shadow Line

黒曜の羅針

 町の喧騒からはるか離れ、鬱蒼とした森のなかにある一軒の屋敷。
 三代にわたって使われてきた屋敷は、かつての絢爛さを留めているものの、各所には痛みも目立つ。主の許しがあれば、然るべき改修を施すべき状態だった。
 それでもハウスメイドとして雇われている榊 明香の仕事は、主の求めるままに屋敷を維持管理することにある。
 家の中についてはあらゆる事に精通しているという自信があるが、建築だけはどうにもならない。主の六道曰く「住めればそれでかまわない」とのことだが、明香にもメイドとしての矜持というものがある。いずれ、何とか説得するしかないだろう。
 公道から離れていることもあり、滅多に来客が無いのが改修しない理由の一つだが、それでも全く来ないというわけでは無い。
 その日は来客に備えて作業を前倒しし、明け方から動き始めて掃除と必要な家事を済ませていた。
「先生、来たよー」
 快活な声が窓の外から響く。
 明香は目元を隠す前髪の隙間から少女の姿を認めると、静かに玄関の鍵を外しに階下へと降りた。

 六道が後見人を務めている伊月友梨香は、好んでこの場所を訪れる希有な人間の一人である。亡き友人の忘れ形見であり、また明香にとっても年の離れた友人と呼べる間柄だった。
 友梨香は食堂から勝手に椅子を持ち出して、厨房に居座る。
 学校のこと、日々のこと。報告のように話した後で、一拍おいてから、えんじ色のジャージ姿の少女はエプロン姿の明香に問うた。
「ねえ、先生? 結婚とか考えたことある?」
「ありませんね。結婚したら家事をしてもお金が貰えませんから」
 そう答える口元には微笑が浮かんでいる。
「い、言い切ったわね」
「それはもう。私はそもそも私はお金のために此処に来ているのですから」
 その言葉に友梨香は怪訝な顔をする。
「そんなにお金が大事?」
「大事ですわ。依るべきもののない私に、これ以上頼れるものはありませんからね」
「ふーん。意外」
「そうでもありませんよ? 私は根無し草の生活が長いものですから、何処へ行くにも先立つものが入り用でしたので。腰を落ち着けたのは、ここ最近のことです」
「へえー。じゃあ、ずっとおじさまの所にいたわけじゃないんだ」
「はい。ここでのお仕事はまだそう長くはありません。賄いや住み込みの掃除婦、託児所の仕事などの方が長かったですね」
 明香は懐かしむこともなく淡々と答える。亜麻色の前髪で覆い隠された瞳がいかなる輝きを宿しているか、友梨香には知る由もなかった。
「苦労人なのねー」
「仕方ありません。私のような身の上では、なかなか定住するのは難しいものですから」
「なんで?」
「と、言われましても……髪の色からお察しくださいとしか」
「え―――あ、ああー。なるほど。先生――――外人なんだ。全然気が付かなかったわ」
 外人、と言う言葉の響きにざらついたものを感じつつも、明香は笑みを返す。
「育ちはこちらですからね。日本語を普通に話しますし、名前も和名ですから気が付かない人も多いんですよ」
「そうよねー。髪染めてる人なんて普通にいるから、金髪が地毛だって気が付かないこと多いし」
「恐れながら、六道さんもしばらく気が付いてはおられなかったようです」
「でもおじさまの所にいるのにお金が必要って……なんで? こういっては何だけど、おじさまはハッキリ言って先生居ないと何も出来ないし、たぶんすぐ餓死とか病死するから追い出したりはしないと思うわよ? 家に納まっちゃっても問題ないような気がするんだけど」
「……故郷に帰ろうと思っていたのですよ。お金を貯めて」
「そっかー。そうよねー。なんか判る気がするわ」友梨香の本当の家と呼ぶべき西遠寺家に、彼女の居場所はもはや無い。「それにしても、先生の故郷って何処なの?」
「欧州の方だとは判っているのですが、何処とは。母も教えてはくれませんでした」
「旅をしながら故郷を探すか……なんかロマンね! 判る! 判るわよ! あたしも時々どこか行きたくなるもん。なるほどお金が必要だわ。……そうだ、おじさま連れていっちゃいなさいよ! そうすれば全然問題ないじゃない。おじさまお金持ちだし旅費の心配は要らないでしょ? ついでに先生が付いていれば、おじさまも餓死したりしないし」
 やたら餓死について言及するのは、明香が居ない期間に何かがあったのか。
「いえ、故郷はもういいのです。別にどうしても探したいわけではありませんし。今更自分のルーツを辿ったところで、何も変わったりはしません」
「ふーん。それだと、どうしてお金がいるの?」
「まあ、いろいろと。一つは私のため、もう一つは不測の事態のため、といったところでしょうか。何かあった時にはいろいろと必要ですし、その為の保険のようなものです」
「うーん、煮え切らない答えだわ。結婚しておじさまを操ったり言うこと聞かせたりする方がいいじゃない。なんで?」
 あまりにあけすけな質問に、明香は苦笑する。
「先ほども言いましたが主婦業ではお金になりませんし、六道さんは人の言うことを聞くような方ではありませんし。それに、ここのお仕事はめっぽう金払いが良いのですよ」
「先生、一つ聞いていい?」
「なんでしょう?」
「おじさまの遺産とか狙った方が手っ取り早くない?」
「とんでもないことを言いますね。仮にもスポンサーなのに」
「なんとなく聞いてみただけよ」
「常識的に考えて、六道さんがただのメイドに遺産を譲るとは考えられません。書類の改ざんも六道産の裏を掻くのは容易ではないでしょう。あと三十年したら分かりませんが……でもたぶん、無理でしょうね。そうなると、継続的にお金をもらえる今の方が確実に私の得です」
「じゃあ、ずばり聞いちゃうけど」友梨香はゴクリと唾を飲み込んでから切り出した。「おじさまのこと、好きなの?」
「それは答えに窮する質問ですね。自堕落で、覇気が無く、内向き思考の皮肉屋で、そのくせ負けず嫌いな方ですから。普通、伴侶として選ぶにしても選択肢には残りにくいのではないでしょうか」
「ぼろくそだわ」
 しかも、的を射ている。
「でも、案外可愛いところもありますね」
「その答えはずるーい」
「そうですか?」
「それは万能の答えだよ、先生」
「大人というのは得てして狡いものですよ」
 と、歌うように明香は返す。
「教会のオルガン弾きがそういうこと言って良いわけ?」
「いまはメイドとしてここに居ますからね」
「ひどい聖職者もあったもんだわ」
「教会には奏者として呼ばれてはいますが聖職者では無いですし、その指摘は的外れかと」
「先生って、清楚で大人しいイメージだったけど意外と腹黒よね」
「その様な物言いは良くありませんね」
 ひょいと伸ばした手友梨香のほほをつまみ上げる。
「いたたたた……暴力はらめぇ」
「私をどう思おうが勝手ですが、本人を前に言ってはいけませんよ」
「怒らなくてもいいじゃない」友梨香は頰をさすって抗議する。
「ちゃんと怒るのも大人のつとめです」
「……先生にはかなわないなぁ。何を言ってもかわされちゃう」
「生きると言うことは、秘密が増えることでもありますからね。なんでも開けっぴろげには話せませんよ」
「それって疲れない?」
「さあ、どうでしょう。何が真実で、何が嘘だったのか、本人でさえ分からなくなることもありますしね。重荷を背負った者が、それを重荷と自覚しなかったら、果たしてそれは重荷と言えるのか。そういうことだと思いますよ」
「わかったような、わからないような……」
「自分の肩の荷を笑い飛ばせるようなら、それは一人前ですよ」
「あたしには無理そうだなあ」
「それは今後の成長次第、でしょうね」材料を量り終えた明香は、小鍋を手に取り火にかける。「さて、その様な話をしているとせっかくのお菓子がまずくなってしまいますからね。ここで打ち切りといたしましょう」
「今日のおやつは何なの? チョコケーキ?」
「近いですね。今日はチョコレートスフレです」
「あたし、売ってる奴でしか食べたこと無いわ」
「では、今日は本物を味わえますよ」
「本物……! なんかすごそう」
「賞味期限十五分なので、できたらすぐ食べないといけませんからね」
「どういうものなの?」
「メレンゲを使って焼き上げたチョコレート生地を、しぼむ前に食べきる、その場に居合わせた者しか口にできないデザートです」
「うーん、難しそうなお菓子ね」
「基本は簡単ですよ。生地を焦がさないようにゆっくりと暖めて、メレンゲはしっかり作る。混ぜるときはメレンゲを潰さない。このあたりのことを守れば、あとは焼き加減だけですね」
「無理そう」
「そんなことはないですよ。お菓子作りは、つまるところ化学の実験と同じですからね。規定の分量の材料を然るべきタイミングで混ぜて、熱を加える。それだけです」
「上手い人は、難しいことをさも当たり前のことのように言うのよね」
「失敗知らずのレシピと謳っているものは数え切れないくらいありますが、失敗もせずに上達した人はいませんよ」
「うわー。きびしいー」
「間口は広く、極めるのは難しい、それも料理ですから」
 ボウルの底をさらうようにして動く明香の手は、リズミカルで淀みない。
「ハンドミキサー使えばいいのに」
「そうですね。でも、こうして泡立て器で混ぜているのも存外楽しいものですよ」
「テレビでそんな風に混ぜているのを見たことはあるけど」友梨香の視線はボールの中で踊る撹拌器から動かない。「目の前で見てると同じ人間には思えないわ」
「練習次第ですよ。達人になるのは素養が必要ですが、ある一定のレベルまでは誰だって出来ます」
「そう言われて挫折した人は多そう」
「疑いようのない真実ですが、自分で試さない限りはただの言葉ですからね」艶の出始めた卵白から目をそらさずに明香は続けた。「せっかくなのでお手伝いをお願いできますか?」
「何するの?」
「そこにある型に指でバターを塗ってください」
 と、抱えたボウルでテーブルの上を指し示す。
「指でいいの?」
「きちんと手を洗えば問題ありません」
 言われるがままに手を洗い、友梨香はバターの塊へと手を伸ばす。直接バターに触れるという行為に僅かな躊躇いを覚えた後、意を決して指先に載せたバターをココット型へと塗り込んでいく。
 3つのココット型に塗りおえると、油脂に塗れた指先をみて友梨香は大袈裟に顔をしかめた。
「うわ、手がベッタベタ」
「ひとまず石けんで落ちますよ」
「荒れそうー。いつもこんなことしてるのに先生の手って綺麗よね」
「手入れを怠らなければ十全に働くのは道具も人も一緒です」
「出た! 上から目線!」
「教育が必要ですか?」
「学校行ってるからいらなーい」
 身をかわすように友梨香は一歩退く。
「塗り終わったらグラニュー糖をまぶして、払ってくださいな」
 話しながらも明香の手は滑らかに動き、メレンゲとチョコレートを混ぜ合わせている。
 渦を巻くメレンゲとチョコレートがマーブルから均一の茶色に収束していく。
「先生の手って魔法みたいだよね」
「あら、それは嬉しい褒め言葉ですね」
「なんでそんなにテキパキ出来るのかしら」
「レシピも手順も暗記していますから」
 短く答えつつ、ゴムべらですくわれた生地がココット型流し込まれ、定められた線を辿るようにオーブンへと収まる。一呼吸の無駄も無い動きに、友梨香はため息をつくことも忘れて見入った。
「後は焼き上がりを待つだけです」
「うーん、楽しみ」
「お菓子作りで一番楽しいのは、こうして出来上がりを待つ時ですね」
 明香は使い終わった道具をシンクへ置いて洗い物を始め、友梨香は飽きることなくオーブンの中の生地を見つめる。
 茜色のオーブンの中で生地が持ち上がるのに気付いた見た友梨香は、片付けを進める明香に視線を向けた。
「膨らんできたけど、これってあとどれくらいで出来るの?」
「残り5分と言ったところでしょうか。私はここから離れられませんので、六道さんを3分以内に呼んでくださいませ。その間にお茶の準備を済ませておきますから」
「来なかったら?」
「ドアを壊してもいいです」
 本気とも冗談ともつかぬ物言いに驚きながらも友梨香はキッチンを離れた。

 屋敷の中は冷えた空気が満ちており、掃除が行き届いていなければ幽霊屋敷といっても信じられそうだった。
 階段を上り、叔父と慕う男の居室へと向かう。聞けば父とは親友の間柄だったそうだが、記憶の中の父親と六道が仲良くしてる姿は想像できなかった。
 古びた木に真鍮の取っ手。ありふれた扉は絶壁のように人を拒んでいる。そこが六道にとっての唯一の居場所なのだと言うことは友梨香も分かっていた。
「おじさま?」
 控えめにドアを叩いてみるが返事が無い。
「どうしよう」
 友梨香は口に出して思案する。六道を置いて自分が2個食べる、と言う妙案が思いついたが、たぶん実行は許されないだろう。
 ドアを壊しても良いとは言ったが、まさか本気ではあるまい。
 ひょっとして寝ているのだろうか。
 爪先でドアを蹴る。
「おじさま」
 返事はない。沈黙に耐えかね、ドアを蹴る音にだんだん容赦がなくなる。
「んもう!」
 ドアが凹んでもかまうものか、とばかりに大きく蹴った後で友梨香は大きく息を吸い込んだ。
「起きて! おやつ!」
 ややあって、微かな衣擦れの音がする。薄手のシャツにスラックス姿で屋敷の主人はドアの隙間から顔を覗かせた。
「簡潔にして無駄のない呼びかけだな」
 細身の身体に陰を纏わせた六道を見て、友梨香はもう少ししゃっきりすればモテるのに、などと思ったりする。
「寝ぼけてるならショックを与えたほうがいい?」
「できれば心臓が止まるようなやつを頼む」
 六道に何を言っても無駄と言うことは、以前この家に通っていた時に学んでいた。
「いい? 私は呼んだからね! 早く来ないとおやつ無くなるから!」
 3分という時間制限を考えればここらが限度だ。友梨香は足を踏みならしながら階段を降りていった。
 
 六道が食堂に現れたのは明香が支度を終えるのとほぼ同時だった。
 控えめな色合いのクロスには湯気を立てる紅茶と芳香を奏でるチョコレートスフレが載せられている。
「紅茶は秋摘みのダージリンをご用意しました」
「そうか」
 六道は興味なさげに答えると、早々にスフレへスプーンを差し入れ、ココット型から浮き出た濃褐色のスフレを黙々と口へ運んでいく。時折、傍らに置かれたラズベリーとホイップクリームをのせてはまた無言で食べ続ける。
「ねえ、おじさま」
「何だ」
「なんか、感想は無いの? せっかく作ってくれてるのに」
「明香の作る物に間違いはない。感想は言う必要がない」
「そりゃそうかもしれないけどさ、もっと褒めるとか、そういうのをした方が良いと思うわよ」
 六道は友梨香には答えず、代わりに側に立つ明香に尋ねた。
「明香。これは冷めるとどうなる?」
「しぼんでしまい、味も魅力も半減します」
「……だそうだ」
「どういう意味?」
「喋っている間に味が落ちる」
 無言で食べているのは、食べることに集中するためなのか、単にごまかしなのか、友梨香には分からなかった。
 ただ一つわかったのは、二人の間には確かな信頼関係があることだ。
 モヤモヤとした気分のまま、友梨香もスフレをすくって口へ運ぶ。
 ラズベリーとチョコレートの豊かな甘さも、友梨香にはほろ苦く感じた。
 
 六道は再び食堂から姿を消し、後には友梨香と明香だけが残された。
「ないわー」
 万感を込めて友梨香はため息をついた。
「何あれ」
「まあ、そういう方ですから」
 明香は慣れているといったふうに小さく肩をすくめただけだった。
「先生、よくキレないわね」
「六道さんの一挙手一投足が私の懐に入るお金になると思えば、大抵のことは流せますね」
「凄いメンタルだわ。もし自分の旦那がそうだったら灰皿で殴るかも知れない」
「ある意味では、彼の態度は甘えの一つとも言えます。ですから、当面は楽しくお仕事をさせていただきますよ」
「先生がそう思ってるならそれでいいけど……。でも、やっぱり今の関係はもったいないと思うなあ。おじさまも、もっとこう、押しが弱いというか、煮え切らないというか。先生に対する気持ちとか、どう思ってるとか、そういうのって出さないといけないもんじゃないの? 脈がないならそういう態度をちゃんと取るとか」 
「六道さんは興味深い方ではありますが、私とは住む世界が違うというのも事実です。これから先どうなるかは『時の過ぎゆくままに』ですよ」
 明香は口元に謎めいた笑みを浮かべ、少女にそう答えた。