shadow Line

<黒の長腕>ー胎動

 自宅に戻った俺は、妙に疲れた体をベッドに横たえた。
 上着からフラスクを出して一口含み、欠けた半身に思いをはせる。
 半身が欠けても人は生きていける。
 心の空虚感、現実との齟齬感は別の物で埋められる。それが人間と言うものだ。物質的な欠損と呼べるものもない。そもそも、半身とは何か、という定義さえ定かではない。それは自分の片割れが闊歩しているとは限らないからだ。
 ただ、俺たちは不思議な力を誰しも有して生まれる。俺のアブソリュートのように。その代償が半身と言うわけだ。
 けれども、誰もがその能力を自覚することもなく放棄する。
 先天的な内臓疾患。短命。感覚過敏。そんな形で反動は現れる。
 身体を人工物で補うたび、能力は減退していく。この世に、本当に全ての部位が生身の人間なんて、そうそういるものじゃない。そうして生きている人間が大半だ。半身は別のもので埋める。
 そんなものに命を懸けるなど、ばかばかしいと思う奴もいるだろう。
 だが俺は取り戻したい。
 自分の半身を人に持って行かれて、いいように使われているなど俺のプライドが許さない。
 ただ、人はパンだけでは生きていけない。俺には必要なのがそれなだけだ。
 もう一度フラスクを含むと、同時に電話が鳴った。
「……もしもし?」
 電話が鳴ったのは、かなり久し振りの気がする。情報が簡単に傍受される代物だ、それも当然だろう。
「もしもし?」
 もう一度問い返したが、何の反応も返ってこない。
 悪戯電話か。
 俺は、ため息と共に電話を切った。
 今時、殺す相手の所在を電話で確認するバカは珍しい。よっぽどレトロなヤツなのだろう。
 咥えたタバコに火を付けると、椅子に掛けておいた上着を羽織った。内ポケットにフラスクを押し込めば、もう何もいらない。
 満たされない生活。
 欠けた半身の血潮にこの身を浸せば、欠落した感情は癒えるのだろうか。
 何もない部屋だ。生活感なんて物はない。それが俺という人間の証明のようだ。
 遙か遠くで、ネオンが輝いている。
 眩く様な白。緑。橙。それに……赤。
 真紅の光点はゆっくりと俺の体を這い回り、そして狙いを胸に定めた。部屋を舞う埃に照らされて、赤い光条が外から飛び込んでいることが判る。 
 俺は自分の右手に煙草の火を近づけた。
 じわり、と闇が滲む。
 破裂音とともに何かが部屋に飛び込む。
 音速を超えたそれは、吸い込まれるように闇に「喰われた」。
 ……やはり狙撃か。
 わざわざ予告して狙ってくるくらいだ。警告のつもりだろう。
 なかなか味なことをしてくれる。
 タバコを咥え、深く吸いこんだ。赤熱した赤が、喘ぐように空気を吸いこみ、闇を赤く滲ませた。
 希望も絶望も、その道を乗り切るには、等しく灯火が必要だ。そう誰かが言ってたっけ。
 希望の光が俺の闇にあるのだとしたら、大した皮肉だ。光は闇の中に。詩の一片になりそうだが俺にとってはジョークにも成らない。
 俺はもう一度、右手をかざすように近づけた。
 一際濃い闇が染み出す。
 全てを喰らい尽くす、飢えた影。
 それが俺の持つ力、『アブソリュート』。
 生じた闇が凝縮し、米粒ほどの大きさに縮むと、咆哮のように空気を震わせた。
 タバコを近づける。
 逃げるように弾けた。
 砕けた窓ガラスを噛み砕きながら、それは飛び去った。
 断末魔の叫びが、尾を引きながら静寂を切り裂いた。
 それで、終わりだ。
 喰われた男はどこへ行っただろうか。
「アブソリュート」に喰われた物がどこへ行くかは知らない。
 別の次元か、はたまた宇宙の果てか。
 満たされることのない、飢え続ける力。まるで、俺のようではないか。
 俺は煙草をもみ消すと、ドアを開けた。
 悪趣味だが、死体を見届けなければならない。
 何かつかめるかもしれないし、喰われた場所が良ければ息があるかもしれない。
 腰のホルスターに納めた拳銃に、マガジンを収める。
 使うことはまず無いだろう。文字通り切り札であるし、最後の武器だ。
 もう一度革手袋をはめると、俺はドアを開けた。
 ドアノブを握る手に、僅かながら力がこもる。
 身体に注ぎこまれる他人の活力。その違和感が、「アブソリュート」の命中した感覚でもある。
 自己を満たす欺瞞。
 どうでもいいか。
 この力の意味なんて考えたくもない。
 すくなくとも、俺の半身を殺す手段に使えないことだけは確かだ。
 俺は、自分を満たしたいわけじゃない。
 自分の半身を貪欲に求めているのは何も一つになりたいからじゃない。
 薄気味悪い、もう一人の俺を、この世から消したいだけだ。
 俺は、俺一人でいい。俺という存在が、唯一絶対である事を証明し、実感したい。
 ただ、それだけだ。
 俺は不測の事態に備えて、思索を打ち切りながら、新しいタバコに火を付けた。