抱擁は長く続いたが、互いの熱で汗ばむ手前で終わった。
読子はゆきなの膝から降りる。
「先輩、立ってもらえます?」
意図するところは判らないが、ゆきなはそれに従った。
入れ替わるように読子は椅子に腰掛ける。
「先輩も」読子は両手を拡げた。「今度は私の番です」
「無理よ。やめておきなさい」
「先輩がしたみたいに、私もしてみたいんです」
真剣なまなざしの読子に、ゆきなは笑いかける。
「頑固ね」
「はい。譲りません」
「わかったわ。もう少し足は開いた方がいいわね」
頷き、読子は指示に従う。
テーブルに片手をつきながら、ゆきながゆっくりと腰を落としてくる。
「こういう椅子なら身体を少し前にして。それから、両手を私の腰に回して引き寄せるの。身体を密着させると重心がぶれにくいから」
口には出せないが、思ったよりも重い。
ゆきなは細かく教えてくれたが、バランスを取るのが意外に難しいのだ。
しかし指示は的確で的を射ている。さすがは手慣れている。
慣れ。
その意味するところ。
自分が初めてではないとしても、何もはばかることはなかった。それは判っている。それでも判っている事と動揺しない事は別だった。
僅かな気の緩みが二人の微妙な均衡を崩す。
傾いた天秤が覆るのは早い。
読子は背もたれに寄りかかったまま仰向けに倒れ、ゆきなも膝の上からずり落ちるように投げ出される。
「っつ!」
背中を打つと同時に後頭部も打ち付け、読子は一瞬目の前が暗くなった。
「大丈夫? 読子」
「へ、平気です。それより先輩は」
「私は大丈夫。まずは自分の心配をなさい」
ゆきなは膝から落ちたためそれほど身体を痛めてはいないようだ。
とんでもない失態だった。止められていたにもかかわらず、ゆきなにいいところを見せようという、ただそれだけのために彼女に怪我をさせるところだった。
何事もなかったからいい、という問題ではなかった。
不慮の事故ではない。全て自分が招いたことなのだ。
「ごめんなさい、先輩」
後悔で涙が滲む。高揚感はすでに冷め、胸の内は惨めさであふれかえっていた。出来ることならばこのまま死んでしまいほどに。
「馬鹿ね、こんな事ぐらいで泣いては駄目よ。私は怪我もしていないんだし、怒ってもいないわ。あれは意外と難しいのよ。それより背中は痛くない?」
「平気です。痛くありません」
本当は痛い。だけど背中の痛みは罰だ。辛くない。もっと痛んだっていい。だがゆきなを転ばせてしまった事実に見合うほどの罰ではない。
愚かさの代価としては安すぎた。
好意を持った人間の前で失態を犯してはならないという、強迫観念にも似た思い。それが読子の魂をパニックへと押しやっていく。自身の反応が過剰だと言うことを読子は理解できない。
「怪我でもしていたら大変だわ。見せて」
ゆきなの優しい問いかけも、気道が狭まるような圧迫感しか感じない。ゆきなに怒りが浮かんでいないことが何より恐ろしかった。
「本当に平気ですから」
読子は鉄を絞り出すような硬い口調で答えを返す。
「遠慮しては駄目よ。ベッドの上にすればこんな間違いも起こらなかったのに。配慮が足らなかったわね」
着てきたのがワンピースで良かった、と読子は思った。服をめくり上げられたりせずに済む。痣になっていたりしたら、ゆきなは必要以上に気にするだろう。
「ちゃんと見せて」
滑るような所作でゆきなは読子の背に回る。
甘かった。
ゆきながワンピースのファスナーに手を伸ばす。その動作には迷いも無駄も無かった。
抵抗する間もなく一気に下げられ、痛みの残る背中が外気に触れる。
「えっ、あのっ、先輩!?」
剥き出しにされた背中をゆきなの指が這う。
その動きはなめらかで、優しさに満ちていた。
「やっぱり赤くなっているじゃない。痛む?」
「本当に、大丈夫ですから!」
「打ち身は早いうちに処置した方が、治りもいいし楽よ。さてと湿布があったかしらね」
ゆきなは読子から離れるとクローゼットの方へと歩いて行く。
背中を露出したまま座り込んでいるのは、どうにも居心地が悪い。しかし、着衣を正すべきかどうか、読子は迷っていた。
ゆきなが触れた箇所に、指先の感触が幻影のように残っている。
「塗り薬しかないわね……海ならスプレーか何か持っているんでしょうけど」
「先輩、私は……」
「そんなに気にしないの。あなたは何も悪くないわ。卑下するのはあなたの良くない所よ。私を喜ばせようとしてやったことに、私が腹を立てるはずがないでしょう。それとも、私がそんなに信用出来ないのかしら」
「でも私は先輩を椅子から落としてしまいました。それは先輩に怪我をさせてしまうかもしれない、軽率なことです。どんなことがあっても、どんな慰めがあっても、それは絶対に変わらない現実です。私が悪いって事は絶対に変わりません」
「それは大げさすぎるし、物事は出来るだけいい方に考えた方が得よ、読子」
諭すような口調でゆきなは返した。その指は優しい手つきで読子の背に軟膏を塗り込んでいる。皮膚へと柔らかに浸透する冷感は、しかし読子の熱を冷まさない。
「椅子から落ちて、先輩にどんな得があるって言うんですか!」
思わず声を荒げる。
優しさが辛い。ゆきなは常に読子を肯定する。それが余計に惨めだ。声高に罵ってもらえた方が気が楽なのに、ゆきなは読子を否定しない。
「あるわ。こうやって、あなたに触れる口実が出来たじゃない」
薬を塗り込んでいた手つきが変わる。撫でるような柔らかい感触に、読み子は鳥肌が立った。今までに感じたことのない、全く新しい感触。人間の指先とは思えない艶めかしい感覚。
続いて別の感触が背中から伝わる。指よりも広い面積。それに、温度が低い。
ゆきなが頬を押しつけているのだ、と理解するのにそう時間はかからなかった。
「こんな事でも起こらなければ、読子は背中を触らせてくれないでしょう? それに、私が怪我をしたら読子が私の肌に触れてくれたかもしれないわ。どっちに転んでも私の得なのよ、読子」
深い呼吸の音。
「知ってる? 人間は好きな人の匂いで興奮するように出来ているらしいの。―――本当みたいね」
その言葉で読子は耳まで赤くなった。
触られるのもキスをするのも受け入れる用意はある。だが匂いをかがれるのは想定外だ。出がけに風呂に入ってきたし、制汗剤もつけている。それでも匂いを意識すると不安になる。
背中だけで無く丸裸にされたような羞恥心で、怒りも、切なさも、どこかへと消えていた。
「汗臭いはずですから、恥ずかしいです」
「そう? 別に汗臭くなんかないわよ。読子はすごくいい匂いがするの。今はちょっと消炎剤の匂いが混じってるけどね」
ゆきなは顔を離した。
「罰と役得を兼ねた余興はこの辺でおしまいにしておくわ」
ずれた読子のワンピースを直しながら、ゆきなが言う。
「読子は肌、綺麗よね。陶磁のような肌なんて言うけれど、純白の絹みたい。すべすべだし」
「先輩だって綺麗じゃないですか」
「そうかしら。読子の方が断然良いわ。隅々まで見たいくらいに」
ゆきなは乱れを直していたはずの手を、肩に滑り込ませる。
あと少しだけゆきなが手を動かせば、ワンピースが脱げてしまう。読子が自分から動いても同じだ。
「罰、ということにしたら、ここから先に進めるかしらね?」