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瑠璃の天秤-2

 目覚めた私は、錆び付いたように重い体をベッドから引きはがした。
 微かに頭が痛む。
 だが眠っていたいという気持ちにはならなかった。
 眠ればまた夢を見る。
 寝ても覚めても悪夢のようなものならば、自分で動けるだけまだ目覚めていた方がいい。
 ベッドに腰掛けて一息つくと、何とか動くだけの気力が出た。自分でも緩慢だと感じるほどのろのろとした動作で着替えて食堂へ向かう。
「おはようございます」
「ああ」
 横柄に答えて、私は椅子に座った。
「手の具合の方はいかがですか」
「問題ない」
 無理に動かそうとすると引きつるような痛みがあるが、全く動かせないと言うほどでもなく、そっとしておけば殆ど何も感じないくらいだった。
 思ったより傷が浅かったのだろう。
 あるいは今感じている目眩のようなもののせいで打ち消されているのかも知れない。
 脱力感が体を満たし、油の切れた歯車のように体の動きが鈍い。
 それは第三者が見てもすぐに判るようだ。
「体調がよろしくないのですか?」
 明香が心配そうに訊ねてくる。
「いや…………大丈夫だ」
 そう答えたものの、答える言葉が何処かぎこちないのは自分でも判る。
「今日はお休みになったらいかがですか?」
「………明香」
「はい?」
「何故、お前は私などに気を遣う」
 そう聞かれて明香は困ったようだった。
「何故といわれましても………それが私の仕事ですし」
「仕事、か」
 当然の答え。
「ご不満ですか?」
「いや、それでいい」
 何処か気乗りのしない理由を私は判っていた。
 これから私の赴く先。
 そこで何があるのか、という事もあらかじめ知っていた。
 これから先、何もかもが壊れていく。それは確かで、必然でも、避けようのない事象。もはや決められたことで、覆しようのない、運命。
 予測出来る未来には何の驚きもない。ただ煩わしさと諦めが横たわっているだけだ。
 パンドラの箱を開けるとあらゆる悪と絶望が世界を覆ったが、最後には希望が残っていたという。
 だが、その希望こそが、真の絶望ではないのか。
 希望さえなければ、全てを切り捨てることだって出来る。
 だが、そうであって欲しくはない、そうはならないかもしれないと言う安易な救いが、癒されることのない絶望へと人を追い込んでいく。
 人は救われてなどいない。
 神と呼ぶ、不可解だが歪んだ何かに弄ばれているだけだ。
 明香の作ってくれた朝食を味もわからぬまま胃に収める。
 生きるためだけならば味など必要ない、体がそんな風に捉えたかのようだ。
 席を立つ私の背中に、明香が声をかけてきた。
「本日のご予定は?」
「少し出かけてくる。帰りは何時になるかは判らない」
「かしこまりました」
 明香の顔は見ずに、そのまま食堂を出た。

 車庫へ歩いていくと、運転手はもう来ていた。
 私の姿を視界の隅にでも認めたのか、広げていた新聞を小さくおり畳み、助手席へ放る。
 指定した時間にはまだ早い。
 しかしこの男がその時間よりもずっと早くここに来ていることを、私は知っている。
 如何なる職業意識のもとでそうしているか私には判らない。だがこの男に対して不満を感じたことはなかった。無口で忠実、且つ正確。
「もうお出かけになられますか」
「ああ。よろしく頼む」
 無駄な会話はない。
 車内でもお互いに口をつぐんだままだった。私の右手に巻かれた包帯についても何も聞いてこない。
 私が向かったのは、笹本というチンピラが興信所と称してやっている小さな事務所だった。
 通りから奥に引っ込んだ路地の一角にその事務所はあった。外に看板を掲げているわけでもなく、注意してみていなければ判らないようなひっそりとした場所。
 薄汚れた街角の、薄汚れた事務所。
 何もかも知っている上で、私は此処に来ていた。
 どうしても、確かめたかった。
 紙に書かれた事実など私には意味がない。
 真実は、この目で見て初めて意味がある。
「どちらさまで?」
 貧相な顔の男が私を迎えた。
「六道だ、といえば大体のことは判るだろう」
 男は少し驚いた顔をし、すぐに口元に薄笑いを浮かべる。
 人を小馬鹿にしたようなその顔に私は不快感を感じたが、それが私の表情に出たかどうかは判らない。
 男はドアを大きく開いて私を招き入れた。
 既視感を感じる。
 だが、その根拠はすぐに判った。
 事務所に入ると、ゴミとも書類とも判らぬごちゃごちゃとした物が積まれ雑然とした室内が目にはいる。
 私は勧められるまでもなくソファに座った。
 真昼の光を浴びて、空気の中を埃が舞う。
 口元にハンカチを当てたくなったが、あいにく持ってきていない。
 私は努めて呼吸を浅くした。
「六道という人のことは話には聞いてますがね。地獄のことまで聞こえるような耳をお持ちだとか」
 ソファに身を沈める笹本の顔は不遜な笑みを崩さない。
「で、その大物がこんなチンピラにどんなご用で」
 にやけた口の間から覗く、ヤニで汚れた黄色い歯に私は気分が悪くなった。
 こんな男は何処にでもいる。
 この程度の男は何度と無く相対してきた。
 なのに、私は、何故、この男にだけこんな不快感を持っているのか。
 だが芯の部分では驚くほど冷静だった。
「プレゼントの礼をしに来ただけだ」
 私がそういうと、笹本は大仰に首を傾げて見せた。
「何の話か判りませんな」
「数日前に、ここに女が来たはずだ」
「男やもめですが、それにだけは不自由していなくて」
 握りしめた拳に力がこもっていく。
 この男をここで殴り倒すのもいいが、それでは何の解決にもならない。
 深呼吸して力を抜く。
「私の屋敷のセキュリティを漏らしたのが君だと言うことは判っている。だが、別にそんなことはどういい。私が知りたいのは、それをリークしたのが誰かということだ」
「知らない、といっているでしょう」
「喋りたくなるようにも出来るが、私はそういう方法を好まない。どうしても喋りたくないのなら、それもいい」
「あなたもしつこい人ですな」
 私にはもともと譲歩すべき要素がない。
 しかるべき人間に依頼して洗いざらい吐かせ、私の想像も付かぬような方法でこの世から塵一つ残さず葬り去る。
 この手の男にはそれが一番だと言うことはよく判っていた。
 私がここにいるのはただの気まぐれに過ぎない。
 笹本にはそれを教えてやらなければならないようだった。
 もちろん相手を脅すなどと言うことはスマートな方法ではない。
 力に頼ってしまうのは、私も俗物だと言うことなのだろう。
 そう考えると、私の気分は落ち着いてきた。
 ため息をつき、哀れみ、嘲るだけの余裕を私は取り戻していた。
「私は何もする気はないが、もう一人の男は違うぞ。邪魔だとなれば親でも殺す男だ。お前のために色々な結末を用意してくれているだろう」
「…………」
「私にはお前を助ける義理はない。なますに刻まれて火にくべられようと私の知ったことではないが、私事で人が死ぬというのも後味の悪い話だ。お前に許された選択肢は二つある。私に守って貰うか、私にもっと残酷な結末を用意してもらうかだ」
 笹本の顔から余裕が消える。
 いや最初から無かったのかも知れない。
「私がここに来たのは交渉のためではない。それはお前自身よく判っていることだな?六道と西遠寺の二つの名を相手にして、無事で済むと思っていたわけではあるまい」
 私は写真を一枚、テーブルの上に放る。
 笹本は驚きも身じろぎもせず、ただ写真を見ていた。
 亜麻色の髪の女が写ったその写真を。
 それが出された意味を考えるように。
「女の名前は柏原 静恵。結城 啓介の紹介で此処にやってきて、六道家に関するいくつかの秘密を流すように依頼した。それも西遠寺悦也の耳に必ず届くように。内容は封書で直接手渡され、読後にこの灰皿の中で焼却。違うか?」
 笹本の頭は動かない。
 表情は硬くなったままだ。
 そのまましばらく時間が過ぎた。
 私自身、その写真を見て別のことを期待していた。
 だが変化は起こらなかった。
「何故知っているか、と聞きたいか?それはお前がさっき自分で言っただろう。六道という男は、地獄の底まで聞こえる耳を持っていると」
 笹本から掠れるような息が漏れた。
「お見通し、という訳か」
「それでも全てが見えているわけではない。だから私が此処にいる」
 笹本はのろのろとした仕草で煙草の箱を掴み、僅かに震える手で一本引きずり出すとライターで火をつけた。
 煙を吸い込みゆっくりと吐き出すその光景は、まるで魂を吐き出す儀式のようにさえ見えた。
 笹本も私もただ黙っていた。
 お互いの心は判りようもないが、大体同じ様なことを考えているのだろう。

「これが、夢であるならば」

 それは全て台本に書かれたことのように進み、当たり前のように終わったのだ。
「確かにその女だ…………」まだ半分以上残っている煙草を灰皿の中で押しつぶし、笹本は呟くように言った。
「だが、それ以上のことは知らない。六道家に縁のある人間だとか、亡霊がどうのという話はしていたがな」
 亡霊。
 西遠寺 恭也の残留思念。
 それが此処にも影を落としているというのか。
 そのために、こんな茶番が仕組まれているというのか。
 私の耳は、確かに地獄のことまで聞こえるだろう。
 だが、人の心までは聞こえてこない。
 人の足取りを追ったところで、相手の意図がわかるわけがなかった。
 そう、全ては相手から聞くしかない。
「この女は………何者なんだ?」
 笹本の質問は、むしろ私が問いかけたいものだった。
「判らないから、私が此処にいる」
「なるほど。それはそうだろうな。結城だけじゃない。方々で西遠寺財閥前党首の名前と遺産のことをちらつかせ、俺らのような使い捨ての小物を使って何かさせようとしていた、という事ぐらいは判る。だが、正体は不明。あんたが興味を持つのも無理はないか」
「つまり、この女はお前達にも素性を明かさなかった、という事だな」
「ああ」
 当然だ。
 こんな場所に来て自分の正体をさらけ出すような真似はすまい。
 テーブルの上の写真を胸ポケットに収め、私は立ち上がった。
 得たいものは得た。もう十分だ。
 笹本にかけるべき言葉はない。
 笹本もまた、私に対して何か話しかけようとはしなかった。
 ドアを閉め、事務所を後にする。
 階段を下りていく私は自分の脚で歩いているという感覚を失うほどに麻痺していた。
 別に確かめる必要などなかった。
 しかし、どこかで、そうであって欲しくないと言う甘い気持ちがあったのだろう。
 だが事実は曲げようがない。
 これは私が自分の目で確かめたかったことだ。
 足掻いてもどうにかなるものでも無いというのに、私は何故こんな愚かな真似をしでかしているのか。
 車に乗り込んだ私は、それでも納得できず自分の中で思考がまとまらないのを感じていた。

「ご気分が悪いのですか」
 屋敷についても身じろぎ一つしなかった、いや出来なかった私に、運転手が声をかけてきた。
「気にするな。たいしたことじゃない」
 そういい残して、車から降りる。
 だが、実際に気分は悪かった。胃のあたりが重く、むかむかする。吐き気すら感じるぐらいだ。そこの茂みで吐いたら、少し気分が紛れるかも知れない。
 それでも私はよろめくように扉をくぐった。
 私がやらねばならない事は、明香に真意を問いただすことだ。
 彼女は何者なのか。
 何故、私の屋敷に来たのか。
 恭也とはどんな関係なのか。
 その、全てを。
 意を決して扉を開けようとしたが、鍵が掛かっていた。
 電子ロックに番号を打ち込み、機械仕掛けの地獄の門を開く。そんな気分だ。
 だが、「考える人」になれるような気分ではない。
 眼前に広がるのは地獄でも何でもなく、いつものように冷えた空気の漂う、私の屋敷だ。
 屋敷の中に人気はなかった。
 明香は留守のようだ。
 何の音もしない。
 私は少し失望し、また安堵した。
 口の中が乾ききって、粘ついた感覚だけが拡がっている。
 私は台所で水を飲み、それからソファに横になった。

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