shadow Line

白銀の鎖ー3

意味のない、意味のない積み重ね。
ただひたすらに終わりだけを願い、ただひたすらにその時だけを待った。
だというのに、私に残されるのは孤独だけで、真実の終焉などではなかった。
私は自ら死ぬことも出来ず、その決意さえなかった。
抜け殻、生ける屍、ただそのようなものとして鼓動の止まるのを待ち続けるしかないのか。
うんざりだった。
それでも、私は自分の手で何もかもを終わらせる決断を鈍らせてきた。破滅の扉を開くのは簡単だった。けれど、何が私を現世に留めているのか、それさえも判らぬほどに私は愚かで、無力だった。
それを自覚するが故に、私は身動きすら出来ず、ただそこに横たわるだけだった。
かつての栄光。かつての輝き。その眩い残滓が網膜を焼き、その朧を追いかけ見つめながら過ごしてきた。
何もかもが過去のままだった。
本当に、過去のままだったのだ。
せめて、その重みで潰れてしまうほどに、狂ってしまうほどに、私自身が脆ければ良かったものを。いっそ獣と化して山野を彷徨ってしまえば良かったものを。
けれども、そうはならなかった。
何もかもが通り過ぎていく。今度のこともまた通り過ぎていく、数多の出来事の一つに収まるのだろう。特別なことなど何もない。特別であったとしても、それは何でもないパズルのピースとなって、片隅にはめ込まれ、埃を被っていく。記憶というものはそういうものだ。時折それを見つけて埃を払い、光の下へと晒しても、またすぐに何処かへしまわれていく。
人間の記憶はがらくたのようなものだ。過去の輝きなど所詮はメッキにすぎないのだ。
特別であろうなどと思いこもうとしても、やがては消えていく。
それを惜しい、と思う時もある。実際に惜しく思う。しかしそれはやがて灰色に塗り潰されて消えていく。
何かが出来るはずだった。
だがもはや遅い。
感傷的な気分さえ、過ぎ行く時の歯止めにはならない。
部屋を一歩出さえすれば、それでも何かが変わるかもしれない。
けれども私の目は虚ろに闇を拾い上げるだけだ。扉の方へ視線を向けることさえない。
時間が過ぎていく。
ただ、ただ、過ぎていく。
無意味な問い、無意味な後悔を、渦巻くように繰り返しながら。

終わりは、あっけないほど簡単にやってきた。
特別ではない朝。
特別ではない目覚め。
誰かにとって特別な出来事は、当の本人にとっては特別でありさえはすれ、圧倒的多数の「見知らぬ人」にとってはいつもと変わりがない。
特別と日常が交差し混淆する。
だからこの世には、本当の意味での特別な日など無いのだ。
それが私にとって特別であったとしても。
また明日、と明香は言った。
そして、この日がやってきた。
もう、これより先に、『明日』などはない。私と明香にとっては。

いつものように軋む体に血が巡るのを待ってから、ベッドを降りる。
屋敷の中には不気味なほど冷えた空気が漂っていて、頻繁に差し込む陽光さえ役に立たないようだ。
けれども階段を下りていくと、いつものように暖かみのある空気が流れ込んでくる。
明香が起きて台所仕事をしているからだ。
それは、この3年で当たり前のように行われてきた。
朝の儀式とでもいうべきか。
それも今日で最後となると、妙な感慨がある。
この屋敷が生きているのはきっと、明香が居るからこそなのだ。此処は私の屋敷などではない。あらかじめ明香に与えられていて、私はただ先にそこへ住み着いていただけ。
そういう想いは前々からあったが、今ははっきりとそう思う。
食堂へ行くと、明香が待っていた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
いつも通りの朝。特別でない、一言。
「夕べはよくお休みになりましたか」
少しだけ、考える。
夢のない夜。夢のない眠り。何も運んでこない、ただの暗い闇。
けれど、それは静寂。
夢は常に黒いものしか運んで来ない。ならば、夢のない眠りの意味するものは、安息。
私にとって、安息とは何もないことだ。
また、少しだけ考える。
何も思い出せない。
何も夢は見ていない。
それは、よい眠りだった、ということなのだろう。
「そうだな。よく眠れたようだ」
私の言葉に明香は笑みで頷く。
「いま、朝食をお持ちしますね」
明香が台所へと消えて行き、私は椅子に腰掛けて彼女を待った。
食堂はほのかに暖かい。
カーテン越しの陽の光は、何処までも柔らかく部屋の中を照らしている。
その暖かさに微睡んでいると、明香がやってきた。
「お待たせいたしました」
手にした盆に乗せられている物は。
「粥か」
テーブルに置かれた小さな土鍋の蓋を開けると、湯気とともに甘い香りが食堂に漂う。
「クルミともち米のお粥です。お好みなら、刻み生姜をご用意しますが」
「いや、これでいい」
レンゲで一すくい、口に入れる。
もち米の食感とクルミのほのかな甘さが不思議と心地よい。
以前、似たようなものを食べたことがあるが、それと比べても遙かに美味い。あれは牛乳か何かで煮てあったが、これの甘みはクルミの物だけだ。
食欲のない時でも、こういうものは喉を通る。それを考えてのことだろうか。
少なくとも、私の体について明香の知らないことはないように思える。
それが類い希なる彼女の観察の結果だとしても、私は別にそれを不愉快だとは思わなかった。
私が自分の肉体のことには無頓着であることを思えば、明香は私以上に私自身を知っているのかもしれない。
明香に任せておくのは、私が自分で何かをするよりも遙かに確実で、効率が良かった。
自堕落、といえば自堕落なのだろう。それを自覚しないほどに、明香の家事の腕前は良かった。
何もかもが終わりに近づくにつれて、そういうことを実感してくるのは不思議だ。
粥を全て食べ終えると、明香はそれに満足したようだった。
「本日のご予定は?」
「何もない。一日、家にいる」
「かしこまりました」
いつものように、微笑して明香はそこから立ち去る。
食堂に残された私はしばし窓から見える光景に目を移した。
光。
眩い輝き。
そんな世界に思いを馳せる。
明るく、何もかもが輝いているはずなのに、その陰に澱むものがある世界を。
この世界は出来の悪い冗談のような物だ。
まだらに混じり合った、泥水の海。
上澄みをすくい取って綺麗な水だけ飲むというわけにはいかない。
だが、泥水だと判っているのなら、飲み方もある。そういうことなのだ、この世界の仕組みは。
最後の一日。
どう過ごすべきか、考える。
何もかもが過ぎ去っていく、最後の一日だ。
私は立ち上がって書斎へと向かった。
最後なら、やはり何もすべきではないだろう。
何処かへ誘う、何かを与える、特別な一日にする。
それは、間違いだ。
少なくとも、明香と私にとっての一日というものは、そういうものであるべきではない。私と明香の間には、何もない。ただ、主従があり、明香は明香の為すべき事をし、私はその屋敷の主に過ぎない。複雑さも駆け引きもない、そういう関係でいられる。
何もかもが明らかになった今では、本当の意味で、私と明香を隔てるものはない。
書斎で明香の掃除する音を聞き、明香の作ったものを食べ、少しの間だけ談笑し、夜の帳の落ちるのを待つ。
そういう、取るに足らない、何もない、ただの一日こそが、最後としてふさわしい。
そうあるべきなのだ。
奇妙な感情を抱きながら、私は書斎へ行く階段を上る。
それをなんと表現すべきか。
ふと、それは「寂しさ」と表現すべきか、と思い、苦笑し、妄想を振り払う。
それは只の一日。
特別ではない日。
毒にも薬にもならない、つまらない本を手に取るも良し、読みかけの詩集でも良い。
そうして過ごすものだ。
私は書斎にはいるとドアを閉め、それから本棚に目を走らせた。

何も無い日ほど、過ぎるのは早い。
来客もなく、仕事の依頼もなく、本当にただ過ぎていく。
世界がいつもこうであればいい、といつも思う。何もなく、緩やかに、静かに終わって、閉じていく。それは炎が燃え尽きるのではなく、炭火が静かに灰になり、熱がゆっくりと冷めていく、そういう終わり方。
舞台の幕が閉じるより、照明が静かにフェードアウトしていく方が演出としては美しい。少なくとも私はそう思う。
無論、終わりの美醜にこだわるのは意味が無く、終演の時間さえ知らされていないのが人生だ。そもそも、終わりを望むような劇など出来がよいものとは言えない。
少なくとも、今日という日に限っては、僅かでも幕間は遅いほうが良い。そう願っている。
「お昼はいかが致しますか?」
「そうだな…………頂こうか」
気まぐれで食べないこともあるのに、明香は手を抜いたものを出したりはしない。
彼女にそれを言ったことがあるが
「お客が来ても来なくても、店を開けてメニューを用意するのが私の仕事です」
と答えられた。
そこが好ましくもあり、彼女を尊敬できる所以でもある。
仕事のない時の私と言えば、呼ばれるままに餌付けされる動物園の動物のようだ。
趣味と呼べるもののない私にとっては、明香の食事だけが退屈な一日を紛らわす一時となる。
出されるメニューは完璧であり、明香が来てからというものめっきり外食が減ったのは、まさに彼女の腕のなせる技だ。
小食な私に合わせて量は少ないが、その分手が込んでいる。
茶碗に盛られた御飯はごく少量。
主菜は私好みの少し甘めに煮た鰤大根。
汁物はない。
いつもならば側にいる明香の姿はなく、配膳が終わるとともに何処かへと姿を消した。
何かやりかけのことがあるのか、それは判らない。
明香の行動には無駄が無く、例えばそこに居ないことにしても何らかの意味がある。
彼女もまた、最後の日は、いつもと同じようにして過ごすことに決めたようだった。
特別ではない、特別な一日。
それでも、もう半分が過ぎた。
一人の食卓に出された、この上なく贅沢な一品をゆっくりと食べ終えると、食器をそのままにして私は食堂を出た。
気分転換に、屋敷の中を見て回る。
どこもかしこも丁寧に磨き上げられ、手すりやテーブルには命が宿っているかのような光沢がある。
ときおり明香の姿を見かける。何かをしているのだろうが、それを追ったりはしない。
気にならないわけではないが、何をしているか判った時の面白さが半減する。
どこもかしこも綺麗にされているが、そのための労力は並みならぬものがあるに違いない。けれども、私がそれに対して何か報いることが出来るかと言えば、せいぜい褒めることと給金に色を付けることぐらいだった。
屋敷のあらゆる事は明香がやってしまうので、私には何もやることがない。
そもそも、この屋敷の維持管理のために私がやっていたことは全く何もない。
明香のおかげで住環境は圧倒的に向上したし、常に糊の利いたシャツとズボンがはけるのは気分のいいことだった。
クリーニング屋に毎日来いというのは、相手よりも私が面倒だし、出前も外食も面倒だった。
そんな私だからこそ、明香の存在は普通の人間以上に貴重なのだろう。
考えてみれば、私という人間は介護の必要な人間以上に手のかかる存在なのかも知れなかった。
何せ、私には実利的なことが何一つ出来ない。掃除も料理もまるで駄目だ。仕事の上ではある程度の信頼を得ているが、一個の人間としてみた場合、私という人間は欠陥以外何者でもない。
人間的魅力も乏しい上に、自身が人間嫌いで人と交わろうとしないのだから、世捨て人以上にたちが悪いのは自覚していた。他人の力無しには生きられないのに、自分から求めることは極力したくはないのだ。
こうして行き届いた管理のされている場所にいると、それを痛感せざるを得ない。
本当に私には何もないのだった。
私という人間の生は完全な惰性によって動いており、どこで付けられたのかも判らぬ弾みによって動いている。それを運命と呼ぶも時の流れとも呼べるだろうが、大きな流れに任せたまま、舵取りさえしていない。
けれどもいつの日にか、何処かへ流れ着くだろう。
それは最早、諦観とも達観とも呼べない、ただの放棄に過ぎない。
庭の花を手に取ることもなければ、新しい椅子を買うことも無い、停滞だけが私の全てだった。
常に明香によって維持され、変えられ、また磨き上げられていたこの屋敷の中であっても、ついには私という人間そのものが磨かれることはなかった。それは明香が変えることが出来なかったのではなく、ただ単に、愚かしくも私自身が変わる事が出来なかった、そういうことなのだろう。
他人によって人が変えられることはない。人は自らに因ってしか変わることが出来ない。それは、私の知っている数少ない真理の一つだった。
屋敷の持ち主である私自身が、この屋敷に最も相応しくない、というのは皮肉な結果だ。
だが、私は変えようとはしなかったし、これからも変わることはないだろう、ということも判っていた。
変化をしないこと、それ自体が私の変化なのかも知れなかった。
私は、この屋敷にとって、仮初めの客でしかない。私は分不相応な物を与えられた、愚かな異邦人だ。本来、持ち主であるに相応しい人間が立ち去ろうとしているのに、場違いな相続人だけが居残り続ける。
それでも、私にはこの屋敷の他に身を置くべき場所がない。
一通り屋敷を見回って得たのが、そんな答えだった。

何もない一日の境目は曖昧だ。
現実と夢、微睡みと覚醒の境界は薄く、時が経つのは早い。
陽は傾き、昼と夜の暗く淡い稜線が窓から見えた。
空気は少し肌寒く、指先には冷気がまとわりついている。ページをめくる手は微かにぎこちない。
部屋に差し込む光量が減って、文字を拾う目も霞んできていた。
下で明香の呼ぶ声がする。
「お食事のご用意が出来ました」
「ああ。今行く」
そう答えて、読みかけの本を閉じる。
書斎の扉を開けると、屋敷の中には沈黙が満ちていた。
相変わらず、漂う空気は冷たい。
それも、同じように下へと降りていくたびに柔らかく、暖かくなってくる。
これが明香の魔法。
その力の根源がなんなのか、私には窺い知ることは出来ない。たぶん、これからも判らないだろう。
食堂のドアを開けると、そこにはいつもの通りテーブルがあり、明香が居た。
変わらぬ光景の、最後の情景。
塵一つ無く、綺麗に磨かれたテーブルの上には箸だけが用意されている。
それ以外にはなにも置かれていない。調味料の類もなかった。
「最後の晩餐というわけだな」
「キリストになぞらえるなら。けれど、違うのは、私にも貴方にも、明日があるということですわ」
「明日か…………」
皮肉な響きだった。
そんなものを願ったこともなければ、それを実感したこともなかった。
時などただ過ぎていくだけのもので、そこには何の意味もない。もとより、私という存在に意味など無かった。
繰り返し、繰り返し、私はそう思ってきた。それは紛れもない事実で、私は価値あるものを生み出したことがなければ、価値ある創造に手を貸したことさえなかった。
こうして一つの終わりを迎えること自体、予想だにしていなかった。
ただ平坦な道にも、緩やかなうねりがあり、そうすることでたどり着くものがある。そういうことなのかも知れない。この世には、直線のように見える曲がり道もある。
その先にあるのがまた平坦な道であるかも知れず、それを区切りとも終わりとも言うべきなのかは私にもよく判らない。しかし明日という日は、今日とは違ったものになるだろう。
それだけは確かで、それだけは覆しようがなかった。
本来、日々はそうあるべきものなのだろうが、何もかもを諦め、時間を浪費し続ける私にとって、変化というものはなかった。
しかし、こうして明香の作る食事を口にすることは、もう無い。
この瞬間こそが明香と私の関係の集大成とも言うべきもの。
大仰に言えば、だが。
図らずも期待する私の前に置かれたのは、大きめの茶碗に盛られた白飯と、大根と油揚げの味噌汁。
「それで?」
「これで全てです」
「主菜がないが?」
「釜炊きのご飯と、お味噌汁、それで全部ですわ」
「変わったことを考えたな」
「和洋中華、色々考えましたが結局こうなりました」
「主菜は不要というわけか」
「不要、と言うよりは、これ自体で一つの料理です。別々に食べても良いのですが、私のお薦めとしては、こう、ご飯にかけて食べるのが」
「…………それは行儀が悪いと、言われなかったのか?」
「私は梅干しの次にこれでご飯を食べるのが好きなので、是非その美味しさを貴方にも味わって貰おうと思ったのですが」
これは単なる偶然なのだろう。
明香が知っているはずがない。
しかし実は明香がいなかった頃には、レトルトの白米にインスタントの味噌汁をかけて食べていたことがある、とは言えなかった。
しかも割と頻繁に。
意外な共通点。意外な出会い。意外な組み合わせ。
それも、今、この時に。
「ふ、ふふ…………」
よりにもよって、そんな献立が出てくるとは思わず、私は笑ってしまった。
「これはいいな。突き詰めていったところがこれか」
「お気に召しませんか?」
「いいや。これこそが、私とお前なのだろう。これが良い」
味噌汁を艶のある白飯にかけて、掻き込む。
大根の甘さと汁気を十分に含んだ油揚げが口中で旨みを広げ、ややかための米がそれを引き立てる。浅葱の香気が後に残り、静かにそれを締めくくる。
これがただの味噌汁と米ならば、とても料理とは言えまい。
しかし、米にも味噌汁にも、明らかに手が込んでいる。釜炊きの米といったが、この屋敷に釜戸はない。ということは、明香はこの一品のためだけに釜を作ったか、あるいはそれに変わるものを用意したという事だ。
味噌も普段使っているものとは味が違う。普段のものよりも、ずっと甘い白味噌を使っているようだ。
材料を吟味し、厳選し、ある種それらを破壊するかのような方法で食する。
王道であり、基本でありながら、あくまで外れたところにそれを持って行く。
それが答えだった。
味ではなく、旨味で食べさせる。そこに明香の心意気がある。
見た目でいうならば、私の食べていたレトルトの米とインスタント味噌汁に、そう変わらない。しかし、その中身はまるで別の次元のものだ。
つまりは、これが本物なのだ。
同じものでありながら、あくまでその位置するところは対極にあった。その事に、私は感動すら覚えた。
気が付けば、茶碗は空になっていた。
夢中で食べていたらしい。
「御馳走様。美味しかった」
余計な賞賛など必要ない。それが全てであり、正直な感想だった。
「よかった。実は、もう一品あるのです」
量に関して、いささか物足りなさを感じていた私に、明香が用意したもの。
それはお焦げのお茶漬けだった。
薬味として花山椒を漬けたものが添えられている。
かつてはおそらく何処でも手に入り、そう珍しくはなかったもの。
失われつつあり、人目から消えつつあるもの。そんな想いが込められているのかも知れない。香味と落ち着いた風味の中に、そんなものを感じ取る。
無論、私の勝手な解釈に過ぎない。それでも、そんな意味を見出してみるのも面白い。たった一皿の中に、哲学がある。
明香の料理は、そういうものだ。彼女自身がそれを口にすることは滅多に無いが。
お焦げの香味は素晴らしく、ぱりっとした歯ごたえと花山椒の香りが重なり合ったそれは、食後の一品というにはあまりに贅沢な代物だった。
しかも、それは決して高価な食材ではない。
それがいいのだろう。
食べ終わっても満腹とは言えなかった。
量に関してさして不満を感じた事のない私だが、今日は別だった。
あと、もう少しだけ食べられる。
けれども。
「腹、八分目ですわ」
と明香は微笑した。
「良いものは、少し物足りないぐらいがちょうど良いんですのよ」
その物足りなさもまた、明香の料理の一部なのだろう。
そして、これが最後なのだ。
私は自分でも意外なほど、その事実に落胆し、また満足を覚えたのだった。

何か、香辛料のような不思議な香りのする湯につかり、辺りが完全に闇に閉ざされた頃、一日が緩やかに終わりを告げた。
生あるものは眠りにつき、月と星が照らす、無音の世界。
この屋敷も例外ではなかった。
ただ一つ、私の部屋を除いては。
私の寝室のドアが、ノックされる。
それが誰なのか、もはや言うまでもなく、またこの屋敷で私の寝室にはいることが許されているのはたった一人だ。
「鍵は開いている」
私が答えると、明香がドアを開けて足音もなく入ってきた。
旅支度を調えた明香は、かつてこの屋敷に来た時と同じ服装のまま、私の前に立っていた。違うのは、これが始まりではなく終わりという事だけだ。
「メアリー・ポピンズは西風に乗って帰っていったそうですが」明香は茶色のボストンバッグを抱えるように持ってから笑った。「私は風が止んだ日に帰ることになりそうです」
欠けた月の光。
闇は深い。
手を伸ばせば人工の明かりがつく。
だが私はそれをしようという気にはならない。
朧気ながら浮かぶ明香の姿。
わずかな明かりの中で映える、明香の白い肌。
月光を吸って輝く亜麻色の髪。
それで十分だ、と私は思った。
「もう行くのか」
「はい。時間ですので」
「朝になってからでも良かっただろうに」
「いえ、別れは夜に、というのが私の流儀ですので」
そういえば出会いも夜だった。
「必要なものは、後日郵送で。直接手渡しできなくて申し訳ありません」
明香が謝っているのは、恭也の遺産についてのことだろう。
そんなものは必要なかったが、相続人を決定するのが明香の仕事であり、それを全うするためには、どちらにしろ私がそれを受け取る必要があるのだろう。
今となっては、もう恭也が何を考えていたのかを知る術はない。
遺産を何故残そうとしたのか、そしてそれを明香に選ばせようとしたのは何故か。
恭也自身がそれを語ることはなく、またその意図が明らかにされることもないだろう。
恭也に関わった人間は、彼の死後もまたその思惑に踊らされる道化でしかなかったわけだ。
死者に操られる生者。これではどちらが死んでいるのか判らない。だが、それと理解して踊るのとでは、また意味が違う。
「結局、恭也は周りが思っているほど善人でもなければ潔かったわけでもない、という事か」
明香が肩を竦めた。
「どんなイメージを抱こうとも、死んでしまった人間には勝てませんわ。『こうあって欲しい』と願う形がそのまま像になってしまいますもの。生きている人間がそれを追い掛けるには、無理がありすぎます」
「幻であるが為に、か」
「そうです。私たちは、幻を振り払わなければ」
「そうしなければならないほどに恭也の影は濃いという事か」
「外面的には。けれど、たぶんそれは私たち自身の陰なのでしょう。私たちは、未来を見ているとは言い難いですから」
明香はうつむき、呟くように言った。
「…………生きることは失うこと。失った以上のものなんて何もありはしない。よく判ってはいるのですけれど」
「そういう意味では、生きている人間などいない、ともいえる。生まれた瞬間から、人は死ぬことが決まっているからな。生まれる前は居ない。だが生まれた瞬間に、人は死んでいく。そういうネガティブな捉え方も出来るな」
「命を惜しいと思いまして?」
「思わん。命は、失われるものだ。滅びないものなどこの世には何もない」
「それが貴方の世界ですか」
「いいや。私の生きる世界だ」
明香は口元に、いつもの笑いを浮かべた。
「私たちの生きる世界、ですね」
その意味するところ。
何も因るべきもののない者同士。
つまりはそんな意味。
「私たちは、閉じた世界にしか生きられない。檻より狭く、見えない鎖で繋がれた、箱庭の中でしか存在できないのですわね、きっと。私たちにとって、外の世界はあまりに広くて、そして無意味ですわ」
「外の世界、などというものがあると?」
「いいえ。私たちの認識している外は、外の世界なんかではないのかも知れません。例え外へ出て行けたとしても、檻の広さが変わるだけ。檻の鉄格子が見えるか見えないか、たったそれだけの違い。それが真実なのかも」
「それでも鳥籠と牢屋ぐらいの差はある」
「看守がいない代わりに食事も出ませんけれども、ね」
「ここも明日からは食事が出ない鳥籠だ」
明香は沈痛な面持ちで俯いた。
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。お前の仕事は終わった。お前はその役割を存分に果たしたのだから」
「優しいのですね」
苦笑としようと思ったが、上手く笑えなかった。
「前にも言ったが、私は別に優しいわけではない。自分に出来ること、選べることをその場で選んでいるだけだ。未来を選べるほど私には選択肢があるわけではないが、いずれ滅びる身なら、少しはましな結末を選んだ方がいいと思っているにすぎない」
「貴方って人は…………」
明香はため息とともに苦笑する。が、その口元は笑いとはほど遠く、一文字に結ばれた。
「でも、貴方のそういうところが好きでした」
「私も、おまえの正直なところが気に入っている」
クスリと笑う。
「私たちは、相思相愛というわけですね」
「そういうことになるのかもな」
明香は静かに私の首筋へと手を回し、その体を預けてきた。
私もまた、明香の腰元へ手を伸ばして抱き寄せる。
どちらが先か、よく覚えていない。
けれど、私と明香はいつしか唇を重ね、強く抱き合っていた。
互いの熱を燃えるように感じるほどに。
彼女をベッドに押し倒すのは至極簡単なはずだった。
私が少し体を傾けるだけでいい。少し、彼女に身を預けるだけでいい。
それだけで、よかったはずだった。
だが私に出来たのは、彼女をより一層強く引き寄せることだけで、そこから先に進むことは出来なかった。
そういう衝動がないわけではない。出来るなら、そうしていた。
と、思う。
けれども、何か壊してしまうようで、
いいや。
単にそれは、私が恐れているのだろう。
…………だろう、ではない。
私は恐れている。
引き寄せるのは離したくないからではなく、縮めようとした体の内側に明香が居ただけだ。
どうしたらいいか判らず、私は明香の髪に顔を埋めた。
これもそうしたかったからではない。うなだれた頭の先に明香の肩があり、髪があった、ただそれだけ。たったそれだけ。
情熱とも感傷とも激情ともほど遠い、臆病な抱擁。
明香の心音が、私の胸に響いている。
私の胸はといえば、驚いたことにまるでマラソンをしているかのように脈動している。
明香が優しく背中を撫でた。
彼女の体臭となっているラベンダーの香り。
その香りには心を鎮める作用があるというが、互いの心臓は早鐘のようになったまま。
打てば鳴り、鳴れば響く、互いの胸の鼓動。
もつれた先はベッドの上。
技巧とは到底言い難い探り合いの果てに、互いの真実の姿をさらしだした二人は、触れる手ももどかしく、火傷に触るように繊細に、ゆっくりと互いを知る。
言葉よりもほんの少しだけ先の、相互理解。
「3年の間、何度か覚悟したことがありましたが」
明香が私を見上げて言った。
「覚悟したことが起こらなかったのは良かった、というべきなんでしょうね」
「皮肉を言うな」
「あら、こんな時に皮肉なんて言いませんわよ…………私が誰のものでもなかったのは、私にとっても貴方にとっても良かったんじゃないかと、そう思っただけです」
「無論、私もお前も、誰のものでもない」
「今は?」
「今も、だ」
下から抱きついた明香の力で、互いが密着する。
「でも、貴方は私を知りましたわよ」
「恥ずかしい事を言うな」
「何を今更。恥ずかしいのは私だって同じです」
彼女の熱さを肌で確かめる。
僅かに汗ばむ陶磁のようなうなじから、ゆっくりと指を這わせ、亜麻色の髪を梳く。
色の薄い、ほとんど透明かと思えるような、淡いグレーの瞳。
ひょっとすると、明香という存在を紛れもない現実だと実感したのはその時が初めてなのかも知れなかった。
どこか現実離れした彼女の雰囲気の中で、その瞳だけがまるで本物に見えた。
亜麻色の髪と色素の薄い瞳、肌の色、そういうものから彼女がこの国のものではない血を引いていると判るはずなのに、私は初めてその時に至ってそれを理解したのだった。
けれども彼女が何者であるかなどどうでもよかった。
ただ、その潤んだ瞳の奥に湛えられた優しい光が私を捉えている、それがただ嬉しかった。
でもそれは今日で終わり。
物語は、つねに、「めでたしめでたし」というわけにはいかない。
現実は、常にこうやって冷めていく。
繋がっていた二人も、熱した鉛のようにまとわりつく汗も、離れてしまえばやがて冷える。
肌に滲む汗も、やがてはただの水滴に変わる。
これが結果。
これが結末。
込み上げてくる喪失感をどうしたらいいのか判らぬまま、私は彼女の体を押し抱いた。

暫しの微睡み。
身支度を終えていた彼女が窓辺に佇んでいた。
仄かな月明かりの中で、亜麻色の髪が輝きを放つ。
「出て行くつもりで準備していたのに、まさかまた着替え直すことになるとは思いませんでした」
「……最後に触れておきたかった」
それは偽らざる気持ち。
明香は驚いた表情で少し固まった後、
「ずるいひと」
と怒ったように言った。
「それが仕事でもある」
すい、と伸びてきた明香の手が私の頬をつねる。
「その憎まれ口ももう聞けないとなると、寂しいですわ」
「お前の作ったものが食べられないのは、私も残念だ」
「けれど、何事にも終わりはありますもの。風は、吹かれて行かなくては」
私は頷いた。
何を納得したのかも判らず。
「それではさようなら、六道さん」
小さくお辞儀をして、踵を返す。
いつもは束ねてあるその髪が、波打つようにたゆたう。
最後に何か言おうと思ったが、何も出てこない。口から漏れたのは掠れるような息の音だけだ。
ある意味、それが明香にかける最後の言葉だったのかもしれなかった。
明香が遠ざかっていく。
閉じられたドアを呆然と見つめ、その足音が次第に小さくなっていくのを聞く。
闇夜に紛れ、明香が歩いていく。
その姿は、私の知っている明香ではなかった。
私の知らない明香。
だがもう手を伸ばしても届かない。
追うことも許されない。
彼女が何処へ行くか、私には知る権利がない。
雇い主は、去った人間を引き留めることは出来ない。
その後ろ姿が闇に溶け、私の視界から失われても、私の視線は窓の外に注がれたままだった。

目覚めても、明香の姿はない。
明るい陽射しの中、私はある事実にたどり着いた。
それは当たり前の事実であり、客観的な現実そのもの。
明香が居なくなった今、私は独りになったのだ。
不思議と感情が動くことはなかった。
一つのことが終わり、新しい何かが始まる。
そういうことなのだろう。
交わった流れは支流に入りまた別れていく。
明香と私の流れは再び離れたのだ。
そして全ては3年前に戻るのか、そうでないのか。
それは私自身にも判らないことだった。