に圧縮された空気が血を帯びて飛び散る。 
 足で軽く薙ぐ。血の尾を引き、視界が赤く煙る。肉体は四散し、腕とも脚ともつかぬ物体が花を咲かせたかのように地を彩る。
 闇の中で閃く白刃、瞬く銃火は獲物が自ら所在位置を明かすようなものだ。
 殺意、敵意が交錯し、それを辿り、相手に触れ、奪う。 
 殺してやる、殺してやる、殺してやる。
 仮想ダグラスの実験場は、瞬く間に血の海へと変じた。先ほどまでの反動のように、心が血を渇望する。
 白い息が夜気に溶け込む。感情と同じく、揺るぎもしない。
  だらりと下げた拳から血が滴る。
 それが私の涙だろうか。
 倒れた男の衣服で血の滴る手を拭う。
 不謹慎だと思うかもしれないが、至福の一時だった。憎しみを発散させる代替行為は微かな精神の安息と高揚を与えてくれる。
 十六夜は、私の戦う理由を知っている。「ダグラスは俺の獲物だから」と、私をそれとなく遠ざけようとしていることも判っている。
 優しさなのか。同情なのか。
 時にそれが突き刺さるような、疼くような痛みをもたらす。
 関わらなければ良かった。
 出会うことなど無ければ良かった。
 その掌に闇を灯して戦う男の中身は、光さえも飲み込まれるような深淵の闇が渦巻いている。
 触れる者、覗き込む者に畏怖と絶望を与えるような闇が。
「俺は弱い男なんだ」とうそぶいてみせるその姿さえ、その闇の片鱗なのかもしれない。
 もう、ずっと前に気付いていた。
 私は、この闇に魅入られている。
 私は、この闇に囚われている。
 光なんて、いらない。闇こそが安息を与えてくれる。
 でも、闇の中の灯火は、誘蛾灯のように私を引き寄せる。
 それが、たまらなく苦しい。
 ダメだ。ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ。
 感情なんて、いらない。
 人殺しに必要なのは、冷静さ。それだけだ。
 なら十六夜は殺すべきだ。この男の存在は私の心をかき乱す。
 チャンスなど幾度もあった。敵として出会ったなら、迷わず殺ることも出来たのだ。
 だが現実は違う。
 葛藤し悶えながらも、十六夜との鎖は断ち切れていない。
 そこが私の弱さだ。そこが詰めの甘さにつながるのだ。
 もっと非情になれればダグラスを追いつめることも出来たはずだ。
 私は、この男に一体どんな感情を持っているというのだろう。
 もしもそれが愛や恋であるなら、この男はどういう風に受け止めるだろう。
 どんな風に拒絶するだろう。
 拒絶して欲しい。受け止められたら、それは至福ではなく絶望を伴うだろう。私は私でなくなってしまう。
 薄い涙が両の頬を伝い、顎の先端で雫に変わる。
 悲しいわけじゃない。なのに、何故、涙が流れるのか分からない。
 分からないが、まだ涙が出るのかと心の片隅で思った。とっくに干上がったと思っていたのに。
 けれど。この量では、濡れた手は洗い流せない。血塗れが、薄まるには程遠い。
 おさまれ、涙。
 後悔なんて、微塵もない。悔いる気などないのだから。そんなもの、慰めにもならないのだから。
 なのに、涙は止めどなく流れる。
 流したって、罪は軽くならないのに。天秤が釣り合うことなどないのに。
 まだ息のあるヤツが僅かに動いた。
 泣きながら拳を叩きつける。何度も、何度も、何度も。涙が乾き、血に変わるまで、何度も。
 全ての敵を物体以下のモノを変えたあと、私はようやく我に返った。
 気を失った十六夜を何処かへ運ばなければならない。どうにかそれだけが、脳裏に閃いた。
 雑魚相手なら守りきる自信はある。だが、ランクの高い者が複数なら、自分はともかく十六夜を守りきれない。
 十六夜は、優秀な相棒だ。失うには惜しい。
 心を覆い隠すように、そう定める。
 納得できる結論の導き方だ。今はそれでいい。それで十分だ。
 身動きしない十六夜を肩に担ぎ、歩き出す。
 手近で、安全な場所。
 ……それは自宅ぐらいしか思い浮かばなかった。
 一瞬のためらいのあと、私の足はそちらへと向けて歩き出した。