学園の片隅、ひっそりと存在する図書室に本宮読子は居た。
そこが彼女の領域であり、いわば彼女の城とも言える場所だった。
壁際にくまなく設置された書架は、その質量でもって音を吸い込み、遮断し、独特の静寂を形作る。廊下に出ればかすかに届くであろう学園内の喧騒も、ここ図書室には無縁の如くかき消されていく。
息を吸い込めばどことなくかび臭さも混じる紙の匂いが、読子には逆に心地よかった。
それに今はそれ以上のものがここには在る。
凝視しているのを悟られないよう、伏し目がちに、さりげなく、それでいて抜け目なく、その視線はある一点に向けられる。
読子のいるカウンターの向かいにある閲覧席に、その女性は居た。
女性としては驚くほど身長が高く、椅子に腰かけていてもその背の高さは目を引く。艶のある長い黒髪は、控え目な紺色のひもで一点に結わえられてポニーテールになっている。
読子は時折、それを手で梳いてみたい衝動に駆られる。
今はまだ、実現していないけれども。
手が届く場所にあるからこそ、容易には触れ得ざるもの。
羨望と陶酔。
その想い人の名前は、宮影ゆきなという。
きっかけは衝動的なものだった。なぜあのような行為に及んでしまったのか、読子は今でも理解することができない。
いまだかつて、衝動であっても、誰に対しても、あんなことをしたことはない。
同時に、何故ゆきなが自分を受け入れたのかも理解できない。
面識はあった。だが互いのことなど何も知らないに等しい。
読子が知っていることと言えば、ゆきなが手芸部の部長であること。面倒見がよく後輩から慕われているということ。図書室に新刊の予約をし、よく借りていくこと。読子の名前をちゃんと覚えていること。それと、若干褒められる方法ではないやり方で知った彼女の住所。
ゆきなは私の何を知っているだろう。
図書室にいつも一人でいる、赤毛の下級生。背はあまり高くない。胸も薄い。本についてはちょっと詳しい。
たぶんその程度だ。だから、ゆきなが私を受け入れる理由が分からない。
「先輩は、どうして私と? 」
付き合おうと思ったのですか、までは口に出せなかった。
「言わなかったかしら? 」ページから目を離し、ゆきなは読子へ向き直る。「私は、気に入ったものを手元に置いておきたい主義なの」
「先輩に気に入ってもらえるようなところなんて、何もないのに 」
「そういうところよ。いじらしいのは好みだわ」
そう答えて、ゆきなは再び手元の本へと視線を落とす。
まるで回答になっていないが、これ以上聞きだすのは無理という気もした。
読子は再び仕事に戻る。本の背表紙に、分類番号を記したシールを張る作業だ。単調だが考え事をしながら出来るので苦痛ではない。慣れてくればゆきなの姿を視界の隅に置きながらでも出来る。
ページをめくる彼女は美しい。黒田清輝の『読書』という絵に似ている。
手にしているのは、入ったばかりのニットの本だ。
それをモチーフに手芸部で物を作るのだろう。彼女が編んでいる姿を見ることはない。でも想像はつく。きっといつもの彼女のようにきびきびと、迷いなく糸を運ぶ。
言葉少なに過ぎゆく時間。
それでもいい。今を共有する、この代え難き幸福。
思えば。
読子は本の背表紙にシールを張りながら考える。
思えば、自分とてまさか同性に魅かれるなどとは思ってもみなかった。なぜ、と問うならまずそこから始めなくてはいけないのかもしれない。
なんで男に魅かれなかったのか。最初からそうだったのか。顧みれば確かに男を好きになることはなかった。
そもそも、私は人から愛されたことがあっただろうか?
愛されるためには愛さなければならない、というありふれた格言はさておいても、だ。
真子ちゃんや加奈ちゃんはたぶん好きだと言ってくれる。友達として。
友達としての好き、は愛されるという定義には十分含まれる。
けれども読子が渇望しているのは。
取り繕った仮面の下、その下の醜い素顔でさえいとおしむような。
汚れたところも否定せず、ありのまま存在する個として受け入れてくれる、そんな夢のような。
そんな夢のような、物語の中でしか存在しない無償の愛。
それは救いのない願いだ。そしてそのような意味でなら、『私は人から愛されたことはない』。それは幻想の中にしか存在しえないものだからだ。
正直にいえば、ゆきなと付き合うことは恐ろしい。仮面の下の素顔を覗かれたとき、彼女はその醜さに絶望しないだろうか。
それを払拭するだけのものを自分は与えられるだろうか。
何ができるか全くわからない。どうしたいかも見えない。気持ちだけが先走っていて、ほかのものが追い付いていない。
手にしたものの大きさゆえに手放し、逃げ出したいという揺らぎ。
それでいて抗いがたい魅力。言葉に尽くせぬ何か。
幸福感とその重さに混乱し、沸騰する感情。
唐突に、科学が爆発的に発展しないかな、と考える。同性愛が嫌悪される一つの要因は生産性のなさだ。それが克服されたら同性だとかは意味がなくなる。
ゆきなの子供が産めたら幸せだろう。彼女と自分を繋ぐ、もう一つの絆ができる。それは強固なものだ。気持ちのほかに繋がる、物理的なもの。
幻想は飛躍する。
逆はありえない。役割的に。
自分が産むのだ。そうすれば、彼女に与えられるものが確実に一つ増える。
二人くらい産めたらいいな。
名前はゆきなにつけてもらいたい。
と思ったところでシールの貼り間違いに気がついた。
あわててシール剥がしの瓶をとる。
考えに埋没するのは悪い癖だ。友人からしょっちゅう帰って来いと言われるのはあまり褒められたものではない。
一人で長くいると、こういう癖がついてしまう。
「静かなのね」
再びページから目を離し、ゆきなが呟いた。
「あまり人が来ないんです」
「そう……」ゆきなは本をテーブルに置いた。「いつもひとり?」
「此処にいるときだけはそうです」
「それはちょっと寂しいわね」
「今はもう平気です。すぐ慣れました」
「読子はそう言うところが強いわね。私は、一人は苦手だわ。一人でいると、世界のどこにも居場所がないように思っちゃう。一人はいいものだって言ったのはバルザックだったかしら?」
「はい。『孤独がよいものであると我々は認めざるを得ない』ですね」
ゆきなも哲学に興味があるのだろうか。掛け合いの相手がいることをうれしく思いつつも、読子は続ける。
「でも……『孤独がよいものだと話すことが出来る相手を持つことは一つの喜びである』って続きます」
慣れと孤独がよいものであるということは別としても、こうして話をすること、分かち合う相手がいるのは紛れもない幸福だ。
「そこまでは知らなかったわ。……うろ覚えで言うもんじゃないわね。さすが図書委員、よく知っているわ」
「そんな……たまたまですよう」
「そう? 必要な時の必要な言葉が出てくればそれだけでも称賛に値すると思うんだけど」
読子は自分の顔に血が上っていくのを感じた。
「褒めすぎです……それに先輩と一緒だから一人の時間も楽しめるんだと思います」
「それはなによりの褒め言葉だわ」
図書室では静かに。その原則は二人でいる時も変わらない。大原則にのっとり、二人は静寂を共有する。
会話は途切れがちだ。ささやき声でさえ、外に響いてしまうような錯覚がある。
実際には外からの音を吸い込むように内側からの音もまた織り込んでいくので、実質的には密室にも等しい遮音性がある。
二人の逢瀬はいつもこんな具合だ。ただ在ることを選択する。
そこの言葉を介さない繋がりがある。読子はそう思う。
放課後のわずかな時間を共に過ごすのは、胸焦がすひと時だった。
出来れば学校の外でもこうして逢いたい、と思う。
それを妨げているのは読子の心理にかかるある種のブレーキだ。
まだ早いのかもしれない。こうして逢うようになってからまだ一月しかたっていない。そこまで踏み込むのにはまだ何かが足らない気がする。
それが読子を戸惑わせる。 『想いとは銃弾のようなもので、激発するにはしかるべき手順が必要だ』とは以前に読んだ小説の一文だが、自分のあれは暴発のようなものだ。二度同じ轍は踏むまい。
進めと囁く者と、まだ早いと足止めする者。
二つの狭間で読子は揺れ動く。それでもきっかけがあれば打ち明けてはみたい。それほど、まだためらうほどの段階の出来事ではないはずだ。
カウンターの向こうでの葛藤を知ってか知らずか、ゆきなは立ち上がって読子のすぐ前までやってきた。そうして開いた本の1ページを指し示す。
「ね、これ編んであげようか?」
それはバラを思わせる複雑に入り組んだ模様が無数に組み合わさったマフラー。
スレンダーなモデルが首に巻いているそれは普通のマフラーよりも少し長く、身を寄せ合えば二人でも巻けそうな大きさのものだ。
写真を見ただけでもそれが尋常ではない代物に映る。
とはいえ、季節はまだ春を少し過ぎただけ。
いささか気が早いのではないだろうか。
「まだ春なのに、もう冬のことですか?」
あえて、ゆきなに問うてみる。
「冬になったら、編んでる場合じゃないもの。今からちょっとずつ織れば、冬までには二人分編む時間は十分にあるしね」
こんなものを二つも織ろうというのか。
ゆきなの手は魔法のようだ。
読子は改めてゆきなに対する畏敬の念が湧きあがることを感じつつ、聞いてみた。
「こんなのって……どうやって織るんですか?」
どのような手段を用いればこんなものが作れるというのか。これを編むには二本以上の手が必要な気さえする。特殊な道具を使うのだろうか。
好奇心は読子の原動力だ。
ゆきなは微笑み、身を乗り出した。
「教えてあげようか」
「手芸部で?」
「やあねえ。そんな意地悪なことはしないわよ。此処で教えてあげる」
「でも……」
読子はためらう。
もとより、女らしい技術の類を何も身につけてはいない。炊事も洗濯もからきしだ。裁縫などもってのほか。
むしろ現代にあってはそうした人間のほうが多いのかもしれないが、ゆきなの前では恥ずかしいことのように思えた。
「編み物はしたことない?」
「ありません」
嘘をついてもすぐにばれる。
それならいっそ白状してしまったほうがいい。
「うん、正直でよろしい」ゆきなはうなずいた。「凄く簡単な奴から教えてあげる。簡単なのをたくさん織って、後でつなげるだけで大きなのも作れるから」
「よろしくお願いします、先生」
茶目っ気を出してそんなことを言ってみる。
調子に乗りすぎたかな、とも思ったが、ゆきなはそれが気に入ったようだった。
ぱらぱらとページをめくり、それからページを開いて読子に見せた。
見開きには小さな花の形をしたモチーフが載せられている。
「ニットはね、そんなに難しくないのよ。一から目を数えて編むやり方もあるんだけど、慣れないうちはこっちの方がいいわ。時間のあるときにちょっとずつ編んだものを溜めるようにしておけば、後はそれを繋いで何でも作れるし。暇つぶしにももってこいよ」
「何か必要なものとかありますか?」
「編み棒があれば、あとは適当な色の毛糸があれば十分。どんなのが良いかわからないだろうから、最初は私が持ってきてあげる」
「いつから教えてくれますか?」
「次に来たときに」
「私の家でもいいですよ」
「そうね。いずれは、お邪魔したいわね」
ということはまだ読子の家に行く気はないのだ、と受け取る。
黒い影が胸の内をかすめる。腹の底で何かがうねる。
読子は自分の中に表に出したくないものが渦巻いていることを自覚している。
想えば想うほど、それは日に日に強くなっていく。
奪ってしまいたい、手に留めたい、という独占欲。
それは破滅の鍵。積み上げた信頼という名の城壁を打ち壊す破城鎚。
先人たちの多くが誘惑に駆られてそれを手にしてきた。相手の愛を試すため。あるいは、今あるものをもっと強固にしたいと願うため。
けれど壊れた先には何もない。廃墟と荒野があるのみ。
その一撃は、その行為は、城壁を打ち壊し、地に楔を刻む。試みの代償はいつだって断絶だ。
一度は誤った。
二度目はない。
ただの人間である読子は、この邪悪なものと戦うのに必要な聖別された剣も、祝福を受けた十字架も持っていない。「これでいい」「うまくいっている」「このまま少しずつ積み上げればたどり着ける」という暗示だけが読子の拠り所だ。それはひょっとしたら祈りに似ているのかもしれない。
それは叶うかもしれない。
神が、それを聞き届けるのなら。七つの罪の一つを笑ってくれるなら。
チャイムが鳴る。
今日の逢瀬はここで終わり。
「もう閉める時間なのね。あっという間だわ」
ゆきなは手にした本を鞄に押し込んだ。
読子もカウンターに散らばった鋏やシールの台紙を片付ける。
室内を見て回り、異常がなければ鍵を閉めておしまいだ。
とはいえ、今日は読子とゆきなの他には誰も居ない。見回りは必要とは思えなかった。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。窓は全部閉まっていますし、あとはカギを掛けて職員室に返すだけですから。それより……今日は一緒に帰りませんか?」
それは単純なように見せかけて、渾身の力を振り絞って出した言葉。
「ごめんなさいね。それは駄目なの」
ゆきなは心底申し訳なさそうな顔をして謝った。
「……やっぱり、周りに知られちゃうからですか?」
ゆきなの人気は高い。それは手芸部での取り巻きの多さからしても判る。
こうして部を離れ、人目を忍んで図書室に通ってくるだけでも大変なはずだ。
これ見よがしに連れ立って歩くのはリスクが多いことかもしれない。
しかし、ゆきなは首を振った。
「ああ、そんな些細なことではないのよ。読子には言ってなかったから、知らないのも無理はないわね。―――私、寮なの」
「えっ!?」
膝から力が抜けそうになった。
「知らなかったでしょう? まだたくさんあるのよ、読子の知らない私」
「だから、正門で見かけたことがなかったんですね」
「ひょっとして、待っててくれたとか?」
読子は下を向いて赤面する。
「あははは、ごめんね。そこまで気が回らなかったわ」
カウンター越しに伸びるゆきなの手。
それはこんな小さな壁など軽々と乗り越えて、読子に届く。
少しだけ冷たい指先が、読子の頬を撫でる。
「きっと私の知らない読子もいるものね。埋めていこうね、ちょっとずつ」
いつも鮮やかに読子の心を奪う、ゆきなの言葉。
満たされる、欠けていたもの。それは、欠けているとも知らずにいたもの。
砂に水が染み入るように、全部埋めて欲しい。
それは、読子の願望。
ゆきなは手を離し、読子は解放された。
ほう、とため息が漏れる。
彼女は魔女だ。言葉と仕草で読子を絡め取る。歓喜という名の鎖は何よりも自分を強く縛る。
魔のなんたるかを知っている自分よりも、それはずっと魔法に近い。
小さく笑ってゆきなが図書室を出た後、追いかけるように読子もそこを出た。
引き戸を閉めて、鍵を掛ける。
読子とゆきなが居た、その時間の名残を閉じ込めて。
「一緒には帰れないけど、校舎を出るまでは一緒に居てあげる」
ゆきなはそう言い、職員室に鍵を返すまで連れ立って歩いた。
禁を犯す。
否、誰が定めたわけでもない。
文字通り大人と子供ほどの差のある2人が連れ添って歩く。見とがめる者は居ない。誰も居ない。それに安堵し、それを惜しく思う。いつの日か、胸を張って共に歩むことが出来るだろうか。
足取りは軽く、重い。
歩調を合わせて進む行程は楽しく、けれども避けられない別離が待っている。
「お待たせしました」
鍵を返して再びゆきなの前に立つ。
ゆきなが身をかがめて読子の手を取り、指を絡めて繋ぐ。
身長の差がありすぎて、読子は肘を延ばさないと少し足りない。
このつなぎ方はまるで恋人というよりも親子のようだ。もう少し背が伸びたなら、とこの時ほど強く思ったことはなかった。嫌いだけど牛乳を飲もう。
手を繋いでいると、いつも少しだけ冷たいゆきなの指が少しずつ熱を帯びる。
互いの熱を交換しあっている、と思った瞬間に心拍数が上がった。
手が汗ばんでいく。
「読子の手は温かいわね」
どう答えたらいいものか判らず、答えの代わりにゆきなの手を強く握った。
「繋がるっていうのはいいわ」ゆきなは言った。「繋がるって事は一人ではないってことだものね。人には人が必要だわ」
ゆきなが望むなら、読子はこの手をずっと離さないでいたいと思った。
けれども下駄箱の場所が違う。
年次が若いほど階は上だ。読子は二階、ゆきなは三階。
「忘れていたわ。そういえば靴の置き場所が違うのよね」
指を解く。
外気に晒されて汗が蒸発し、熱が奪われる。読子はそれを嫌って手を握りしめる。ゆきなの温もりが逃げてしまわないように。
「靴取ってきます!」
自分で自分の大声に驚きつつ、読子は走り出した。
「廊下は走っちゃ駄目よ」
後ろからゆきなの声が響いた。
走ってはいけない、と言われつつも読子は走り、階段を駆け上がる。
けれど運動不足がたたった。下駄箱の前でひどくむせてしまい、時間をロスする。
咳き込んでめまいがした。
息を吸って、吐く。吐いて、吸う。
合間にむせつつも、30秒で息を整える。
血を送り出す心臓は壊れたポンプのようにがなっている。
馬鹿な事をした。そんなに急いでもここでゆきなを待たせては意味がない。
もう一度深呼吸して下駄箱から靴を出す。
下駄箱の脇には誰でも使えるように靴べらが用意されているが、それを使う気にはなれない。急いで靴に足を突っ込み、踵を踏みつけながら階段を一段抜かしで駆け下りた。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
ゆきなが笑う。
それだけでも走る価値があったのだ、と読子は胸の内で呟いた。
ゆきながそっと手を差し出した。読子はためらわずにそれを握った。
繋がるのはいい、と読子も思う。手を繋ぐのはそこに相手がいるからだ。
相変わらず心臓は過負荷に喘いでいるが、いま濁流のように血が巡っているのは走ったせいだけではなかった。
「夢のようです」
読子の言葉にゆきなは微笑む。
「私はここにいるわよ。だから夢じゃないわ」
再び手に汗がにじんでくる。ゆきなは不快に思わないだろうか。緊張しているのがばれないだろうか。
そんな思いがぐるぐると巡り、それが余計に汗の分泌量を増やす。
階段を走った運動量もあって、額に汗が滲んでいるのも感じる。
変な子だと思われてはいないだろうか。
気になる。
ふと、ゆきなが尋ねた。
「読子の家は遠いのかしら?」
「電車で二駅くらいですから、そんなには遠くないです」
時間にして10分ほど。
そもそも学校を選んだ理由の一つが近いからだった。
そんな単純な理由でも、選ばなかったらこの出会いはなかった。人生は不思議なものだと思う。
「そう。私が寮でなくて電車での通学なら一緒に行けたかもしれないのに残念だわ」
通えない距離ではない、ということを読子は知っている。
それでも電車に乗っているだけで一時間。駅まで少々。電車通学には少しだけ遠い、ということもわかる。
それでも事情がわかるという事と、惜しいと思うことは違う。
「私もです」
読子は表情を曇らせた。
触れ合う時間が長ければ、より近くに感じられるのに。
「仕方がないことではあるけれどね。それにひょっとしたら電車通学じゃ出会わなかったかもしれないのだから、それを嘆いても仕方がないわ」
その意味することは判らない。
しかし何処で変わるか判らないのが運命だ。読子は一月前にそれを知ったばかりである。
「そうですね」読子は頷き、それからゆきなを見上げた。「一緒に帰れないのは残念だけど、幸せな気持ちに変わりはありません」
「読子は本当に可愛いわね」
ゆきながしみじみと言うので読子は赤くなった。
「次に会う楽しみを思えば、一時の別れもまた良いものなのかもしれないわね」
「はい。一人がいいこともありますけど、それは二人で居るときがあればこそだと思います」
「私にもその強さがあれば……」
「え……?」
ふとそんな呟きが聞こえた気がして、読子は再びゆきなを見上げる。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでもないです」
気のせいだったのか。ゆきなの顔は穏やかだ。
歩くほどに近づく別れを惜しみつつも、そのときは必ずやってくる。
寮は学園の敷地内にあるため、必然的に別れは正門ということになる。授業が終わって時間が経っていることもあり、人影もまばらだ。
再び絡んだ指は解かれ、一つであったものは二つに戻る。
ゆきなは立ち止まり、読子は一歩進んだ。
振り返り、頭を下げる。
「さようなら、宮影先輩」
「気を付けて帰ってね、読子」
夕陽で緋に染まるゆきなの姿は神々しささえ感じる。
崇拝しすぎだろうか。
でも焦がれるとはそういうこと。相手の全てを肯定すること。受け入れること。認めること。それが読子のやり方。
ゆきなは小さく手を振って校舎の方へと戻っていく。
と思いきや、一回転して再び読子へ歩み寄ってきた。
何か、あるのだろうか。
ゆきなはどきまぎする読子の側へ。
その長身をかがめ、吐息の如く柔らかに、ゆきなは囁く。
「いつか部屋に呼んであげる。ルームメイト同伴でいいならね」
ゆきなはそれから校舎の方へ、いつものようにきびきびとした足取りで去っていった。
一度も振り返らぬまま。
読子はその姿が見えなくなるまま立ち尽くし、それから言葉の意味を反芻して再び赤くなった。