shadow Line

断章・冬の月之端

その日の空は鈍色に曇っていた。
風があるのか、窓の外では魔女の手のような枝が揺れている。
陽が当たらないせいだろう。屋敷の中はかなり冷え込んでいた。
食堂に置かれた温風ヒーターが暖気を吐きだしていなければ、二人分の氷像でも出来そうだ。
「ずいぶんと寒いな」
「天気予報では雪が降るようなことを言っておりました」
「そうか」
窓越しのどんよりと濁った空を見ながら、明香の入れてくれた紅茶を含む。
砂糖は入れずラム酒を少しだけ加えたもの、と明香が言っていた。
そのせいだろうか。暖かさが染み出して末端まで広がっていくような感覚がある。
ゆっくりと、ただゆっくりと、時間が過ぎていく。
無為に。それ故に、意味のある時の流れ。
何もすることがない、というのは不幸なのではなく幸福なのだ、と感じるときがある。
追われず、急がず、ただ過ぎゆくままに身を委ねる。
そういえば、古い映画にそんな下りがあった。
「時の過ぎゆくままに」
ふと聞いてみたくなった。レコードがあっただろうか。
少し思案してから、思い直す。
確か針のスペアがない。レコードも何処かへしまい込んであったような気がする。
見つけるのは面倒くさい。
「今日はずっとお屋敷に?」
「そうだな。天候も良くないし、出かける用事もない」
「わかりました。それではストーブの灯油を足しておきますね」
そう言い残して、明香は食堂を出て行った。
私の書斎だけには暖房が入っていない。
その理由は本が傷むせいだった。湿度管理を理由に私の父親は暖房の設置を拒んだらしい。そのせいで、書斎の温度は外よりいくらかましな程度だ。
床暖房を入れるにしてもエアコンを入れるにしても書斎の本棚を動かさざるを得ず、そうなるとこの膨大な蔵書を移動する手間が発生する。
人に手伝って貰おうにも、あそこにあるファイルのほとんどは企業の機密に近い内容のものばかりだ。おいそれと人目に触れさせるわけにはいかない。
解決方法として、ストーブを持ち込んで暖房にしている。温風ヒーターのほうが暖房効率はいいが、あのごうごうという音は集中して作業をするのに耳障りなので避けた。
正直、寒いのは応えるがそれ以上に冬の静けさは私の心を安定させる。
冬の訪れは、私にとって待ち遠しいものだ。
花も鳥も木々さえもざわめくことはない。人の来訪も数が減り、一日が静かに過ぎていく。昇る朝日も照りつけるほどではなく穏やかで、昼の明かりは柔らかく、夜が速やかに訪れる。
私は冬が好きだ。
師走、といえば忙しいイメージしか浮かばないのだが、何故か私の身の回りは物静かに過ぎていった。
大掃除やら何やらのイベントがあるのにもかかわらず、私の屋敷は明香の過剰な努力によっていつも万全以上に綺麗だったし、この上大掃除などやろうものならただのあら探しで終わるだけだ。
つまり、世間一般では忙しいはずの時期は、私にとってはいつも以上に暇になるだけだった。
もし掃除をするとなっても、この屋敷のことは私よりも明香の方が詳しいのだから下手に手を出さない方がいいというものだ。
現に、昨日私が掃除を手伝う、といったら丁重に断られた。
この時期になると仕事の方もめっきり数が減るので、一日の大半は書斎でぼんやりと過ごす。
とりたてて急ぐこともなく、私には趣味と呼べるものもない。祖父と父親の遺した膨大な蔵書に目を通しているだけで時間は瞬く間に過ぎていく。
経営だの政治だのに興味はないのでその関係の本など読んでも何の意味もないが、いずれ必要になるときが来るかもしれない。
難解な内容の本は午睡の供にも最適だ。
経済理論にもなると私には何がどう応用されるのかさっぱり判らないし、あまりの退屈さに眠くなってくる。
ふだん穏やかな睡眠とは縁遠い私だが、昼間の微睡みまでは邪魔されないようだ。
紅茶を飲み干すと、私は席を立った。

明香の呼ぶ声で我に返った。
いつの間にか、眠っていたらしい。
こんな小さなストーブでもずっとつけていればその熱量は結構なものになる。
書斎は地獄のような温度になっていた。よく酸欠で死ななかったものだ。
机から身を乗り出して窓を開ける。
冷え切った風が心地よかった。空はいよいよ暗くなっていて濁った灰のような色になっている。
ストーブを消して、書斎から出る。
廊下の温度はかなり低かったが、散々熱せられた体にはサウナの後の水風呂のように感じられた。
緩んだ汗腺が引き締まっていくような、あの感覚に似ている。
食堂におりていくと、明香が食事を用意していた。
クリームシチューとバターロール。
一日殆ど出歩かないので、この程度でも十分なのだということを明香は知っている。
それでも、決して手は抜いていない。
野菜のたっぷりと入ったシチューは吟味された材料に十分な手間をかけた本格的なものだ。ホワイトソースからブイヨンまで全て明香の手によって作られているので、そのコクと旨みは市販の既製品では到底味わうことの出来ないほど素晴らしい。
バターロールは明香の行きつけのパン屋のもので、明香曰く「自分で焼くよりもずっと手間が省けてしかも美味しい」と太鼓判を押すほどだ。事実、生地は噛むほどに甘さを増し、多少日にちがたってもその柔らかさと香ばしさを失わない。どんな魔法を使えばこのようなパンが焼けるのか、私には想像もつかない。明香が言うには発酵の仕方と酵母に秘密があるらしい。
そして、ただこの一時の食事のためだけに最高のものを出そう、という明香の心遣いが加わって、さらに美味しく感じられるのだ。
「いかがでしたか」
「美味かった。文句なしだ」
明香は一礼すると食器を下げた。
ふと見ると、キッチンの上になにかある。
バットに入れてあるのは下味を付けた丸鶏のようだ。
「それは?」
後かたづけをしている明香に尋ねる。
「夕食に使おうかと思いまして」
「そんな大きな鳥、二人では食べきれんだろう」
「あら?今晩は高隅様がいらっしゃるのではないのですか?」
そうだった。
思い出した。
別に夕食に招いたつもりはないのだが、夕方でないと来られないらしい。
用件だけ済ませたら追い出すつもりではいるが、たぶん居座るだろう。高隅の用件は大概どうでもいいことで、真の目的は明香の作るものを食べる、というところにあるようだ。
月に一度はやってくるし、食い物目当てだということは明香も気がついていた。
人が良いのか、それとも単に料理の理解者を得て嬉しいのか、明香も段々手の込んだものを高隅に出すようになっていて、雇い主の私としてはあまり良い気分ではない。
なにより、高隅は来るたびに明香を自分の屋敷にも来させるように私に言って帰るのだ。
週一、いや月に一度でも良いから、などとしつこいので人づてに「浮気の恐れがある」などと奥方に吹き込んでみたが、何をどう説得したのか先月など夫婦でやってきてあらかた明香の作ったものを食い尽くしていった。
救いようのない阿呆どもだ。
私の家はレストランではない。
「あんな太ったぶよぶよの助平にまともなものを食わせてやる必要はない。そこの生ゴミでもくれておけ」
「まぁ非道い。お友達のことをそんな風に言うものではありませんわ」
「どうやったらあの男と友人に見えるのだ」
「そうですか?なんだかお二人を見ていると、掛け合い漫才を見ているみたいで大変面白いのですが」
「私は面白くも何ともない」
西遠寺といい、高隅といい、何でうちに来る人間は変な奴ばかりなのだ。
うんざりだ。
「それに高隅のためにそこまで手間をかける必要はない。あの男はさして重要な客ではないのだから」
明香は少し困った顔をした。
「そういうわけにはいきません。料理が期待されている以上、手を抜いて主の顔を潰すわけにはいかないですから。私が手間をかけて料理するのは高隅様のためではありません」
そういってから明香は微笑んだ。
「先ほど『生ゴミでもくれておけ』と仰いましたが、もしその言葉従うにしても、きっと私はその生ゴミを使って一品作ってしまうと思いますわ」
そうだ。
彼女はそういう人間なのだ。
私の意よりも、私の立場を考える。常に私を立てようとする。
その仕事は細かく、手抜きもない。それを許さない矜持がある。
彼女がそこまで献身的な理由。自らを律する理由。
私にはそれがわからない。
そうされること自体は悪い気分ではないが、それはどんな理由に因るものなのだろう。
問いかけても僅かに微笑むだけで答えはない。
それが時折、私を不安にさせる。
それでも、彼女は常に正しかった。
時によっては私よりも。
それでいて、彼女は絶妙の距離を取る。近過ぎず、遠過ぎず、親し過ぎず。
不思議な女だ。
「あら」何かに気がついたのか、明香が窓をのぞき込む。「雪が降ってきましたわね」
「そのようだな」
この寒さ、この空模様ならば当然の事態。
明香にとって私の答えは不服だったようだ。
「嬉しくないんですか?」
「雪を見てはしゃぐような歳ではないからな」
「そういう受け答えだと面白みがないです」
何処か拗ねた口調。
彼女の色々な顔の一つ。時に妖艶でさえあるのに、こういうときはぐっと年齢が下がって可愛らしくも見える。
そんな口調で言われると、少し応えてやりたくもなる。
「やったー、雪だ、わー。これでいいか?」
大げさに両手を上げて喜んだ振りをしてみると、明香は大仰に頷いた。
「何だ、やれば出来るんじゃないですか」
がくっ、と力が抜ける。
「お前には皮肉というものが判らんのか」
「私は学もなければ目も節穴ですので」
ちゃんと判っているではないか。

明香はなにやら準備があるといい、私はやることもないので書斎にこもって再び本に手を出す。
蔵書が哲学と経営学に偏っているのが問題だが、禁書として絶版になった本や染みだらけのかなり古い本も混じっているので、そういうものに目を通すのも面白かった。好事家などは目を輝かせるのかもしれない。そういうものの価値は私には判らないし、別に知りたくもないが。
英語の原書もかなりあるが、私の語学力ではこれをすらすら読むというわけにはいかなかった。辞書片手に読むのも面倒なのでこれらの本には手をつけていない。
哲学は一人の人間は救えるかもしれないが、大勢を救うには向かない。経営学は個性を潰すが多くを助ける。蔵書の傾向を見れば収拾をした人間の個性というものが垣間見える。
父親か、祖父か、どちらの個性かは判らないが。
こうした本に共通なのは、勝つ、という事だ。
勝て。勝つ方法。勝つには。
それが世の流れなのだろうか。
世界は常に走り続け、消費する方向へと向かっているが、果たしてそれは幸福なのだろうか。
何をそんなに急いでいるのか。
急いで、どうしようというのか。
順位の数字は常に小さく、稼ぐ金額は人より多く、それほどまでに数字を追いかけて、一体どうするのだろうか。他人と手を取り合わなければ生きていけないくせに、邪魔となれば排除する。過去から現在に至るまで、人間の敵が人間であり続けたというのは何とも進歩のない話だ。
そのくせに、自分が傷つくことは極端に恐れる。
癒し、などという単語が跋扈しているあたりで、人間という存在はもう末期だろう。
他人が癒すのではなく、傷は常に自分自身の力で治るものだ。薬やアドバイスはそのための方向指示器に過ぎない。生物としての基礎さえ失ったものに未来など無い。
人間という生物は矛盾の塊だ。
とはいっても、私自身も唯の人間に過ぎない。
この矛盾と葛藤こそが人間という証であり、人を不可解に生き物にしている要因なのだろう。
人として生まれた者は、諦めて人として生きる他はない。そのくびきから逃れることはできないし、SFではないのだから人以外のものにもなれない。獣のような奴というのを何人か知っているが、それでもまだ彼らは人間の範疇に収まっている。
それは希望であると同時に絶望だ。
どんな形でも、社会との接点切り離すことなど出来ないのだから。
矛盾を受け入れて、自分で答えを出す。
結局、そんなところに行き着くのではないだろうか。それが良い、悪いという意味は抜きにして。
粉のこぼれるような雪の降る音に混じって、時折ドアの開く音がしている。
明香が出入りしているようだった。
雪ということではしゃいでいたので、積もり具合を見に行っているのだろうか。
この歳になると雪には煩わしい、というイメージしかないが、それでも心躍ることもある。
気持ちは判らないでもなかった。
私は視線を窓から本に移した。

下から明香の呼ぶ声がしたので、読書を中断して食堂へおりていく。
廊下の温度はいよいよ低くなっていて、吐く息も凍りそうだった。
食堂にはいると、ほっとするほど暖かい。
「ちょうどお茶の時間になりましたのでお呼びしましたが、お忙しかったですか?」
「いいや。別に問題はない」
忙しいも何も部屋にこもって暇つぶしに本を読んでいただけなのだから。
「そうですか。それはよかったです。実は今日のおやつは少々趣向を凝らしていまして」
体に染みついた甘いバニラの香りとともに得意満面の顔で差し出したのは。
「アイスクリームか?」
「はい」
小さなガラスの器に盛られているのは、少し黄色がかったアイスクリームだった。
冷蔵庫にはこんなものはなかったはずだが。
「いつの間に買ってきたんだ?」
「買ってきたんじゃありません。作ったんです」
「作った?」
「はい。この寒さなら外に出せばすぐに凍りますから」
「そんな簡単にできるものなのか」
「そうですね。材料と手順自体は簡単で、雪と塩を入れたボールに湯煎をするみたいにして冷やし固めながら作るんです」
「塩を混ぜて温度を下げる訳か」
「そうです。あとは凍ったら混ぜて、また凍らせる、の繰り返しで生地に空気を含ませて口当たりを整えていくんです。本当はアイスクリームメーカーがあれば、誰でも手軽においしいのが作れるんですが」
いやに外へ出たり入ったりしているのかと思えば。
こんなものを作るために。
「わざわざ外に出して凍らせて、そんな手間をかけてやっていたのか」
「そうです」
「この寒いのにうろうろしていると風邪をひくぞ」
「まあ。気にかけて頂けるなんて嬉しいですわ」
「当たり前だ。病人の面倒など見られん」
明香から器を受け取って、一口食べる。
柔らかい。ソフトクリームのようだ。
「意外と緩いな」
「うーん、北海道でやったときは成功したんですが…………やはりこちらでは雪が降っても外気温のせいで上手くいきませんね」
「なぜ冷蔵庫を使って作らなかった」
「あらあら。知らないんですか?雪の日に作るアイスクリームには魔法が宿るって事を」
「聞いたことがないな」
さく、という音がしてクリームの中にスプーンが滑り込んでいく。
市販のものよりもずっと軽い手応え。
口に含むと、それはあっという間に溶けて、ほのかな甘みとバニラの匂いだけを残していった。
「こんな風に、暖房つけてアイスクリームを食べるのってわくわくしませんか?」
「わくわくはしないが、アイスクリームは嫌いではない」
アイスクリームと言うよりは生クリーム入りのバニラ風味卵シャーベットという感じだが、味は悪くない。
アイスクリーム、と呼ぶには少し違うような気もする。
卵と生クリームと、バニラエッセンスの香り。一体にはならず、それぞれがそれぞれの持ち味を主張する。
ジェラートとシャーベットの中間のような不思議な味だ。
取り立てて美味い、というほどではなく、売り物になる味でもないが、この日、この時に食べる物、という意味合いでは相応しいのかもしれない。
家庭の味、というものは味そのものよりもシチュエーションに意味がある。
誰かが、誰かのために。
私にはそうした経験はないが、きっとこの様な感慨を抱くのだろう。
「お気に召しまして?」
「そうだな。悪くない」
私の答えに明香は苦笑した。
気の利いた受け答えでも出来れば明香としても満足なのだろうが、咄嗟に何も浮かばないのだから仕方がない。
美味、というほどではなく、不味くもなく、かといって普通の味でもなく、私のためにわざわざ外に出入りして作ってくれたことを思えば嬉しくもあり、かといって寒いのにわざわざ冷えた物を食べるという行為に複雑なものを感じざるを得ず、手放しで絶賛も出来ず、それでもこの季節外れの品を歓迎しようという気持ちがある。
そんな気分を表現するとなれば「悪くない」としか答えようがなかった。
「さっき冬に作るアイスクリームには魔法が宿る、とか言ったな」
「冬ではなくて、雪の日です」
いちいち細かい。
「どっちでもいい。何の魔法が宿るんだ?」
「なんだと思います?」
「知らないから聞いている」
「なんだ、結構気にしてますのね」
「気になどしていない」
「では内緒です」
教えてくれてもよかろうに。
手製のアイスクリームを食べ終わると、明香が口直しにローズティーを入れてくれた。
口の中に残るバニラの香りと薔薇の香りが一つになると、また違った味わいがある。
こうして二人でいても、会話が弾む、という事は少ない。
静かにお茶を飲み、無為に時を過ごす。
明香は何が楽しいのかいつも微笑んでいるし、私はいつも内省的に物事を考えて過ごす。
しばしの静寂。
ティーカップは空になっている。
「アイスクリームの魔法というのは、幸せになるとか、そういうものなのか」
「そんな大層なものじゃありませんよ」
ティーカップを片づけながら明香は言った。
「雪の日のアイスクリームは、心を柔らかくするんです」
そう笑いかけると、明香は立ち上がった。
「さて、それではそろそろ仕込みを始めませんと」
私は頷いて椅子から立ち上がった。
私が居ては明香も料理しづらいだろうし、第一私が此処にいる必要はない。
食堂を出る。
雪の日の魔法、などというメルヘンを信じる気にはならないが、こういうのは悪くない。
心が柔らかくなる魔法。
本当かどうかは知らないが、少なくとも、高隅が居ようと居まいと夕食を楽しみにしよう、という気が出てきたのは確かだ。
私は階段を上り、もう一度書斎に入った。
高隅が明香の料理に入れ込むのもなんだか判るような気がする、と思いながら。