五章 凍る夜雨
朝。
光が部屋に差し込んでくるのを私はいつも複雑な気分で感じる。
また一日が始まる。
光の当たる世界というものに居心地の悪さを感じる私は、相当なひねくれ者だろう。
神話で言うなら吸血鬼あたりにでもなっていた方が良かった。
朝が来れば灰になれる。
寝るときは棺桶。
たっぷりとブラックユーモアの効いた生活が送れるに違いない。
そんな陰気な空想しかできない自分に辟易しながらも、ベッドから身を起こした。
それほど疲れているわけではないと思うが、動きはどことなく鈍い。指先まで血が行き渡っていないのか。かじかんだように感覚も鈍磨している。
まだ袖の短い衣類を着る気にはなれない。
クローゼットから長袖のシャツを出して袖を通す。
ズボンも春物は早いと思い、生地の厚い物にする。
気温が上がって暑いと感じるようになったら履き替えればいいだけのことだ。
身支度を整え、寝室の扉を開けるとなにやら物音がする。
早朝だというのに騒がしい。
明香、ではないようだ。普段の彼女は宙に浮いているのではないかと思うほど、行動の一つ一つに無駄がない。スカートの布地は衣擦れの音を立てるだろうが、彼女自身が音源となることはほとんど無い。
階下から響いてくるのはドアを殴りつける音だ。
「なんだ」
ドアの前で立つ明香が、困ったような表情をしている。
「外のお客様らしいのですが……………」
こんな朝早く、一体誰が。
と思いかけてすぐ答えに行き着いた。
考えるまでもないな。
昨夜に院長から佐川組の一行が面会に来たという知らせを受けている。
例によって例の如く、示談と称した恐喝だろう。
別に珍しいことではない。
良くあるパターン。そんなことが良くあるというのは決して普通ではないと思うのだが、二度も三度もあれば慣れてくる事例だ。過度のトラブルになることは少ない。まさに環境が人を作るというやつだろう。
だが、疲れることにかわりはない。揉め事をうまくこなしてもそれが利益になることは皆無に等しい。
やれやれ、面倒なことは嫌いなのだが。
「ふむ。穏やかな話し合い、というわけではなさそうだな」
「いかがなさいます?」
「開けてやれ。外は寒いだろう」
しばらく門前払いを食わせておいて、呼び出したガードマンと鉢合わせ、と言うのも面白いが、玄関で無用な血を流されるのも困る。
なにより、悪党の血とあればこの屋敷の評判を一段と悪くするだけだ。
害あっても理のある判断ではないだろう。
明香がドアを開けると、押し入るように男が三人入ってくる。
一人は髪を剃り上げたやせぎすの男。赤いシャツにブレザーという品のない出で立ちだ。
もう一人は金髪に染めた長髪の男。スーツにきちんとアイロンがかけてあるあたり、スキンヘッドよりは幾らかましな人種と判断する。
その二人に挟まれた男が恐らく本命だろう。地味な黒のスーツに糊の利いたワイシャツ。やはり個性は無い。無いが、眼孔に潜んだ剣呑さは隠し通せるものではない。
佐川組の組長と直接の面識はない。
が、格の違いは目に見えて判る。
「テメェが六道とかいうなめた野郎か」
スキンヘッドの男が上目遣いに私を見る。
濁った目。
不快感こそ感じはすれ、怖れなど微塵も感じない。
「なめているかどうかはともかく、私が六道だ」
そんなことは名乗るまでもなく判っていることであろうが。
明香が一歩退く。
成る程、彼女には少々荷の重い相手ではある。
脅しの口調ではあるが相手の要求は私の命ではないだろう。
私は一歩距離を詰めた。
「立ち話も何だろう。来客を玄関に立たせておくのは私の流儀ではないのでな」
出来れば速やかに帰って貰う、というのが一番ベターな選択なのだが、そんな冗談が通じるような人間ではなさそうだ。
ユーモアなどという単語には一生縁がないだろう。
無論、私もだが。
三人は大人しく私の後をついてくる。
やがて応接間にたどり着くと、銘々が椅子に座り、私と相対した。
「佐川組の組長が、こんな朝早くから用件とは何だ?地上げの対象にはなっていないと思ったが」
「昨日、事故を起こしたな」
「それが?」
「あれはうちの身内だ」
「知っている」
佐川の目が蛇のように細くなった。
「今日はその示談に来た」
「なるほど」
私は片手を挙げて明香に命じた。
「お茶を出して差し上げろ」
「茶なんかいらねぇんだよ」
佐川は鋭い視線を投げかける。
早急に結論が欲しいのだろう。
その理由は私にも判らないが、何らかの時間制限があるのか、それともただ単にせっかちなだけなのか。
何か、早く話をまとめたいという意向は感じられる。
「こっちの商売がどういうものか、というのは判っているよな?何より面子、というのが大事なんだよ」
「理解している」
強者は常に弱者を求めるものだ。それが特に暴力を生業とするならば。
そのシステムに組み込まれている限り、それを覆すことは難しい。
今のような状況の場合、佐川が強者で私が弱者、という事になるだろう。
「で、アンタはオレの面子を潰してくれたってわけだ。どう落とし前を付けてくれる?」
面子。
この手の単語が出てくる場合、相手の要求というのは謝罪ではない。
金だ。
この手の人間が素直にそういう単語を口に出さないのは何故だろう。婉曲した表現を用いたところで事実が変わることなど無いというのに。
「治療費は当然こちらで持とう。慰謝料については弁護士と相談した上で本人と直接交渉する」
「俺は、アンタが潰した面子のことを言ってるんだよ」
「あれはただの交通事故だ。そんなに息を巻くほどのことではないだろう」
「ただの交通事故?全速でフロント潰しておいて、ただの事故ってのか?」
「警察の調書はそうなっている。事実、そうだった」
「ふざけるな!」
「では、どうすれば気が済むのだね?」
「俺達が欲しいのは、「誠意」だ。判ってるか?誠意の意味が」
「なるほど、「誠意」か。では今後10年、お前達の商売を保証してやろう」
「保証?何でてめぇが俺達の保証をするんだ」
「明香、電話を」
私が明香の方へ僅かに目をそらすのと、銀光が喉元へと延びるのはほぼ同時だった。
喉仏に触れるか触れないかの位置で、佐川の抜いた匕首が停滞している。
佐川の手には震えも揺らぎもない。
貫くだけの覚悟がある、ということか。
微かに心臓の脈が速まる。
どうやら、ここで喉を捌かれて死ぬことに身体が反応しているらしい。
「サツを呼んでも、ここに来る前にテメェをバラして女を拉致るぐらいは出来るんだぜ」
「慌てるな」
電話の子機に内蔵されている短縮ダイヤル機能。
それから名前を探す。
佐川に最も近い位置の人間。
数名の名が浮かび、その一つを選ぶ。
「六道だ」
受話器の向こうでバタバタという音。
「早いな。何か急用か?」
柴田。広域暴力団の幹部だ。
無論、暴対法の締め付けで「暴力団」という肩書きはほとんど過去のものになりつつある。柴田の組はゆっくりと人員を整理しながら形態を限りなく合法なものに近づけていく、いわゆる経済ヤクザと呼ばれる組織へと移行中だ。
そのために私の力を欲した。
今も繋がりのある男の一人。
「今、佐川組の組長が遊びに来ているんだが」
私の言いたいことを理解したのだろう。
私がいなくなれば、柴田の計画は10年は停滞する。
それまでは待てないし、恐らくもたないだろう。
だからこそ、柴田は私を守る必要がある。
私はそれを利用する。
自分の手では解決できないからこそ、互いの力関係を利用するのはごく当たり前の方法だ。
「ちょいと佐川に代わってくれ」
私は佐川に受話器を手渡した。
「お前にだ」
いぶかしげな表情でそれを受け取ると慎重に聞き耳を立てている。
受話器の声を聞き、顔色が変わった。
「は、はい、ええ、わかってます」
柴田が佐川に何を言っているのか、それは判らない。脅しか、諭しているのか、どちらにせよ佐川はこれで強気に出ることが出来なくなった。
通話を切り、佐川はテーブルに受話器を置く。
苛立ちを顔に出しながら、まだ熱いであろう湯飲み茶碗の緑茶を一息に煽ると、佐川は立ち上がった。
「帰るぞ」
一瞬、チンピラの顔が呆ける。
腕の一本も折れ、と命令されると思っていたからだろう。
「え、でもこの野郎は」
「柴田の叔父貴の友人だそうだ。山岡の親分ともな」
連れの二人の顔が色冷める。
「そ、それじゃ」
それから先は言葉がなかった。
「帰るぞ」
「へい」
手下を引き連れて帰ろうとする佐川の背中に私は声を掛けずにはいられなかった。
「『誠意』はこれで十分だったか?」
私の問いかけに、佐川は屈辱と怒りと驚きの混じったような複雑な表情をする。
「保証の意味はこういうことだ」
「帰るぞ」
振り向いてしまったのでどんな顔をしているのか判らなかったが、それきり口を開かず、佐川達は屋敷をあとにした。
私は一息ついてソファにもたれかかった。
力を抜くとそのまま埋まってしまいそうだ。朝から無駄に疲れる。
「暴力団を脅し返すなんて、ずいぶんと剛胆ですこと」
後かたづけをする明香の声には、幾分笑いが含まれている。
安心したせいもあるのだろう。
「皮肉を言うな」
「称賛のつもりですが」
「それが称賛なものか」
数分前の出来事を思い出すとため息が出る。
喉の渇きを覚えて湯飲みに手を伸ばした。
思ったより冷めている。
一口飲んでからもう一度ため息。
「ああいう手合いは扱いにくくて困る。私のような平和主義者に匕首など持ち出されても対応ができん」
明香がたまらず吹き出した。
「何がおかしい」
「暴力団と懇意の平和主義者なんて初めて見ました」
「懇意なわけではない。ただの知り合いだ」
「それだけでも十分だと思いますが」
「向こうが勝手に懐いてきているだけで、私は迷惑だ。どんな人間にも、友人を選ぶ権利はある」
「では、どんな友人をお望みで?」
難しい質問だ。
私にとって、真の友とは何なのか。考えてもみなかったし、考える気もなかった。
己の全てを晒してなお私と対等に向き合える人間など居るだろうか。
もし居るとしてもそんな聖人君子が私の元に近づくはずがない。
他人の秘密を暴く仕事をしている自分には、もとよりその資格がない。
「私に、友と呼べるような人間はいない。たぶん、これからもな」
自分の言葉が疼くように響く。
生きていれば、恭也はその一人であったかもしれないが、今の私には何もない。
私を受け入れる者はもうこの世には居ない。
自分で捨てたのだ。
それはもう二度と手には入らない。
流れる時を戻す事が出来ないように。
「申し訳ありませんでした」
明香が真顔で謝る。
「何故謝る」
「そういう質問は、不適切だと思いましたので」
「別に気にしてはいない」
しかし明香は黙って俯いてしまう。
激しい後悔と自己嫌悪。
そんなものを思わせる顔だ。
見ている方もいい気分ではない。
「そんな顔をするな」
明香は驚いたように顔を上げた。
何か言おうとして、しかし口をつぐむとすぐにテーブルの上を片づけ始める。
それからすぐに背を向けて応接室から出ていってしまった。
人の心というのは理解しがたい。
何を思い、何を成そうとするのか、それを理解することは難しい。
私には、明香は理解しがたい存在だ。明香にとっての私もそうだろう。
だが、それと実務は全く別の問題だ。
私が明香に望むのは屋敷の維持管理であり、日々を馴れ合いながら生きることではない。
明香が何を思い、何を感じるかは私にとって意味のないことだ。
……………本当にそうだろうか。
自分は明香の助けになれるのではないか。
それは紛れもない事実だ。
だが明香は私に助力を欲しない。ならば私はそれを強要することは出来ない。
私はあくまで雇い主でしかない。
『それ以上』を互いに望まないならば、それを維持する以外に何が出来るというのか。
私もまた、無力な一個人でしか無いというのに。
誰もいない応接室。
虚飾に満ちた豪奢な部屋は、物欲とエゴの合成品のように見えるときがある。
私も腰を上げて応接室から出る。
やらねばならないことがいくつかあるからだ。
妙に重い足取りで私は書斎へ向かった。
朝の一件のせいか奇妙に落ち着かない。
それでも何とか書類をまとめ、封をする。
気がつけばもう陽が落ちていた。
もともと書斎が暗いというせいもあるが、陽が暮れるのが判らないほど没頭していたとはとても思えない。
しかし現実に一日はもう終わりを告げている。
蔵書と紙束で狭くなった室内を見回すと、当初よりも随分と整理されているのが判る。
実際にこれだけのことをするとなれば一日は優にかかる。
よく考えてみれば昼も食べていない。
いつもなら明香が私を呼ぶはずなのだが。
……………単に私が気づいていなかっただけなのか。
椅子から立ち上がると体の節々が痛む。
デスクワークを一日中やると体の関節が固まってしまうようだ。足腰が痛むにはまだ若いという自負はあるのだが、年には関係なく体を動かさずにじっとしているというのは良くないらしい。
書斎のドアを開けるとあたりは薄暗い闇で滲んでいる。
食堂から明かりが漏れているが、私を呼ばないという事はまだ食事の時間には早いという事だろう。
食事より先に風呂にはいるか。
そう思い、階段を下りた。
無意味に豪華な屋敷だが、風呂もその例に漏れない。
いや、漏れなかった。
過去の話だ。
さすがに落ち着かないので、大理石の浴槽はともかくとして獅子の頭を模した給湯口だの金張りの内装だのは撤去した。
装飾も過度になれば悪趣味だ。
業者に依頼したときは随分と不思議な顔をしていたが、こんな風呂に平然と入っていられる方がどうかしている。
機能性のない装飾に意味などあるものか。
ああいう装飾趣味は私には理解不能だ。
手早く服を脱いで、脱衣籠に放り込む。
ガラス戸を開けて浴室へはいると甘い香りが漂った。
浴槽に体を浸す。
湯気が視界の全てを白く覆う。
濃密な、白い闇。
脱力した体に湯船の暖かさが染みる。
ミントの香り。
緑一色の湯が、暖かさとは相反する奇妙な冷たさをもたらす。
それは決して寒さを伴うものではない。
涼しげだが、暖かい。
不思議な感覚だ。
市販の入浴剤とエッセンシャルオイルのブレンド、と明香は以前言っていた。
ハーブ湯とはまた別らしい。
香りの効果と入浴剤の効果、その相乗作用を狙ったもの、と解釈すればいいのだろうか。
香りを楽しむ種類のハーブには、気分を落ち着けて体調を整える作用を持つ物も多い。
精神科の治療にも用いられるぐらいなのだから効果はあるのだろう。
成る程、ひどく落ち着いた気分になる。
湯船の温度も熱すぎず温すぎず。
張られた湯自体は黄色がかったグリーンだが、手ですくってみるとそれはほとんど透明に近い。
手のひらからこぼれる湯が心地よい。
湯気に混じった香りが肺にも染みこむ。まるでハーブ畑の中にでもいるかのようだ。
とはいえ、私はハーブ畑にいったことなど無いので、そうなのだろう、という感覚でしかないのだが。
この不可思議な感覚は皮膚を通して伝わる湯船の温度と、肺に吸い込んだミントオイルのもたらす冷涼感、この二つの差から生じる物だろう。
肩までどっぷりと湯に浸かってくると眠気を催してくる。
眠ってはいけないのだろう。
だが、睡魔は強烈だった。
抵抗することが無意味と思えるほどに。
浴槽に寄りかかり、目を閉じる。
このまましばらく眠っていたい。
湯船に浸かりながらの眠りには得も言われぬ快感がある。
風呂で溺れ死ぬというのを聞くことがあるが、こんな感じの溺死なら悪くない。
私は浴槽に背を預けて眠ることにした。
明香は口数も少なく私に食事を出した。
様子がおかしいのは私でも判る。
他人を気遣うなど私らしくもないが、上の空で仕事されてもそれはそれで困る。
幸いにして料理におかしなところはないが、どこか呆然とした明香を見ているのは正直気分が悪い。
久しく忘れていたボトルがあることを思い出し、地下室へと足を運ぶ。
私の父親はワインの収集をしていたのか、地下には小さなワインセラーがある。
小さな、とは言っても50本近く収められるので収集するには十分な大きさだ。
現に、先代から残された古いワインが10本ほど残っている。
もっとも、私自身はもっぱらウイスキーを嗜むのでワインには縁がない。ワインというとどうしても気障な飲み物、という印象があるからかもしれない。手っ取り早く酔うのに、蒸留酒ほど適した物はない。
よって、ワインセラーは冷蔵庫と化しているのだが、そんな中にも一本だけ人から貰ったものがある。
エルデナー・プレラート。ドイツ産のワインだそうだが、まだ栓を開けたことはない。
瓶に描かれた僧衣の絵柄は何かの寓意があるのだろうが、私にはよく判らない。
坊主の酒飲みという意味なら、なかなか面白い冗談だ。
それを引っ張り出して地下室から出た。
こんな時は酒でも飲むに限る。
先人達は、こんな時のために酒を造ったのだ。
グラスに半分ほど注いだワインを、明香は躊躇い事なく手に取った。
しかし、不意に何か思ったのだろう。
怪訝な顔で訊ねてくる。
「何故これを?」
その問いに対する明快な答えを私は持っていない。
強いて言えば飲みたいからだ。
私は別に酒が好きなわけではない。
ただ、一時の逃避であっても何かを忘れていたい。
特に何から逃れたいのか判らないときは。
そういう意味で、私は酒は百薬に勝ると思っている。
過度飲めば健康を害するだろうが、それでも酒で潰れる人間の数十倍は救われているはずだ。
誰しも、その程度の嗜みは許されるはずだ。
「たまには、ささやかに贅沢をしてみるのも良いとは思わないか?」
明香は少しだけ驚いたような顔をした。
「そうですね」
手にしたグラスに目を移し、呟くように答える。
グラスの縁に唇を当て、それを飲み下していく。
小さなため息。
「美味しい」
「お互いに、一杯やりたい気分だったと思ったが、読みが当たったな」
明香が微笑んだ。
「そういうところに気が付くあたり、貴方には執事の才能があるのかも知れないですね」
執事。
しかし、何者にも屈することをよしとしない私には、荷の重い仕事だ。
プライドが高いのではないと思うが、人の下について仕事をするのは私の流儀には合わないだろう。
それに。
「他人に使われる気はない」
私には協調性という物が欠けている。
「そうですね。貴方はそういう人ですもの」
褒められているのか、けなされているのか。
たぶん、どちらでもないだろう。ただの感想だ。
グラスを傾けると独特の刺激とともに甘い香りが喉を流れる。
鼻腔に抜けた香りが酔いを確かなものにする。
疲れているせいなのか。いつもよりも酔うのが早い。視野が狭窄していくような感覚。あらゆる世界が溶けて一つに縮まり、収まる。たゆたうワインの海に。手にしたグラスの中に。
世界を喰う感触。通り過ぎていく熱い実感だけが世界。
これが。これだけが。
世界なのだ、というあたりで思考が停止する。
……………………いったい何が世界というのだろうか。
ふと我に返り、自分が酷く酔っていることに気づく。
互いのグラスは既に空で、ボトルにも残っていない。
この程度で酔いつぶれるなどと言うことは考えられないのだが、しかし事実はそうだ。
そもそもワインはがぶ飲みするものではないという事は判っているのだが。
どれほどの時間が過ぎたのか、いまいち感覚がない。
明香といえばグラスをしっかりと握りしめたまま、頭をうなだれてうとうととしている。
………………。
器用な女だ。
とはいえ、グラスを割られてもつまらないし、風邪をひかれるのも困る。
明香の指を一本一本引きはがしてグラスを取り上げ、テーブルに置く。
ぐにゃぐにゃと力の入らない明香の肩を支え、二階まで連れて行く。
こういうとき、明香を抱きかかえられれば絵になるのだろうが、疲れる上に私も酔っている。共倒れなど笑い話にしかならない。
部屋まで来ると、ドアの前で明香が何事か呟いた。
誰かの名前を呼んだような気もするが、よく聞き取れない。
おそらく、言った本人も判っていないのだろう。
ベッドに明香を横たえ、布団を掛ける。
そのあたりが平常でいられる限界だった。
頭痛がやってくる。
翌朝までにはアルコールは抜けてしまうだろうが、量はともかくピッチが早すぎた。
こういうときは寝てしまうに限る。
私も自分の寝室に戻ると上着だけ脱いでベッドに潜り込んだ。
シーツの冷たさがかえって心地よい。
枕の冷たさも、頭痛には染みいるように効いた。
微睡んでいるうちに、感覚が遠のいていく。
酔った脳には悪夢も届くまい。
深い眠りの闇は、私をつかの間の無へと追い込んでくれる。
何も感じず、何も考えず、何もない。
無。
虚無。
現世の煩わしさから解放してくれる、この世の全てを塗り潰す、私だけの、安息。
割り込むように心を掻き乱すあの様々な悪夢さえなければ、眠りは果てしなく私の理想に近いものだった。
出来ることならば、永遠にそうであって欲しいと願う、深い、何もない、無と同化するような、眠り。
私はいつもそれを乞い、願う。
ごくまれに、それが成就する。
心が溶け出していくような、何も感じることのない泥のような眠り。
何かの力を借りなければそうした状態になれないのは皮肉という他はないが、それは逃避でも何でもなく生理的にごく自然な欲求だ、と理屈をこねてみたりもする。
理由がどうであれ、肉体と精神の両方がそれを求めていることは事実なのだから。
私は闇を受容した。
それは至極当然で、ひさびさの安らぎに満ちたものだった。
光。
私には、それが邪魔だ。
だが朝はやってくる。人間の都合など知った風ではない、というように。
憂鬱な気分になりながら、私は階段を下りた。
日がだいぶ高くなっているせいか、それほど寒いという感じはない。もはや季節は春になっている。
わずかに冷え込む日はあっても窓間の外は緑で染まっている。
日に日に募る苛立ちは、心の底で腐敗していくようだ。
世界がどんなに明るくとも、人の心には闇が差す。
それは物理的な光など関係ない。目を灼く光でも照らす事の出来ない原初の闇だ。
だからこそ、光もまた存在できる。どちらか片方の世界など無い。2つの力は共存しているからこそ互いを主張できる。人は得てして世界を光だけで染めたがるが、強い光を求めればこそ影もまた濃く映る。
この世界は灰色であるべきだ。
だが私にはこの世界など最早どうでもいい事の一つにすぎない。月日などただ流れていくだけだ。
食堂へと降りていくと、明香の姿はなかった。
線の細い字で書き置きがしてある。食料品の買い出しに行っているらしい。
人気のない食堂は、ひんやりとした空気が漂っている。日が僅かに西へ傾いているせいで、室内は薄暗く感じる。
時計を見上げると、もう11時を過ぎている。
随分と寝坊したものだ。
テーブルの上には煮物が器に盛りつけられており、ガスコンロの上にかけられている鍋はたぶん味噌汁だろう。
実際近づいて蓋を取ってみると、豆腐とネギの味噌汁だった。
暖めるのも面倒なので、冷えたまま食べる。
思っていたよりは冷たくなく、まだほんのりと暖かいような気もした。しかし湯気はない。ただの気のせいなのだろう。
食器を流し台に置くと、私は書斎へ行くことにした。
別に仕事がたまっているわけではないが、他にやることもない。
趣味、と呼べるようなものを私は持っていない。何か没頭できるものがあるかと言えば、それは本を読むか大量の書類と格闘するかぐらいだ。
どちらにせよ、私の領域は書斎と言う事になる。
これだけ大きな屋敷だというのに、私の領地と呼べるのはそこだけだ。
あとは・・・・・・おそらく、明香の領域なのだろう。
そんな気がする。
階段へと向かおうとすると、ベルが鳴った。
確か、今日は来客の予定はなかったはずだが。
火急の用件か。
一瞬居留守を使おうと思ったが、すぐにばれることに気がつき、玄関へと向かう。
ドアを開けると、そこには見知った顔があった。
「おはよう、六道君」
にこやかな笑顔で西遠寺が立っている。
私は即座に後悔した。
居留守を使えば良かった。
「何の用だ」
私は嫌悪感を隠しもせずに言った。
「いきなりご挨拶だな。旧知の友がわざわざ訪ねてきたというのに」
「おまえと友人になった覚えはない」
私が友と呼べる、いや呼べた人間はただ一人だ。
それ以外の人間など、私にとってはどうでもいい、ただの動く生き物に過ぎない。
物を友と呼ぶ人間は居ない。
私にとって、人間など物だ。
物に過ぎない。
同じ言葉を喋り、同じ形態を持ち、同じ論理で動いたとしていても。
「私には友人などいない」
昨晩、明香に言ったのと同じ台詞を言い、私はドアに手をかけた。
だが西遠寺が一歩踏みだし、ドアの間に割ってはいる。
「ところで少々喉が渇いたので茶の一杯も貰いたいのだが」
図々しい奴だ。
「駄目だ」
私の拒絶を、西遠寺は笑って受け流した。
「ただとは言わんよ。今日は面白い話を一つ持ってきた」
「話なら別に聞きたい気分ではない」
帰れ、という言葉が出かかる。
出なかったのは、西遠寺の一言が私の全てを押しとどめたからだ。
「君が処理したはずの恭也の遺産についてでもかね?」
「何だと?」
自分でも思いがけず大きな声が出る。
それは私の心中を見透かしたような提示だった。
何故、どうして、この男が。
いや。
だからこそ、か。
私の知る限り、事の核心に一番近い位置にいるのはこの男だ。
「ほら興味がわいてきたな」西遠寺は「してやったり」、という表情をする。「さて、それでは取引と行こうか」
まるで我が家にいるが如く、西遠寺は台所まで入り込んでくる。
「応接室で大人しくしていろ」
「あそこは堅苦しくていかん。私はアットホームな雰囲気が好きでね」
何処までも無礼な奴だ。
「ここの主は私だ」
「客の希望は優先されないのかね?」
「この屋敷では私がルールだ」
「今どき凄いことを言う。まるで暴君ネロだ」
私が食器棚からカップを出すのを見ると、西遠寺は椅子に座った。
「砂糖は一つで結構」
西遠寺の要請を私は無視した。
「自分で入れろ。これは私の分だ」
「どうしてそんな意地の悪い事をする」
「お前が嫌いだからだ」
「ふむ。子供が自分の好きな相手にわざと嫌がらせをするという、アレだな」
「私の許可無く好意的な解釈をするな」
「するな、といわれてもポジティブなのは性格だ。他人の言う事にいちいち目くじらたてていると長生きできんぞ」
「余計なお世話だ」
私が椅子に座ると、入れ替わりで西遠寺が立ち上がった。
食器棚から私と同じカップを取り出し、インスタントコーヒーを作る。
カップに注がれていた西遠寺の視線は流し台の中の食器に移る。
注視していなければ判らないような、僅かな時間だけ。
無言のままカップを持って椅子に座る。
「なるほど。明香は不在か」
「それが目的か」
「いいや。私の目的は、いつだって君だ」
「そういう台詞は女に言え」
「そうだな。今度使ってみよう」
これがこの男のペースなのだ。
こうやって籠絡し、攪乱し、隠す。
だから苛立つ。
「西遠寺。私はお前と談笑したくてここにいるわけではない。用件を簡潔に、話せ」
「命令形ときたか。…………まぁ、いいだろう」
西遠寺はコーヒーを一口のみ、それからむせた。
「ちょっと濃く入れすぎたな」
私の視線に気がつくと両手を上げておどける。
「そう、怒るな。なんだか尋問されているような気分だぞ」
「それが望みなら、そうしてやってもいい」
「望むものか」口の中で小さく呟く。「恭也の遺産についてだったな」
西遠寺は椅子を少し引いて足を組んだ。
「簡潔に言えば、あれはまだ存在する。何故7年も経って、それがまた話題になったかはわからんが」
「だが恭也の遺産は」
「そう、君が凍結した。ほんの一部だけ、な」
「一部?」
「恭也があれだけ手広く事業をやっていて、有価証券の類があの程度、というのはどう考えても少ないとは思わなかったか?」
「しかし、あれで全てだ」
「そう思うのは無理もない。死の直前、君には事業から手を引くようなことを言い残していたからな。だが、それは嘘だ。恭也が存命中に減らしたはずの財産は、全部書き換えられていまだに存在する。金銭的な価値以外の物も含めてだ」
「仮にそうだとして、何故それをお前が知っている」
「ふむ、知っていると言うよりは、知らされた、が正しいな」
「恭也の遺産を蒸し返したのはお前ではないといいたいのか」
「当然だ。独自に調査はしていたが、確証を持てたのは「介入」があってからだ」
「誰が」
「その答えは大体見当がついている。私を知り、君をよく知る人間など、数えるほどしかいない。消去法でいけば誰が残るか言うまでも無かろうよ」
そういって西遠寺は笑った。
「本人がこの場にいないのは残念だがね」
誰、か。
考えるまでもなく、また予想もついていた。
そういう絡繰りなのだということを、何処かで認めたくなかったのも判っていた。
「遺産の相続は、その人物が決定する。相続できる権利がある人間はおそらく二人。私と、君だ」
「だからどうした」
絞り出すように、私は言葉を吐き出した。
私に許される、唯一の抵抗だった。
西遠寺はカップに口を付け、一呼吸おいてから私を見据えた。
だが、そこには何の感情も窺い知る事は出来なかった。
ガラス玉のような、無表情。
「つまり、私の言い分は一言に集約される。君が相続した場合、それを私に譲れ」
要請ではない。
要望でもないだろう。
それが自分の当然の権利であると言わんばかりの言葉。
これがこの男の本質なのかも知れない。
親しみのある隣人の顔と、冷酷な支配者。
かといって、どちらが真か、などという単純な問題ではない。人間の持つ顔というのは2つや3つでは割り切れない。
これも、西遠寺悦也という男。
だが誰であろうと、私の意志は一つだ。
「断る」
沈黙は短かった。
「予想通りの答えだ」
「だろうな」
「交渉は決裂か」
「交渉以前の問題だ。恭也の遺産は闇に葬る。それが私の役割だ」
「律儀だな。死人に意志など無いというのに」
「私の趣味は嫌がらせでな。お前の嫌がる顔を見られるなら喜んで邪魔をしよう」
「ひねくれ者め」西遠寺は苦笑いすると席を立った。「では今日のところはお暇しようか」
「二度と来なくていいぞ」
「私の趣味も嫌がらせなんだ。君の嫌がる顔が見られるなら何度でも参上しよう。なんといっても君ような男の嫌がる顔などそう見られるものではないからな」
西遠寺は笑い、それから台所から去っていった。
見送る気にはならないし、そのつもりもない。
やがて庭先でエンジン音がし、遠ざかっていった。
私は意味もなく天井を見つめた。
そこに何かがあるわけではない。
ただ、何となくそうせずにはいられなかった。
天井があり、電灯があり、シミがあり、汚れがあり、それだけだった。
私の驚き、苦悩、放心、それらとは何の関係もなく、物というものはそこにある。
存在というものは、意志があるから在るのではなく、ただ在るからこそ在るのだ。
自らの居場所を確立するのに理由が居る人間という生物は、なんと無意味で愚かなのだろう。
存在を理屈で証明しなければならないからこそ、互いに殺し合う。
理由がなければ自己の存在を確立できないというのは不便なものだ。
西遠寺は謀略のなかで生き残ることに生き甲斐を見いだしている。
私は恭也の遺産を守ることで、自己を繋ぎ止めている。
私が命を繋ぎ止めているのはそのためだ。
その理由がなければ、私は自分の存在を肯定できない。必要性を認めることが出来ない。私として存在することを許されない。
今の、今までの、これからの私は、そのためだけに存在するのだ。
西遠寺がそれでも恭也の遺産を欲するならば、奴とはやはり正面から向き合うことになるだろう。
だが、決定権を私が所持していないのであれば、それを第三者が決定するのであれば、私の出来る事というのは限られてくる。
目眩がする。
ただ時間だけが過ぎていくが、それは拭い去れないカーテンのようにのし掛かってくる。
判っているのだ。この目眩の原因が。
苦悩する必要など無い。それは事実なのだ。
恭也の遺産があるというのに、私自身が何も出来ないという事実。
私が私に課した責務、債務を、実行できないという現実。
この渦巻くような苛立ち。
何もかも破壊してやりたいような、そんな衝動に駆られる。
だがそれは何の解決にもならない。
私は今どうすべきか。
それが最も重要で、最も大きな問題なのだ。
何も出来ないならば、何をすべきか。
待つか、追うか。
何をすればいいのか。
まだ外は明るい。
明るいはずなのに、私にはその光が霞んだものに見えていた。