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紅玉の杯-1

赤い器。
満たされたものが何であるかは
器を傾けるまで判らない。
紅玉。
割れない杯。
永きにわたり満たされるは
深紅か否か。


一章  憂う雨

「おはようございます」
 目を覚ますと、明香の顔がある。
 いつもの朝。
 悪夢からの覚め。
 粘つく闇からの解放。
 それはまた、異質な悪夢の再来でもある。
「ああ」
 私は虚ろな返事をし、身を起こした。
 いつもと同じ朝。射し込む光と、曇った心。
 一礼し、明香が立ち去る。
 一人残された私は、気怠い身体を引きずるようにして立ち上がった。
 畳まれた着替えを手に取り、身につけていく。
 染み一つ無く洗濯され、丁寧にアイロンのかけられた衣服。
 洗濯機に頼らず、襟や袖の汚れは手洗いで落としているのを見たことがある。
 そうまでして手間をかける。
 献身的とさえ言えるだろう。それが高額の報酬の為なのか、それとも彼女の信念なのかは私には判らない。
しかし有能で有ることに疑いはない。
 私が気後れするほどに、ためらいを感じるほどに。
 そういう人間を手元に置いていることを、幸運に思うべきなのだろう。私の生が、幸運によって維持されていると仮定するならば。
 ネクタイを締めると、微かな緊張感がみなぎる。
 食堂に降りると、いつものように一人分、食事が置かれていた。
 それを機械的に収め、立ち上がる。
 明香は姿を見せない。
 気を遣っているのだろう。
 久しぶりの商談。
 それも、私が出向いての。
 その重さを、彼女は感じ取ったのだろう。
 だから現れない。
 緊張を、ほぐさないために。
 
 運転手に行き先を告げる。
 頷き、声もなく、車を走らせる運転手。寡黙だが、信用のおける男。
 よけいな詮索もしない。緻密な運転と、的確な判断を備えている。
 この男も優秀な男だ。
 だから雇った。
 必要なときにだけ私の屋敷へ来て、そして私を運ぶ。
 それがいい。
 普段、この男が何をしているのかを私は知らない。
 だが、この男の仕事は、私の期待を裏切らない。
 良い運転手というものは、事故を起こさないことではなく、必要に応じて運行計画を柔軟に立てることの出来る人間を言う。柔軟性のない人間は、計画性の無さに結びつく。時として一秒を争うこともある仕事だ。こういう人間でなければ勤まらない。
 運行計画は単に最短、最良のルートを割り出すことだけではない。そこには、意図的に事故を起こすことも含まれる。
 この男は私の命令で、二度事故を起こした。
 躊躇うことも、逆らうこともせずに、頷き一つで。
 車は大破したが、私も運転手も無傷。
 そういう芸当が出来る男だ。
「何か、不満はないのか」
 男は首を振る。
「今のままで、十分でございます」
 明香と同じ答え。
 私は目を閉じた。

 しばしの微睡みのあと、車は目的地に着いた。
 都内にある、懐石料理店。古風な外観は、それなりに雰囲気を盛り上げてくれるが、値段もそれ相応のものを取られる。店も、人も、料理も、水準以上と見ていい。
 しかし、味わうために来たのではなく、話し合いのためだ。
 つまらない金の算段など、料理の味を台無しにする以外何の価値もないだろう。
 案内されて奥へと進む。
 会談のためにあつらえられた席には男が二人。
 一人が取引相手、もう一人は秘書兼ボディガードといったところだろう。お決まりの黒スーツからは無意味な威圧を発している。要領だけで世の中を渡ってきた男と力だけで世の中を渡ってきた男。いい取り合わせだ。
 最低の相手だ。
「ようこそおいでくださいました」
 私はそれに答えず、ただ畳の上にあぐらをかく。
「わざわざ私を呼びつけたぐらいだ。よほどの事と見たが」
「ええ。例の、建設会社の不良債権についてですが」
「回収の目処が立ったのか」
「都内の大手銀行が、買い取るそうです。大した額ではありませんが」
「手元に残してもゴミなら、二束三文でもたたき売った方が得、と考えたか」
「如何なさいますか」
「別にどうもしはしない。私の仕事は投資ではないからな」
「欲のないことで」
「利益など上げても意味はない。私は必要以上の金は持たない主義だ」私はため息をついた。「その程度のことなら、電話で事足りるだろう。私を呼びつけた、本当の理由は何だ」
「もう一件、ぜひあなた様のお耳に入れたいことがありまして。貴方にとって損のない話、当方にも見返りのあることと思いましてね」
 いやな話し方だ。
 寒気のするような、鳥肌の立つような言葉遣い。
 勘に障る。
「回りくどい言い方を私が嫌うのは知っているな。用件だけを簡潔に述べろ」
「貴様、誰に向かって」
 いきり立つ黒服を、相手が制した。
「まぁまぁ。『西遠寺』恭也様の遺産、と聞けばだいたい察しがつくと思いますが」
 疼くように響く名前。
 西遠寺恭也。
「ふん。どこで嗅ぎつけてきた」
「蛇の道は蛇、と申しますでしょう」男は下卑た笑いを浮かべる。「ただ、私どもの調査で貴方にはその相続権がある、と申し上げたいのですよ」
「だからどうした。死人の財産に群がれというのか?この私に?」
「どう解釈なされようと勝手でございますが、資産価値にして数十億。対外的な価値を含めれば倍以上のものとなりますでしょうな」
「で、お前は何を得る」
「おこぼれに預かろうなどとは思っておりませんよ。私めを今後のごひいきにしていただければ十分でございます」
「ずいぶんと割のいい話だな。お前のような人間が、大した見返りもなく人に施すようなことはない。誰かの差し金か」
「これは手厳しい」
「法的な手段でかすめ取ろうなどと考えているなら諦めろ。恭也の遺産は凍結されている。いずれは然るべきところが接収し、塵になるように処置されているからな。お前達のたくらみ通りにはいかんぞ」
「考え違いをなさっておいでで。私はただ、調査の結果を申し上げたまでのこと。どうなさるかはあなた様の勝手ですし、私の関与するところではありません」
 なるほど。
 こういうことを仕組む人間は一人しかいない。
「西遠寺 悦哉に伝えておけ。お前の弟の遺産は誰の手にも渡らない、とな」
「後悔なさいますよ」
「もうしている。無駄な時間だった」
 私は立ち上がる。
 料理を運んできた女将とすれ違ったが、そのいぶかしげな視線は無視した。
 器に乗った料理は二人分。
 秘書と味わえば良かろう。
 不愉快だ。
 私は店を出る。
 何故、過去を引きずり出すのか。
 何故、刻に抗うのか。
 全ては流れていけばいい。
 流れて、留まることの無いのが人の命だ。
 何故、過去を掘り返す。
 何故だ。
 苛立ちとともに拳を振り、ブロック塀に打ち付ける。
 痛みと、衝撃。
 理性が戻ってくる。
 恭也の遺産はあいつ自身の意志で凍結された。何人も触れないように。その全てが消えて無くなるように。
 西遠寺一族の権力、財力は強大なものだ。
 絶大と言ってもいい。だから、あえて恭也はそれを拒否したのだ。
 娘の由梨香を私に託したのも、遺産凍結の法的処置を依頼したのもそのためだ。
 私は断れなかった。
 罪悪感という鎖が私をつないでいたからだ。生きている限り絶対に切れない鎖。引きずることは出来ても消え去ることのない鎖だ。
 恭也は計算していたのかもしれない。それとも、本当に私を信用していたのかもしれない。
 私は恭也を信用している。死しても、なお。
 その差異を確かめることは出来ないが、私は私の流儀で事を進めればいいだけのことだ。
 路地で停泊していた私の車が静かに横付けされる。
 ドアが開いた。
「屋敷へ戻る」
 運転手は頷いた。
 理由を問わない。その寡黙さは心地よくさえある。明香とは正反対の、心地よさだ。
 人は個々の役割を持つ。この男は、私を確実に屋敷まで運ぶ。そういう役割を担っている。
 私の役割は何なのだろうか。
 シートに身を埋めながら思った。
 たぶん、何もない。
 何も。

 運転手は無言でドアを開け、私を送り出した。
「また近い内に、呼ぶ。日程は開けておけ」
 頷く。
 最小限のやりとり。
 この男とそれでは十分だ。十分、意志の疎通が出来ている。
 姿も見たことのない父親、その代からの側近。問えばいろいろと答えてくれるだろう。
 私の知っていること、知らないこと。
 父親の姿、言葉、人生。
 あるいは、さらに闇深い母親のこと。
 両親の記憶というものが私にはない。
 幼くして両方を亡くし、憶えがあるのは皺だらけの祖父の顔だけだ。
 その祖父も私が物心ついてすぐに死んだ。
 だから、私には本当の意味で家族と呼べる人間はいない。
 それを苦痛と思ったことはない。居るべき人間が居なくても、初めから無かったものなら虚無感も喪失感も生まれない。残っているのは「居ない」という現実だけだ。
 私は孤児院に預けられてもずっと一人だった。
 そして今も一人。
 これからも一人だ。
 車が去っていく。
 私はドアノブに手をかけ、ゆっくりと引いた。
 明香が居た。
 掃除の最中だったらしく、手に箒を持っている。
「おかえりなさいませ」
 箒を履く手を止め、恭しく頭を下げる。
 その仕草は、妙に素直だった。
 そういう明香も悪くはない。
「続けろ。私は書斎にいる。何かあったら呼べ」
「はい」
 一礼し、再び箒で掃除を続行する。
 私は明香に告げたとおり書斎へと一直線に向かった。
 ここだけが、本当の意味で私の居場所だ。
 積まれた本も、かび臭さに似た紙の匂いも、分厚いカーテンも、全て私の一部となっている。音の届くこともなく、光が差すこともない部屋。
 音のない闇の中に数時間居ると、人間は発狂するらしい。
 だが、私はこの部屋が一番落ち着く。
 光の届かない、音のない部屋が。
 ならば私は狂っているのか。
 しかし狂った人間は自らを狂っているとは思わない。
 パラドックス。
 それも、とびきり無意味な。
 この世にまともな人間の居たためしなど無い。
 私は本を一冊手に取り、スタンドの明かりを灯す。
 西遠寺が動くだろう。
 弟の遺産を狙って。
 相続権が私にある・・・・・真実であるならば接触は必ずある。
 私は、死んだ恭也の次に、遺産の規模を知っているからだ。それは、通常の人間がとうてい手にすることの出来ないものだ。
 この世でもっとも危険で、そして或る意味価値のある遺産。
 手にしたのは至極偶然だったが。
 それでも、金銭的な価値にすれば莫大なものになる。
 恭也は何故、この遺産を凍結したのだろう。放棄ではなく、凍結。この意味が、今をもってしても私には判らない。
 疑問は二つだ。
 何故、今になって遺産の問題が出てきたのか。
 誰が、どうやって遺産の相続権を突き止めたのか。
 あるいは。
 ゲームなのかもしれない。
 人間を駒に、遺産をゴールにしたゲーム。
 死を前にした人間の、葛藤の具現。
 ・・・・・・・乗ってみるのも悪くはない。
 ゲームは危険を伴うだろう。死、あるいはもっと重い代償を支払うかもしれない。だが臆することもないだろう。
 私には失うものなど無いのだから。
 地位も財産もいつかはなくなる。
 早いか遅いかの違い。
 ただそれだけだ。
 
 スタンドの明かりが静かに灯っている。
 幾ばくかの時間。あるいはかなりの時間。
 時間が流れている。
 いつの間にか世界が闇に閉ざされている。
 ノックの音。
「お食事の用意が出来ました」
「判った」
 返事をして本を閉じる。
 疲れた目が霞む。しばし目を閉じて休ませる。
 ドアの向こうで気配。
 明香がまだそこにいるのだろう。
 私が外に出てくるのを待っているのかもしれない。
「明香」
「はい」
「茶碗には軽くでいい」
「かしこまりました」
 別に明香はその言葉が聞きたかったのではないのだろう。
 しかし、私の要望を実行するために階段を下りていく。
 私も扉を開けて外に出た。
 伸びをすると身体のあちこちが心地よい悲鳴を上げる。ずっと動かなかったせいだ。
 何か運動でも始めようか。
 そう考えて、ぎょっとした。
 私らしくもない考えだ。
 好ましい変化なのだろう。私を気遣う明香にとっては。
 最近、自分の行動を明香の視点ではどう映るのかを気にするようになっている。
 意識しているのだ。
 明香という存在を。
 側にいるものとして。
 あるいは女として。
 人は変わっていく生き物だ。私も例外ではないのだろう。
 意識して何になるのかといえば、煩わしいことが増えるだけだというのに。
 ・・・・・待たせても悪い。
 私は階段を下りた。

 用意されている食事は私一人のものだ。
 鶏肉をホワイトソースで煮込んだものに、スープ。茶碗には私の要望通り、ごく軽く白飯が盛られている。
 鶏肉には一口だけ手をつけ、あとはスープと茶碗の飯だけを詰め込む。
「・・・・お気に召しませんでしたか?」
「いいや。酒のつまみにしようと思った」
 立ち上がろうとする私を明香が制する。
「何をお飲みになられますか」
「珍しいな。いつもなら止めるところなのに」
「隠れて飲まれるよりはましですから」
「成る程。お見通しなわけだ」私は戸棚に目を移す。「フォア・ローゼスを」
「ロックで?」
「ストレートだ」
 頷き、戸棚へ歩み寄る。
 持ってきたグラスは二つ。
「お供いたします」
「自分が飲みたいのなら、初めからそう言え」
「あら?判りました?」
「わからいでか」
 明香の顔に手を伸ばし、長い前髪をかき上げる。
「お前がずるい女だと、感じるときがある」
「どうして?」
「お前は私を見ることが出来る。私はお前を半分しか見ることが出来ない。その目には何が映っている?」
 微かに笑む。
「知りたいのですか?」
「時にはな」
「今は貴方だけを見ていますわ」
「光栄なことだ」
 明香から手を放し、注がれたグラスに手を伸ばす。
「乾杯でもしましょうか」
「何に」
「未来に」
「遠慮しておこう」
「どうして?」
「未来には縁がない。私が興味を持つのは今だけだ」
「それでは・・・・すぐに流れて過去になる、刹那の一時に」
「悪くない」
 グラスを鳴らす。
 一口だけ飲む私に対し、明香は一気に煽る。
 シングルとはいえ、大した飲みっぷりだ。
 だが。
「なれもしない酒を一気のみすると悪酔いするぞ」
「もし倒れたら、貴方が運んでくれますもの」
「人の助力を期待するな。足下をすくわれる事になる」
「貴方は私の期待を裏切りませんから」
 何処かで聞いた台詞だ。
「ベッドに運ばれたいのなら、今すぐにでも良いんだぞ」
「あら?それではお願いしてよろしいのですか?」
「自分の足で行け」
「冷たい人」
「賞賛と受け止めておこう」
 一口。
 喉の灼ける感触を楽しむ。
「ずいぶんと、女々しい飲み方をするのですね」
「女のお前に言われたくはないな。私はこういう飲み方が好きなだけだ。男らしさ云々は無意味だろう」
 少しずつバーボンを味わう。
 女々しい飲み方。
 そう表現されるとは思わなかった。
 一口、舌に乗せずに喉を通す。そうすることで喉を灼き、胃を灼く。その熱さが心地よい。あとには濃密な、香りだけが残る。
「私は一息に飲む方が好きですけど」
 言いつつ、グラスに注ぐ。
「楽しんで飲んでいるようには見えないな」
「そうですか?」
 煽る。
 明香の顔にはほんのりと朱が差している。
 艶やか。
 そう評していい。
「・・・・・飲み方は人それぞれだ。飲みたいときに飲めばいい」
 私も明香をまねて一息に煽る。
 熱い。
 いつもの倍の熱さ。
 顔に血が集まっていくのを感じる。
「どんな感じですか?」
「無茶な飲み方だ」
 だが悪くない。
 たまには。
 明香が、三度目を注いでいる。
 そして煽る。
「そのへんにしておけ」
「あら?まだまだ、これからですのに」
 空になったグラスを取り上げる。
「何かあったな」
「なぁにも」
 笑う明香。
 いつもの明香ではない。
 らしくない。
「言え。何かあったな?」
「何も、ありませんでした」
 今度は真顔で答える。
 わかりやすい。
 私の不在中に何かあった。
 誰かが来た。
 もしくは明香にしか判らない変化があった。
「もう一度聞くぞ。何があった」
「ですから何もありませんでした。今まで通り」
聞き方を変える必要があるな。
 私は明香を抱き寄せた。
 こういう手段は執りたくないが、嫌いでもない。
「話してみろ」
「何もありませんでした。御主人様」
 皮肉を込めた言葉。
 そして拒絶。
「私を御主人様などと呼ぶな」
「ではなんとお呼びすれば?」
「お前の好きに呼べ。だが、御主人様はやめろ」
 苛立っている?
 皮肉を込めて呼ばれたからか、明香を手玉に取ろうとしてあしらわれたからか。
 どちらも同じ意味だ。
 子供でもあるまいに。
 そんなことで気を立ててどうするのだ。
 お互いに、今日はかみ合っていない。
「変なのは貴方もです。貴方こそ、何かあったのではないのですか?」
 取り敢えず、自分に対する話題を逸らしたいらしい。
 何もなかったと言い張るならそれも仕方ないだろう。
 これ以上明香から聞き出すのは無理だ。
「そうだな」
 今日一日を振り返る。
「亡霊にあった」
「亡霊?」
 明香が怪訝な顔をする。からかわれたと思っているらしい。
「そうだ。亡霊だ。そいつはもうずいぶん前に死んだ奴だが、時々生き返って私の前に姿を現す。信じるか?」
 明香が考え込むような仕草をする。
「そうですね」笑み。「信じます」
 思わず耳を疑う。
「意外だな」
「どうして?」
「真っ向から否定すると思った」
「私は、おとぎ話が好きですから」
 微かに顔が曇る。
「私も、亡霊なら見たことがあります。ですから、貴方の言葉を信じます」
「そうか。それはよかった。・・・・・いや、良くはないか」
「否定して欲しいんですか」
「気分的なはな」
「では、信じません」
 微笑む。
 いつもの明香だ。
 安堵する。
 そして疑問に思う。
 何があったのか。
 詮索はしないが、気にはかかる。
 7年目の亡霊。
 明香も亡霊を見たことがあるという。
 私の言う亡霊と明香のそれは異なるだろうが。
「もう遅い」
 私はもう一度グラスに注いでから一息に煽る。
 灼けていく。
 その感触が緩やかに身体へ熔けていく。
 一息ついて、立ち上がる。
「詮索するつもりはないが、何かあったのなら私に報告しろ。力になれるかどうかは保証しないが、気休めくらいにはなる」
「頼もしいですけれど、何もありませんでしたから。ただの、気分の問題です」
「それならいい。・・・・私はもう休む。すまんがあとを頼む」
「かしこまりました」
 一礼し、グラスを持つ明香。
 私は踵を返した。
 明香が自分の問題であるというなら、それでいい。
 自分で解決できないと考えたなら、迷わず私の元へ来るだろう。
 それでいい。
 ネクタイだけを緩め、ベッドに横たわる。
 闇。
 降りてくるように、昏い。
 目を閉じる。
 そこにも闇。
 酔いが、その感覚を麻痺させる。
 目を閉じた闇と世界を包む闇。
 それと、眠りという闇。
 身を委ねる。
 いつもと同じ。
 意識が途切れていく。
 悪くない。
 薄らいでいく理性で、そう思う。
 そして、閉ざされる。

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