二章 鈴鳴る雹
明香は主人を送り出したあと、自分の仕事に取りかかった。
屋敷の掃除。衣類の洗濯。食事の準備。
その全てを提供することが自分に課せられた仕事だ。
主は取引で出かけた。
屋敷には誰もいない。
明香を除いては。
バケツに水を張り、雑巾を浸す。水はまだ冷たいが、冬の冷たさではない。冷たさの中に春の暖かさを秘めている。水道の水ではあるが、そういう本質的なところでは同じだ。
昨日は庭の手入れをしたが、枝ばかりの木々は微かに芽吹いていた。
儚いな。
そんな風に思う。
何故そう思うのかは判らない。春は希望の季節だ。力強く芽吹く緑は、その象徴でもある。それは儚さとは全く別の性質だ。
何故だろう。
力強く、しかしその芽はあまりにか弱いからか。
樹自体の生命力は強くても、芽そのものは弱い。それは当たり前だ。
それを儚いと感じているのか。
何にせよ。
「もう春・・・・ね」
明香は呟いた。
春。
嫌いな季節ではない。この時期になると、明香は自分の過去を思い出す。
かつての名前を捨てたこと。
榊の姓を名乗ることになったこと。
主はそのことに触れようとはしない。
触れて欲しい、と思うときもある。
触れて欲しくない、とも思う。
知れば、あの男はどんな反応をするだろうか。
彼は過去に縛られている。
呪縛だ。
なのに、彼自身はそれから逃れようとしない。逃れようとせずに、ただ受け入れている。明香にはそれが信じられなかった。怖れというものがないのか。それとも、怖れるが故に逃れられないのか。
たぶん、その両方だろう。
主はここ最近、急に酒量が増えた。
依存するほどの量ではないが、心配ではある。
しかし、明香自身もあまり人のことは言えない。自分も酒量が増えた。気分が酷く滅入るときがある。それを解消する方法を、明香は酒以外知らなかった。
そして、それに身を任せていたかった。
酔いは感覚を麻痺させる。逃避といわれようと、その間だけ明香は癒されているような感覚でいられた。もちろん、そんなものはただの思いこみだ。何の解決にもならない。それも深く自覚している。
他人と痛みを共有できたら、自分の痛みは半分になるだろうか。自分が他人と痛みを共有できたら、相手の痛みは半分になるだろうか。
無理だ。
だから、自分で何とかするしかない。
しかし、もう自分にはその力がない。
使い果たしてしまった。
今の自分に出来ることは二つ。
逃れること。
そして、この屋敷での仕事を果たすこと。
無意識的に名前を呟いている。
相手がいなければ意味のない行為。
答えてくれるとしても、どう答えてくれるのだろう。
今までは無言だった。
今は答えてくれる。
2年。
この屋敷に来て2年経つ。
もうすぐ3年だ。
答えは出さなければならない。
お伽話の時間はもう終わる。
私情を挟むことなく自分に判断できるだろうか。しかし、判断しなければならない。それがこの屋敷にいる、目的でもある。
時間が止まればいい。
明香は切に願った。
そんなものは、それこそお伽話の中でしかあり得ない。
今のままで良かったのに。
時は待たない。
水の冷たさで痛む手を、息を吹きかけて暖める。
この屋敷を一日で全て清掃するのは無理だ。だから、有る程度のローテーションでもって掃除することにしている。今日は一階の7割ほどを拭き掃除して終わった。
胸ポケットに収めた金の懐中時計で時間を見る。
やや昼過ぎ。
主は帰ってこないだろう。
朝の残り物で簡単に昼食を摂る。
ほんの一時の休息。
紅茶を飲みながら、僅かな時間を無為に過ごす。
緩やかな時。
紅茶を取りそろえるのは明香の趣味の一つだった。主の許可を得て、「来客用に」という名目でいろいろな銘柄を取りそろえている。明香がとりわけ好むのは、「オレンジペコ」である。
癖のない甘い香りと舌触り。控えめな渋みは砂糖なしでも十分に甘さを感じ取ることが出来る。
紅茶を飲み、こうして一時ゆったりと過ごすことが出来ることを、明香は幸福だと思う。幸福というものは、ゆとりを持てて初めて実感できる。今の自分にはささやかながらそうした時間がある。
主とともに過ごすことが出来ないのは少し残念だが。
ふと、窓越しに外を見る。
庭先に一本だけ有る桜。
見れば、微かにつぼみが膨らんでいる。
桜。
一本しかないが、あの下で花見というのも悪くないだろう。
提案してみるのも良いかもしれない。
春。穏やかな季節。
時の流れも人の営みも緩やかな時間。
出会いと別れの刻。
もし選ぶのなら自分はどちらを選択しようとしているのだろう。
変化のない場所などこの世にはない。
主によって時を止められたようなこの場所にも四季は巡るし、春も来れば冬も訪れる。その繰り返し。
その中で共に流れ、老い、朽ちていく。
まだ主も自分も、平均的な寿命で考えればまだ3分の1も生きていない。
それでも時間は過ぎている。
明香は長く伸びた前髪をかき上げた。
自らの顔を隠すように伸ばした前髪は、彼女の自衛手段の一つだった。もっとも、この屋敷ではそんなものが必要ないことはわかっている。しかし、それは習慣と化していたし、明香自身やめる気もなかった。
ガラス越しに自分の顔が映っている。
前髪を下ろしているときとはまるで別人だ。
どちらが本当の自分なのか、明香自身にも区別は付かない。
以前は、前髪を下ろした自分が別の人間のつもりだった。
今は逆だ。
何が真実かは見る人間によって容易に変わる。
前髪を伸ばした自分もそうでない自分も、どちらも同じ人間なのだから。
亜麻色の髪を、手で梳く。
不思議な色だ。
明香はハーフではない。遺伝子による、ちょっとした変化らしい。茶よりも薄く、金よりも濃い亜麻色。血族の中でも、この髪のせいで明香は異端だった。別に迫害を受けたわけではないが、取り替え子とも拾い子とも、影で囁かれたものだ。
明香自身はそれを苦痛とは思わなかった。
幼い頃に知らされていた自分の出生は、それに当たらずとも遠くないものだったから。
血は繋がらなくても心は通う。
そういう事実も、知っていた。
恩義。血族同士でそんなものが成り立つかどうかは判らない。しかし、今の自分の立場と行動は、それに近いものが理由だ。
カップを置き、立ち上がる。
そろそろ庭先の掃除でもしよう。
洗濯物が乾くにはまだ間があるし、夕食の準備にもはやすぎる。
カップを流し台に置いてからのことだった。
電話が鳴った。
初めて聞く、電話の音。
2年間、一度もなったことがない。
主は全て、直通の電話を使っている。
居間に据え付けられた電話のベルは、反響し、けたたましいまでに明香の耳へと届く。
受話器を取るべきか。
一瞬ためらう。
しかし、誰からもかかってくることのないものが鳴るということは、ひょっとすると主が自分に連絡を告げようとしているのかもしれない。
たぶん、いやきっとそうだ。
出よう。
一息ついてから、受話器を取る。
「もしもし?」
「六道・・・・か?いや違うな」
低い声。
知っている。
この声。
「主はただいま外出中です」
受話器を握る手に、汗が滲む。
ダメだ。
切らなければ。
咄嗟にそう思う。
「・・・・なるほど」
私はこの声の主を知っている。
思い出したくない。
「久しいな。明香」
びくん、と体が震えた。
心臓を鷲掴みにされるような恐怖感。
手が震えている。
いや、全身で震えている。
否定の言葉が出ない。
無言は肯定の意志と見なされる。
否定。
「ひ、人違いを無さっておいでではないでしょうか」
「誤魔化さなくていい。見つけるのに3年かかったが、お前がそこにいることは判っている」
「何の事だか判りません」
「ずいぶんと奴とは仲が良さそうだな。私でも容易に手が届かない場所だ。人を見る目はあるということだな」
脊髄を這うような嫌悪。
首筋に細い革ひもを着けられ、ゆっくりと締め付けていかれるような恐怖感。
「悪戯なら切ります」
「そう怯えるな。帰ってきても良いんだぞ。私のところへ」
叩きつけるように受話器を置く。
肩で大きく息をした。
膝が震えている。
そのまま、床に座り込んだ。
終わった。
何もかも。
絶望感が全身を包む。
知られてしまった。
どうすればいい。どうすれば。
自分の肩を抱きしめる。
震えは止まらない。
報いだろうか。主を欺き続けた事への。
あるいは、これが予定調和なのか。
もうどうにもならないだろう。
大きく息をする。
だがまだ手遅れではない。
見極めよう。僅かな時間ではあるけれど。
立ち上がり、箒を探す。
見極めて、選択しなければならない。
自分の主が、全てを委ねるのに相応しい人間かどうかを。
気分が重かった。
庭の掃除を始めてから1時間ほど経っているが、いつもの半分以下のペースでしか進まない。心、ここにあらずといった具合だ。
ずいぶんと大きな荷物を背負わされたものだとは思う。
しかし、そのことを恨んではいない。
感謝さえしている。
だが、感情を挟むことと、与えられた仕事を全うすることは別問題だ。それは自分が信用されているからこそ依頼されたことなのだから。
ただ、双方の要求を満たすのは難しい立場になった。
片方の信頼を裏切らなければ、もう片方の信頼に応えることは出来ない。
矛盾。
それが悩みだった。
主が屋敷を空けていられるのは自分が信頼されているからだ。
だが、目的を果たすためには、それを裏切ってでも、屋敷内の捜索をしなければならない可能性が出てきた。いや、むしろそうしなければ達成できない。
どうすべきか。
そこで思考が停止している。
案外、正面切って知りたいことを訊ねれば、答えてくれるかもしれない。
だがそれでは意味がない。
事は密なるをもって成就する。
自分の正体を知られるような行動は避けなければならない。
今まで、自分の素性を知られなかったのは、単に主の興味がそこへ向かなかったからにすぎない。それは奇跡に等しいことだ。
もう少し、この奇跡には持続してもらわなければならない。いずれ自分の正体は主の知るところとなる。それはもう少し先でなければ。
タイトロープだ。
ここから先はしばらく危ない綱渡りをすることになる。
相手はまだ手を出してこない。相手の性格を考えればそれは確実だ。明香に残された時間は、相手の余裕に比例する。
だが、それだけではあまりに足下が不安定だ。
明香自身も手を打つ必要がある。
いくらかの資金が必要だが、それはいままで貯めた給料で十分にまかなえる。明日にでも出向いて手を打てば、時間はさらに稼げる。
十分な材料を得て決定する。そのための時間だ。短絡的に選択しては、ダメだ。
エンジン音が響いてくる。
主が帰ってきたようだ。
ドアを開けて二言三言、運転手に話している。
降りた。
庭を掃く手を止め、頭を下げる。
「おかえりなさいませ」
主はそれを手で制した。
「続けろ。私は書斎にいる。何かあったら呼べ」
「はい」
主が屋敷のドアをくぐったのを見てから、明香は箒を片づけた。
そろそろ夕食の準備の時間だ。
今日のメニューは下準備を終えている。
満足してもらえるだろうか。
自分の能力への、絶対の自負が明香を有能たらしめている要素であることは確かだ。そしてそれは主が満足しているかどうかという、微かな疑いがスパイスとなって更なる向上をもたらしている。
与えられた仕事は完璧にこなす。
調理場に立った瞬間から、明香の役割はメイドからコックになるのだ。
小さく息を吸う。
この一時だけは、余計なことを忘れよう。
何に於いても同じだ。雑念は、結果を狂わす。
明香は調理場へと足を進めた。