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翡翠の校庭・恋人の条件

 殺風景なコンクリートの床上に、彼女の広げた薄いピンクのテーブルクロスが映える。
 屋上は原則的に出入り禁止だが、別に鍵がかけられているわけでもないので、出入りしようと思えば簡単に出来る。
 教師に見つかると煩いので、そうしないだけだ。
 けれど、どうも人目に付くところで食べる、と言うのも気が引けるので二人して此処にやってきた。
「前から聞きたかったんだが」
「はい?」
「どうして、私なんだ?」
 彼女は少し考えてから、口を開いた。
「会いたい、一緒にいたいって思いました。それが理由ではいけませんか?」
「一目惚れされるほどパッとした男ではないのだがな」
「うーん、細かいところは私にもよく判りません。強いて言うなら、その理由を見つけるためにお付きあいしているようなものです」
「感情が先、理由が後、か」
「そうなのかもしれません。色恋はあまり経験がないので、私を動かしているものが何なのか、よくわかりません。駄目なら駄目で、そのまま消えてしまうものなのかもしれないですけれど。…………………でも、六道さんも断らなかったですよね」
「度胸に敬意を表したまでだ」
「そういうところから、始まる恋があってもいいと思いません?」
「愛だの恋だの、そういうことは私にもよく判らん。お前も聞いたことがあるとおり、私は変人で通っている。自覚もある。正直、その手のことについて聞かれても返答に困る」
「そういうところが良いんですが」
「おまえも相当の変わり者だな」
「自覚してますもの」
 私に渡したものより小さな弁当箱を膝の上に置き、彼女は微笑んだ。
「それに…………………六道さんって浮気とかしないと思いますから」
 なるほど、私には「安全な男」という認識もあるのか。
 けれど。
「それは判らないぞ」
「浮気とか二股かけたら、何処までも追い掛けていきますわよ。地の果てまで」
 笑顔のまま、驚くような台詞を言う。
「怖いことを言うな」
「質の悪い女に捕まったと思って諦めてくださいまし」
「諦めるのには慣れている」
 といったら思いっきり頬をつねられた。
「何をする」
「そういうときは、もっとロマンチックな答えを返すものですわよ」
「事実を述べただけだろうに」
 何で怒られなければならないのだ、と思いながら渡された弁当箱を開ける。
 胡麻の振りかけられたご飯に、鮭と卵焼き。漬け物。
 シンプルだ。
 卵焼きは半熟ではなくしっかり焼いてあるのが良い。
 僅かに甘みがあるのは砂糖ではなく、だし汁を混ぜてあるのだろう。
 鮭は脂の乗ったものを塩を利かせて焼き上げてある。
 奇をてらわない、けれども堅実な仕事ぶりだ。
「うまいな」
「本当に?」
「嘘を言ってどうする」
「よかった。食べ物の好みを聞いてなかったので、とりあえず無難なものにしておいたのですけど」
 しかし和食なのはたぶん、どこからか私の好みを聞き出していたのだろう、とは思う。
「好みの食べ物は特にない。何でも食べる」
「嫌いなものがない、というのは幸せなことですわね」
「明香は嫌いなものがあるのか?」
「…………………ウニが」
「なるほど」
 と相づちは打ったものの、ウニを食べたことがないので旨いものなのかどうなのか、見当がつかない。
 しかし、あのトゲトゲした生き物の中身を割って、中身を食べるというのはなんだか気持ち悪くなるのも判るような気はする。
 しかも、食用にするのは生殖腺でつまり卵巣とか精巣に当たる部分なのだから、と考えるほど気持ち悪くなってきたので私は考えるのはやめた。
 なるほど。そう思えばたしかにウニは嫌な感じがするのは否めない。
「よく判る」
「判っていただけますか」
 相互理解、というものは案外こうして成し遂げられていくものなのかもしれない。
「伝えたいことが通じる、というのはなんだか不思議ですね。ひょっとしたら何処か、もっと違う場所で出会っていたのかも」
「私は、そういうことは考えないことにしている。今、ここで起きていること、それだけが全てだ。未来のことなど知らんし、過去などに興味はない。ましてや、別の世界のことなど知る必要もない」
「今が全て?」
「そうだ」
「それも寂しい気がしますけど…………」
「私には未来がないからな。別に先のことなどどうでも良い。今、この瞬間だけが私の全てだ。喜びも悲しみも、いずれは消える。私にとって、未来とはそういうものだ」
「では、あなたにとって全てである今は?」
「そうだな……………」私は手の中にある弁当箱を見る。「悪くない、と思う」
「悪くない、ですか」
「自分のために何かしてくれる人間が居る、というのはいい。ずっとでなくても、孤独ではない、と感じていられる。上手く表現できないが、私が此処に居る、居た、と言う事実が自分で判る。他人がそうすることで、私はそこに写った私を見る。鏡に映った私は本物ではないかもしれないが、私に働きかける他人を知ることで、私は私を感じる。それは紛れもなく本物だ、と感じることが出来る。他人は私自身を知る鏡だ。それが、好ましく写っているなら、悪い気分ではないさ」
「つまり、他人に好かれるのは気分がいい、と言うことですね」
「そういうことではないんだが、説明しにくいな。つまり、誰から好かれても良いというわけではなくてだな」
「私なら良いということですか?」
 そういうことになるんだろうか。
 自分で言っていることの意味がよくわからないが、要約するとそういう風に読みとれないこともない。
「そんなような意味なんだろうな」
 たぶん。
 そのままお互いに黙ってしまった。
 自分がとんでもないことを言ったような気がするし、明香は明香でとんでもないことを言われたような気がしているのだろう。
 時の過ぎゆくまま、全てがあるがままに流れていくのも悪いことではない。
 しかし勢いに任せて言っていいことと、言ったら気まずいことはある。
 どうにもかける言葉が無いので、とりあえず弁当に集中し、出来るだけ良く噛んで食べた。
 けれど弁当は減るし、ついには食べ終わってしまう。
 気まずい。
 どうしようかと思案していると、明香が呟く。
「話すと、お互いの距離が縮まるなんて……………そんなの、本当かどうか判らないですけど、でも話したい。それが私の願い。私の望み。でも、感じたこと、思ったことを口にするのは難しいですね」
「互いに伝え合う、理解し合うのは難しい問題だな。人は本質的に独善的な生き物だ。未だかつて、誰も正しい答えを出せた試しがない」
「何の問題にも然るべき壁がありますけど…………………時には手を携えてそれを乗り越えることが大事だと……………私はそう思うのです。足らない言葉でも、積み重ねていけば、時間をかけていけば受け入れていける、理解し合うことが出来ると、私は信じているのですけれど」
「愛は孤独な二人が守りあい、触れ合い、受け入れ合うところに生まれる、という奴だな」
 私が冗談めかして言うと、明香が固まった。
 驚いているらしい。
「なんだ。そんな鳩が豆鉄砲を食らったような顔は」
「まさか、あなたからリルケの文章が出てくるとは思いませんでした」
 それよりも『若き詩人への手紙』の引用だと言うことがばれたのが驚きだ。
「気の利いた格言を知っていると、馬鹿だと思われなくてすむ」
 そのための引用なんだが。
「意外と情熱的なんですね」
「情熱的なものか。まるで正反対、冷酷冷血の極みだぞ、私は。所詮、他人の見る私など仮面に過ぎない。偽善や誤魔化しは誰にでも出来る。騙されているだけだ、周りの人間もお前も」
「偽善だろうと誤魔化しであろうと、他人を喜ばせられるのなら、それはそれで尊いことなのだと思いますけれど。…………恋愛の格言なんて、普通の男性からは出てこないと思うのですが」
「暇なだけだ」
「照れなくてもいいのに」
「照れてなどいない」
「なるほど。それが貴方のスタイル、というわけですね。ニヒルでクール、現代に蘇るハンフリー・ボガート」
「茶化すな」
「あら?私は良いと思うのですけれど。レイモンド・チャンドラーもエド・マクベインも好きですから」
「私はクールでもタフでもないぞ。ただのひ弱な一個人だ。何の力もない」
「でも、六道さんは優しいですよ。少なくとも、私が知っているどんな男性よりも。マーロウ曰く『優しくなければ生きている資格はない』」
「そうなると、この世は死体だらけだな」
「別に、私はあなた以外の誰が死のうと知った事じゃありませんけど」
 …………………恐ろしい女だ。
 すました顔で言い放ち、弁当を食べている彼女の横顔をまじまじと見つめてしまった。
 あまりに美味しそうに食べているので、自然と視点が彼女の弁当に向かう。
 彼女の弁当は見事なまでに赤白のツートンカラーで、つまりそれはいったい何の弁当だ?
「いったい何を食べているんだ?」
「何って……………梅干しですが」
 それは判る。
 私が聞きたいのは、なぜ、弁当の中身がご飯と梅干しだけなのか、ということだ。
 しかも弁当箱の3分の1が梅干しのみで埋まっている。
「そんなにたくさん梅干しばかり食う気か」
「好きなんです、梅干し」
 満面の笑みで答えた彼女は滔々と解説を始めた。
「これは自然塩と梅だけで漬けた昔ながらの梅干しでちょっと酸っぱいんですが、食べ慣れてくるとすごく美味しいんですよ。それでこれがですね、はちみつ梅と言ってちょっと甘く漬けた梅干しですごく良くご飯に合うんです。で、こちらが紀州梅を鰹節と紫蘇で漬けたものでかつおの風味が梅の酸味を引き立ててですね」
 この女、好きな食べ物は飽きるほど食べるタイプと見た。
「わかった、わかった。ゆっくり食べろ」
 梅干しにそんなバリエーションがあることを知ったのは驚き+発見だったが別にそんな解説はどうでもいいのだ。
 梅干しばかり見ているとそれだけで酸っぱくなりそうだったので、視線を外へ移す。
 転落防止のために張り巡らされた金網の向こうで、私の知らない人々が戯れている。
 世界はつまり、そういうものだ。私と人の間には壁がある。金網のように向こうが見えても、それを上ってこちら側へやってくる人間はほとんど居ない。
 見えるけれども、触れ得ざる関係。声も姿も見える、壁。閉じた世界。
 誰もがそうなのか、私だけがそうなのか。
 しかし答えられる人間が居るとも思えない。人は誰しも違うものだ。私にとって閉じられた世界は、それでも恭也や明香のように側に来られる人間が居るという意味では孤独とは程遠い。
 それでも私は孤独を感じることがある。
 この差異を説明できる単語は存在しない。これは私固有のものだ。これを理解できる人間が居るとは思えない。個性、といえばこれが私の個性なのかもしれない。認めたくはないが。
 耳を澄ませば、鳥の鳴き声や川のせせらぎ、というわけにはいかないが、なぜか低音量でシューベルトの「鱒」がかかっている。
 …………………放送委員の選曲が根本から間違っている気がしてならない。
 私ならレクイエムでも流して、午後の授業にかける労力に追悼の意を表明するのだが。
 モーツァルトの「怒りの日」なんてどうか。
 グレゴリオ聖歌でも良いな。
 などと妄想に浸っていると
「……………聞いてます?」
 明香が話しかけていたらしい。
「すまん。聞いてなかった」
「もう。…………………こっちは一生懸命なのに」
「何がだ」
「デザートの話ですっ」
「怒るな。悪かった。すまん。ごめん」
 ついでに手も合わせてみた。
「で、デザートが何だ?」
「あの…………その…………………」
「うん?」
「デザートは私、というのをですね」
「やりたかったのか?」
 明香は耳まで真っ赤になって俯いてしまった。
 二人きりになって、ちょっとイチャイチャしてみたい、という気持ちは私にもわかる。
「しかし、誰もいないとはいえ、いつ誰がどれだけ入ってくるかも判らないんだぞ。あまり浮ついたことはだな…………………むーっ!」
 明香がいきなり抱きついて、私の唇を奪う。
 振り解けないわけではないが、腕に掛かる力から明らかに私を捕獲して離さない、という意志が込められており、ちょっと怖い。
 これではまるで、あべこべではないか。
 しかも私の方が抵抗してどうする。
 間近に感じる彼女の、仄かなラベンダーの香りと、先ほど食べた梅干しの香りが何ともミスマッチであり、普通こういうときは目を閉じて受け入れたりしなければならないのだが、妙に気になる紀州梅かつお風味。
 抵抗したい。
 などというジレンマに駆られている間に、デザートのキスが終わった。
 ファースト・キスの味が卵焼きと梅干し、というのはどうにも。
 これで良かったのだろうか、と悩んでしまう。
 女性から唇を奪われるというシチュエーションもどうなのだろう。
 デザートのキス、というよりデザートとして美味しくいただかれたような気がする。
 明らかに物事は明香のペースで進んでいる。
 恭也あたりに言わせれば、積極とは程遠い、どちらかといえば怠惰で面倒くさがりな私には、こうやって引っ張って貰う方が案外合っているのかもしれない。
 男としてのメンツ、などどうでも良いこだわりが無い分、余計に。
「いかがでした?」
 唇を離した明香が訪ねる。
 けれど、訊いた明香の方も顔を赤くしていて、主導権を握っているというようには見えない。
 精一杯の強がり。そんな彼女を見ると、可愛いな、と思う。
「背伸びをしている女性は嫌いじゃない」
 デザートの卵と梅干しの酸味は合わない、という正直な感想はともかくとして。
 
 時間は緩やかに過ぎていった。
 だが、どんな時にも終わりは訪れる。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、私は立ち上がった。
 座ったままの明香へ差し伸べた手を、彼女は何故か躊躇ってから握った。
 引き上げる。
 自然と、お互いの距離が縮まる。
 今度はこちらからキスしてしまおうか、と思ったが彼女はこちらを見ていない。
 女性にしては背が高い方だと思うが、線の細い彼女は抱きしめれば腕の中に収まってしまいそうだ。
 数秒すぎて、私は何も出来ず、ただ握った手だけは離さなかった。
 その理由も判らぬまま、彼女の手を引いて階段を降りる。
 言葉をかけるタイミングを計りかねたまま、歩を進める。いつ言うべきか、何を言うべきかと思いつつ、段は減り、廊下へと近づく。
 終わりがやってくる。
 始まりは終わりの始まり。
 次へと繋がる確証もなく、けれども終わりだけは確実にやってくる。これがこの世界の理。
 だからこそ今が全て、ということを彼女は理解してくれるだろうか。いや、これもまた私固有の感覚にすぎないのだろう。伝えるには難しすぎる。
 言葉もまた、全てを表現するには程遠く、足りないものであるということを、誰もが判っているわけではない。
 それに伝える方法は、言葉だけではない。
 たとえば彼女の手の温かさ。
 今の私には、それで十分だという気がした。
 けれどそれは何かが繋がったから、というわけでもなかった。
 そんな言葉で何もかもを説明したくはなかった。
 本当のことなど何一つ無いこの世界で、感じるものだけが真実。
 やがて道は分かれ、それぞれのいるべき場所へと戻っていく。
 絡めた指をほどいて。
「ではまた、放課後に」
 先ほどの沈黙がまるで嘘だったかのように、彼女は事も無げにそう言い放つ。
 隠された瞳の向こうに、何を見つめているのかも明かさぬまま。
 それは、別れとは程遠い、何か。
 遠ざかる彼女を見送って、自分の居るべき場所へと還る。
 そんな中でも、わずかに心躍らせている自分が居る。
 形容しがたい何かに囚われた、そんな想いを抱きながら。