shadow Line

黄金の環

 時は巡る。
  世界は、人間の思惑とは無関係だ。もし、この世に神などというものが存在するのだとすれば、それは偉大ではあるのかもしれないが人間のことなど気にも止めない存在だろう。
  世界を管理するのに、いちいち個々の人間などに関わっている暇など無い。
  願いが叶う、叶わないのは只の結果にすぎず、偶然であることを認めたくないが故に、神なるものをあてにする。
  今日誰かが生きること、また死ぬこと、出会うこと、移ろうことが、遙かな未来において大きな意味を持つのかも知れない。また、持たないかも知れない。今日の善意が、明日の、いや数年先の不幸を招くかも知れない。良かれと思った道が破滅を招き、他者をあるいは己自身を滅ぼす。諺にもあるではないか。地獄への道は善意の敷石で出来ている、と。
  其処に神の意志を感じ取る者がいるのだとすれば、それはとんだ楽天主義か、あるいは虚無主義の賜物だろう。
  少なくとも私は神などというものに出会ったことはない。
  この世は巨大な機構であるということ、それだけが私の信じるものだ。
  だが、それは何かにすがる、信仰する、という意味ではない。仕組みを知っているというだけだ。
  今日の雨が、地球の裏で干ばつを起こす。対岸の波が砂を削り取るとき、陸地は少し減る。太陽の恵みは必要だが、晴れの日ばかりでは作物は育たない。子供が無邪気に蝉を捕る傍らで、蜘蛛が一匹飢えて死ぬ。
  世界はそういう仕組みで出来ている。幸や不幸ではない。何者も、何かに影響を及ぼさずにいることなど出来ない。
  だからこそ、かつて、そう遠い遠い過去には、それらをどうにか出来る、と思いこんでいたこともある。思い込まされていた、と言うべきかもしれない。だがそれを吹き込んだ本人はもう存在しない。
  判ったのは一つだけ、この世の全てはどうにもならないことの集合体にすぎない、と言うことだ。
  科学が進んでも明日の天気は正確ではないし、人がこれだけいるにもかかわらず、そのほとんどの構成要素は謎そのものだ。人がなぜ生まれ、どこから来て、何処へ行くのか、その答えさえ見いだせてはいない。
  判ったふりをする必要などどこにもない。知れば知るほど、自らの無知を悟る。それぐらいなものだろう。全てを知っている、などというのはまさしく神その人だけに違いないが、あるいは神でさえ機構の一部にすぎないのかもしれない。言い換えれば、その仕組みこそが神なる者であり、複雑な法則と偶然の擬人化こそが神である、ということだ。
  だが、神ならぬ我が身にも、たった一つ判っていることがある。
  私自身は何ものをも手に入れたことがない、ということだ。
  時は巡る。が、ただ過ぎていくだけだ。
  古い歌に「時の過ぎゆくままに」というのがあったが、さりとて待つ者のない身としては、ただひたすらに過ぎていくだけだ。
  其処には未来などという洒落たものなどありはしない。
  日が昇り、落ちる。夜が来て、朝が来る。昨日と今日は違う物なのかも知れないが、違いが判らなければ全て一緒だ。
  変わることのないものは、存在しないのに等しい。
  同じであることに何の意味がある?
  それは死と同じだ。
  仮に昨日と違う明日が来たとして、それに何の意味がある?
  意味は全て失われたのだ。
  私はこの屋敷で朽ち果てる運命だ。それはもうどうしようもないことだ。そしてどうにかする気もない。時の果てが来るまで。
  積み上げられる紙の中で、虚構と欺瞞と人の業がただ書き連ねられた紙の束の中で埋もれ死ぬ、と言うのも悪くない話だ。
  人と人を繋ぎ、数多の権力闘争に介入し続けたこの家の歴史も、私の代でついに終わりを告げるだろう。そのことについては何の感慨もない。手放せる物は手放し、渡せる物は全て渡した。ただ一つ、恭也の遺産を残して。
  それは、恭也が生前集めた膨大な量の資料だった。
  銀行の貸金庫に納められていたそれは、複製された裏帳簿、密約書、おそらくはマネーロンダリング済みの有価証券、海外の法人として登録されている複数名義の口座、そういったものだ。
  足のつかない金と、多くの人間を強請れるほどの証拠物件。何を意味するか考えるまでもない写真の類も混ざっている。この世の汚泥、まさにそのものだ。
  これで恭也が何をするつもりだったのか、考える必要はなかった。
  理想のためには手を汚すことも厭わない、そう言う男だ。これはその情念が残した負の結晶と言うところだろう。
  そのために恭也は死に、世界は変わることがなかった。いや、ひょっとしたら変えることは出来なかったかも知れない。こうなるのが定めだったのかも知れない。私の手元にあるのは、そういうものだ。暗い夢の断片だ。
  叶わぬ夢の欠片。ともに滅びるのも一興だろう。かつては、いやつい先日まで私はこれと同じようなことに荷担していたのだ。バランスを保つよう努力していた、などというのは唯の言い訳に過ぎない。自分の伝えたことが何をもたらすのか、私は知っていたのだ。これこそ汚れた血筋の為せる業だ。
  あるいは、これが由梨香の手に渡る可能性もあっただろう。そこには恭也自身を劫火へ陥れた人間どもの名前もある。この遺産を辿れば、あの男達にも行き着いただろう。そして奴らをどうするか、その生殺与奪を握るものがここには幾つもある。どうやっても、どのような方法でも、奴らを滅ぼせる。
  が、それはもう終わった出来事だ。とある愚かな男が仇討ち紛れに「同じような死に方をさせた」。遺産が由梨香の手に渡っていたならば、彼らには違った未来、いや結末が与えられていただろう。
  しかし明香は私がこれを使わないだろう、と確信して託した。それは正しいことだ。なぜならば、私にはもはや未来へと邁進する力も、破滅へと突き進む力も残されていないのだ。
  これを必要とする時が来るとも思えない。
  恭也の遺産は今や私の書斎の一介に埋もれる紙片に過ぎない。戯れに中身を見ることもあるが、興味を引くべき物はなかった。
  それを知ってどうする。それを知って何をする。
  何も出来はしない。目的がない。行動のために生きることも出来ない。生きることには、何らかの目標が必要だ。その日一日を過ごすため、それでもいい。しかし私にはそれさえ無い。今日、ここで命が尽きても失うものがない。
  時間はただ過ぎていく。
  朝だと思ったがもう昼で、多分そのうち夜になるだろう。暑いと思ったら涼しくなり、いずれは寒くなる。言葉で飾り立てる必要さえなかった。
  私にとって、四季とはその程度の変化に過ぎなかった。
  無意味だった。今までも、これからも。
  
  その日も、何事もなくただ過ぎていくだけだった。
  そのはずだった。
  だが、何をするわけでもなく漫然と過ごしていた午後に珍しく来客があった。
  呼び鈴が延々と私を呼び続ける。
  椅子から立ち上がり、書斎から出る。身体が軋んでいるような気がするが、それを確認するのも億劫だった。
  来客など久しく無かった。一体誰だ。
  玄関を開けた私の目の前には、会いたくもない男の顔があった。
「西遠寺か」
「西遠寺だ」
  悪趣味なオーデコロンの匂いをまとわりつかせながら、その男は立っていた。
  しばらく声すら聞いていなかったが、別に懐かしいという気もない。
  ストライプの入ったダブルのスーツも悪趣味極まりないし、後ろになでつけた髪もそれを助長している。さらには、人の良さそうな笑みを浮かべているのが気に入らなかった。
「何の用だ」
「別に用はない。暇が出来たから立ち寄ったまでだ」
「そうか。では、帰れ」
「客に茶でも入れようと言う気はないのか」
「無い」
  私がドアを閉めようとする前に、西遠寺は体を割り込ませていた。
「まあ茶なら自分でも入れられるからな」
  自分から他人の家に入り込む人間は、客とは言えまい。
  つまみ出さなかったのは、単にその気力もなかったからだ。次からは、玄関の戸口にカメラを設置して来客の顔が見えるようにした方が良さそうだ。無駄な労力が省ける。
  今の私には、西遠寺と言い争うのさえ億劫だった。
  西遠寺はと言えば、部屋のあちこちをのぞき込んでは頭を振っている。
「これは凄い。まるで廃墟だな」
「だからどうした。ここ住んでいるのは死人ばかりだ。何の問題もない」
「お化け屋敷として解放したらどうだ」
  意外と繁盛するかもしれんぞ、と西遠寺は付け加えた。
「余計なお世話だ」
  西遠寺はあちこちに指を走らせては、その先に付いた埃の量を見て顔をしかめた。
「なるほどな。明香がどれほど優れたメイドだったかよくわかったよ」
「そうか」
「こんな生活をしているといつか死ぬぞ」
「別に私がどうなろうと貴様の知ったことではない」
  そもそも、私の心配などしていないのだ、この男は。誰に対してもそのように振る舞う。親切に似た社交辞令。この男の本質は、もっと深い部分で冷酷だ。騙されてはならない。
「相変わらず可愛くないやつだ」
「用がないなら帰れ」
「ふふん。頼まれて様子を見に来たが、なるほど聞きしに勝る状態だな」
「頼まれた?誰に?」
「それはいえないな。じきにわかると思うが」
  由梨香か。
「なるほどなるほど。これでは茶も出せんな」
「判ったなら帰れ」
  いらだちが増してくる。
  語尾に険悪な雰囲気が含まれていくのが自分でも判る。
「二言目にはそれか。もっと違う言い回しはないのか」
  だが、西遠寺の返答はいたって飄々としている。
「なぜいちいち言葉を選ぶ必要がある? 私の要望は簡潔明瞭、お前に早く帰って欲しいと言うことだけだ」
「どうせやることもないくせに」
「それとこれとは関係ない。私は私の心の平穏のためにお前にいなくなって欲しいだけだ」
「平穏など墓に入ってからでも十分だ。その年で楽隠居など健全とはいえんな」
「いいから帰れ」
「気が向いたら、な」
  居座る気か。
「とはいえ、お前の暮らしぶりは部屋の様子を見るだけで十分だな」
「判ったなら帰れ」
「まだ二部屋しか見ていないからな。他にも見て行かねば」
  私はいい加減に言い合いをするのも疲れてきていた。
「好きにしろ」
  帰らないのであれば、私は私の城に立てこもるまで。
  自分の領地で、持久戦をしなければならないのは皮肉な話だが。
  私は後ろで呼び止める西遠寺の声も無視し、書斎に入ると鍵をかけた。
  机の引き出しを開けると耳栓を取り出して耳に詰める。
  カーテンを閉めて、光を遮る。
  書斎は偽りの闇夜へと変わり、私はスタンドの明かりで読みかけの本を手にした。
  
  いつしか、本当の夜がやってきていたようだった。
  カーテンの向こう側も闇だ。
  耳栓を使うまでもなく全ては沈黙に包まれている。
  屋敷の中も暗黒に包まれていた。
  一部を除いて。
  食堂へと降りていくと、西遠寺は性懲りもなくそこに存在していた。
  ワインの瓶が三本。うち二本は空になっているらしい。
  何処からそんな物を出してきたのかと言えば、もちろん地下のワインセラーからだろう。
  無論、そんなことを許した覚えはない。
「勝手に酒盛りなどするな」
「好きにしろと言ったのはお前だぞ。それにしてもお前がビンテージワインのコレクターだとは知らなかった」
「それは前から家にあるもので私が集めたものではない。勝手に飲むな」
  そもそもコレクションと言うほどの量はなく、うち三分の一はたったいまこの男が消費した所だった。
「誰も飲まないなら、味のわかる人間が飲む方がワインだって幸せに決まっている。それにしても酒の肴がないのは残念だ」
「冷蔵庫の埃でも舐めていろ」
「斬新な提案だが、シュタインベルガーには合いそうもないな」
  地下室には南京錠を3つほど付ける必要があるのかも知れない。
「こんな男の下で働いていたとは、明香も可哀想だな。こんな事ならもっとしっかり引き留めておけば良かった」
「お前と明香はどういう関係だ」
「夫婦だ」
「なに?」
「そんなに驚くな。冗談だ」
  西遠寺は意味ありげな笑いを浮かべて続ける。
  考えるまでもなく西遠寺は妻帯者だ。よって、明香と夫婦であると言うことはあり得ない。重婚でもしない限り。
  ほんの僅か、考えるまでもなく判る事実だったが、西遠寺の台詞に惑わされたのだ。
  私が西遠寺家に出向くことがない、と知った上でそんなことを言ったのだ。
  煮え立つような感覚が身体を支配したが、静かに息を吐いて気を静める。
「私と明香の関係は、お前と同じ、雇う者と雇われる者の関係だよ」
「それが以前言っていた、西遠寺家の庇護を受ける理由か」
  青筋を立てて怒りを露わにしても、この男は内心で喜ぶだけだろう。そういうことをして楽しむ、子供のような奴なのだ。
  それよりは西遠寺に話をさせたほうが良い、と私は思った。
「家で雇って金を払い、少々の教育を付けてやることが庇護、と言うのならまさしくそうだな。元々は恭也がどこかで見つけてきた家政婦さ。都合4年ほどいたか。あのころはまだあどけない少女、という感じだったな。しかし、引き留めようと思ったら逃げられた」
「助平心を出すからだ」
「あのときは本気だったのさ」西遠寺は額に眉を寄せる。「しかし恭也も死んで、西遠寺家がドタバタしていた時期だったからな。行き先を探すのに人を使うわけにもいかなかった。5年近くたって見つけたと思ったらまた居なくなったが」
「契約が切れたからな」
「何故引き留めなかった。あんな働き者、そうはいないぞ」
「出ていったのは本人の意志だ」
「なるほど。お前がそういう男だったと言うことを忘れていたよ」
  その話が何処まで本当かはわからない。実際、そのころにはもう妻子がいたはずだ。わざわざ女中に手を出して火種を作るほど酔狂だとも思えない。
  私が、西遠寺家にいた頃の明香を知らなかったのは、恭也の妻である紗耶香が死んで西遠寺家に寄りつかなくなったせいだろう。元々、私が西遠寺家に足を運んでいたのは彼女のたっての願い、と言うよりは執拗な要求のせいだ。
  彼女は悪性腫瘍があちこちに転移し、見る見るうちにやせ細って死んだ。あまり苦しまず、長引かずに死んだのは幸運といえなくもないだろう。
  だがそんなことは関係した人間にとっては慰めにはならない。まだ幼い少女を抱え、西遠寺家の中は誰も信用できないとあれば、当然外部から信用できそうな人間を連れてくるだろう。私の想像に過ぎないが、そのうちの、たぶん複数の人間のうちの一人が明香だったのだ。そしてあの頃から私は自分の屋敷を離れなくなった。時期としては符合する。
  西遠寺はそれ以上明香のことを口にはしなかった。
  ただ、瓶の中身を減らしていくばかりだ。
「飲むな」
「ワインは生き物なのさ」グラスの中のワインを弄ぶように揺らして西遠寺は気取る。「コルクを抜いた瞬間から死んでいく。ここに詰まっているのは、凝縮された過去の時間だ。開けたら最後、全て飲み干すのが過ぎていく時への礼儀というものだよ、六道君」
「そんなことは知らん。作った年代のことなどどうでもいい。問題は、お前が勝手に飲んでいる、と言うその事実だ」
「それに対する返答は、詰まるところお前が好きにしろと言ったからそうしているだけさ。
シュタインベルガーのビンテージはなかなかお目にかかれないが、こいつは酸味が出かけているからな。今をおいて他に飲む機会はない。そしてたまたま此処にその価値を知る人間が居た。出会いというものはそういうものさ、六道」
「知るか。少なくともお前に飲ませるのには過ぎた代物だと言うことぐらいは判っている」
「そんなに大事な物なら鍵をかけておけばいいものを」
「鍵などかけるものか。これからは鉄球の落ちる罠でも仕掛けてやる」
「いいね。探検の後の一杯は楽しそうだ」
  駄目だ、これは。
  話にならない。
  西遠寺は顔を赤くして、食堂の椅子でくつろいでいる。
「さて今夜は泊まっていくか」
「帰れ」
「おいおい。私は酔っているんだぞ? 飲酒運転させる気か」
「そのまま谷にでも落ちてくれればなお良い」
「せめて送っていって欲しいものだがなぁ」
  車を呼べと言うのか。
  だが、普通のタクシーなど呼んでやる気はなかった。
「パトカーと霊柩車、どちらがいい」
「霊柩車を頼もうか。一度乗ってみたかったんだ」
「よかろう。そのまま火葬場へ送り届けてやる」
「お前が言うとジョークに聞こえないあたりが凄いな」
「私はいつも本気だ」
「こいつは凄い殺し文句だ」西遠寺は足を組むと横柄に椅子へ座り直した。「では、その楽しそうな乗り物を待たせて貰おうかな」

 結局、ペースは西遠寺の物だった。
  言い出した以上、本当に呼ばねば私の面子に係わる。
  霊柩車を単独で呼べるはずもないが、私が頼むなら話は別だ。
  時間にして20分ほどで、洋型の霊柩車が門の前に横付けされた。
「来たな」 西遠寺は意外にしっかりした足取りで玄関から出ていくと、霊柩車の後部扉を開けた。
「おっ。床は大理石か。気が利いているな」
  困惑した顔のドライバーへ財布を放り投げ、西遠寺は陽気に霊柩車へ乗り込んだ。
「火葬場へ寄ってくれ。ちょっと暖まっていきたいんだ」
  自分で後部扉を閉めながら、西遠寺は付け足した。
「ああ、向こうに着いたら消防車も呼んでくれよ。火葬場からはそれで帰る」
  ドライバーの男はさらに困った顔になる。
「連れて行ってやってくれ」
「はあ」
  気のない返事で男は運転席へ乗り込む。
  夜中に呼び出されて、金持ちの道楽に付き合わされるのだ。気持ちはわかる。
  判るが、西遠寺の西遠寺への嫌がらせはそれより優先される事項だ。
  律儀に弔鐘代わりのクラクションを鳴らし、霊柩車の黒はやがてとけ込むようにして消えていった。

 日々は巡る。
  変わらぬ日々。朝が来て、夜が来る。変化はない。熱いか寒いか、温度湿度、雨が降るか降らないか、その程度の差。
  事業から手を引くまでは頻繁に掛かってきていた電話も、この頃はほとんど鳴らない。注文は予定通り新しい依頼先へ移行しているのだろう。
  私を消しに来る人間が居るのかと思ったが、そう言う動きもなかった。
  自分で思っているほど、私は重要な人間ではなかったと言うことだ。全てを捨ててから判った真実の一つだろう。
  野心もなく、他人に危機感を持たせるほどの存在ですらない。それは、私がつまらない人間である証であり、それは私が思っている通りの答えだった。その点については満足すべきだろう。私は、自分自身で自分が無価値であることを証明できたのだ。
「ぶはぁーっ」
  ほっかむりをした少女が、顔をしかめながら部屋から出てきた。
  普段着ではなく高校のジャージに身を包んでいるが、学年を表すであろうエンジ色は、所々灰色の埃でデコレーションされている。
  手にしたはたきも、積もりに積もった埃や蜘蛛の巣が奇妙なオブジェのように張り付いている。
「信じられないわ。一年でこんなになっちゃうなんて」
「無理するな。適当でいいぞ」
「そうはいかないわ。お金もらってるんだし」
  少女は、頭に巻いたバンダナをふりほどいてため息をついた。
  立場としては、私の姪になるのだろう。西遠寺 恭也の一人娘、伊月 由梨香。西遠寺の姓を名乗っていないのは、西遠寺家の「政治的配慮」と言うことだ。つまりは死んだ母親の姓を名乗らせることで、西遠寺家の遺産を受け取る権利はない、と言うことにしたいらしい。幼稚な牽制だが、こういうつまらないことをされるのはひとえに父親の恭也がいささか奔放すぎたためだろう。まして、恭也は妾腹の子だ。その娘となれば、立場は微妙になる。よって、正式に引き取ったわけではないが、恭也の遺言に従って経済的な意味でも後見人となっている。由梨香自身が成長すれば、違う手も打てるだろうし、当然西遠寺家に戻ることも出来るだろうが、どうやら本人にはその気はないらしい。
  それよりも、念願の高校生活を満喫する方がずっと有意義だと判断したのだろう。
  そんなわけで高校に入学するために金銭面での援助をしたせいか、由梨香は押しかけ女房よろしく学校が休みになるたびに私の屋敷にやってきて、掃除やら片づけやらをやっていく。そのうえ、昼食か、あるいは夕食を作ってから自転車で街まで降りて、家へと帰る。
  家、というのはもちろん自宅という意味ではない。由梨香が長年暮らしている施設だ。高校生になったからと言って小遣いを貰えるわけではないので、変わりに私が多すぎない程度の金額を与えている。掃除や家事はそのための口実だ。
  とは言っても、その上達はなかなかのもので、日頃から熱心に訓練しているか、誰かいい先生が付いているのだろう。来訪のたびに、欠点が少しずつ改善されている。
  今日は夕食を作ることにしたらしい。
  豚肉のブロックと大根を煮たシンプルな煮物に御飯。当初の予定だった味噌汁は、味噌が駄目になっていたために献立から消えた。浅漬けの予定もあったらしいが、やはり糠床が駄目になっているのでそれもなくなった。
  こんな事ならインスタント浅漬けの素でも買ってくれば良かった、とは由梨香の弁である。
  個人的にはなくても全然構わないし、インスタント味噌汁の素が実はたくさんあるのだが、由梨香には黙っておいた。あれを主食にしていることがばれると、面倒なことになりそうな予感がするのだ。
  少女の苦労に、わざわざそんなもので水を差すこともない。
  大根は芯があり、豚肉も脂をすくっていないせいでぎとぎとだったが、気にするほどではなかった。味は至極まともだったからだ。
「上達したな」
「でしょ?」
  由梨香が輝くような笑みを見せる。
「醤油一、みりん一、酒一でやると良いんだって。家でも結構好評だったのよ。練り辛子があればもっと良かったんだけど、この家には無かったから………今度買ってくるね」
  なるほど、味付けはやや甘めだが辛子があれば引き立つだろう。豚の角煮にも辛子を添えて出す店は良くある。
  ついでに言えば、豚のブロックを煮るときは軽く焼いてから煮ると形が崩れなくて良い、と言おうかと思ったが、明香の受け売りであるし、そんなことを言うのはただの蛇足だったので黙っておいた。
  ただ、胸焼けをしそうなので、後で何かしら薬を飲んだ方が良さそうなのは確かだ。
  こうして考えてみれば、私はひどく由梨香に遠慮しているような気がする。
  いや、実際遠慮している。
  それは何故か、と言われれば、由梨香は結局のところ客にしか過ぎない。客が作った食事に文句は言えない。
  そして、実のところ由梨香のやることと明香の仕事を比較している。無意識のうちに。それは良いことではない。それは発展に繋がることではなく、質の悪い懐古に過ぎない。過去は常に美化される。そして、それは、醜い。
  故に未だに明香のことを考える自分に嫌悪を抱く。
  そして、心の何処かでは、それを喚起する由梨香の存在を疎ましく思う自分がいる。
  だが、本当は知っているのだ。
  由梨香が疎ましいのではなく、そう転嫁することで、葛藤から逃げようとしているのだと。
  こうして食卓を囲み週末に由梨香を待つのは、私の贖罪であると同時に自己と向き合うために必要な過程なのだ。そうせねばならないのだ。
  何故なら、私に残されただ一つの役割を果たすためには。
  私は、己自身さえも押さえつけて由梨香の良き後見人を演じ続けねばならない。
  身につけた仮面が真実になるためには、自らの肉を削いで仮面をはめ込まなければならない。
  優しさを演出させるために、あらかじめ手を水に浸すように。
  警戒を解かせるための笑顔を鏡の前で練習するように。
  そう、かつて明香が皮肉を言ったように、良き足長おじさんであるために。
  誰かにとって、それが真実であるかどうかなどは問題ではない。問題なのは、相手がどう捉えるか。そして、それをどう表現できるか。それだけだ。
  この馬鹿げたホームドラマを続けなければならない。
  少なくとも、由梨香自身が自分の道で歩く道を見出すまで。
  その時こそ、私は本当の意味で屍になることが出来る。誰はばかることなく、滅びていくことが出来る。選択できる。つまりは、生きながらにして、全てを放棄できる。
  仮面はいつか、本当の顔になる日が来るかも知れない。
  いつか、人並みの平穏を手に入れることが出来るかも知れない。
  だが、仮面を仮面としている限りそれは手に入らない。ここにパラドックスがあり、ここに真実がある。つまり、人は己自身であることを捨てることは出来ない。どれほど多くの仮面を手にしようと、それは詰まるところただの仮面に過ぎない。仮面は、仮面であり、それは表現のためのシンボルにはなるが、本質そのものではない。それを誤解すると、其処には自己の喪失が待っている。
  最早何者にもなれなくなった人間は、死ぬことさえ出来ない。陳腐な言い方をすれば魂が失われるのだ。自らを定義することの出来なくなった者は、死さえ安息にはならないだろう。死もまた唯の仮面になってしまう。
  私が自らに望むのは滅びであり、消失であるが、それは己自身の望みでなくてはならない、果たすべき事を果たし、何もかもを放棄したのでなければ、それは贖罪にはならない。
  それは、捨てればいいのではない。全て、あらゆる事が私無しで為し遂げられることによってのみ、成就する。私は私自身が必要とされなくなることをただ望む。
  だが、約束は果たされなければならない。それだけが、私をこの世につなぎ止めている楔だ。
  日は過ぎていく。ただ過ぎていく。季節も重なり、少女は成長する。
  時は止まらない。流れる水を遮ることは出来ない。終わりは必ずやってくる。どんなことにも。永遠など無いからこそ、この世は素晴らしい。
  かつて恭也が望んだように、私もまた由梨香の成長を楽しみにしている。
  彼女が私のもとから離れたとき、私の手には一体何が残るのか?
  それは失われるのか、それとも回り続ける運命の環の、ほんの一部に過ぎないのか。
  自ら為すべき事を見いだせない人間は、ただ待つことしかできない。
  さしずめ、週末の由梨香の来訪は時の環に刻まれた赤い目印、と言ったところだ。
「おかわり、いる?」
「そうだな。あと少しだけ貰おうか」
  そしてこの茶番劇が終わると、また暗黒がやってくる。
  時は停滞する。運命は澱む。
  また、次の週末が来るまで。

 時は巡る。
  ほんの少しだけ、動きを変えて。
  それは、環ではなく、緩やかな螺旋なのだと、人はあるときに気が付く。同じなのではなく、ずれていくのだと。
  同じ日々は来ない。それは限りなく似た、違う座標の出来事。
「悔しいけどこれは私の手には負えないわ」
  そういったのは、秋ももう終わりになるころの、薄寒い日の夕方だった。
  音を上げた、というと聞こえが悪いが、よく頑張ったほうだとは思う。
  正直に言えば、由梨香には全然期待をしていなかった。それでも力の限り掃除をし、庭の雑草を引っこ抜き、まあ何とか味のする食事も作った。
  これ以上を望むのは酷というもので、もともとは由梨香にやる小遣いのための方便なのだから、ここまでやってもらう必要はなかった。適当に埃だけ払ってもらえれば後はどうなろうと私は大して困らないのだから。
  さらに言えば、私の生活圏は書斎と寝室の二つだけ、風呂はシャワーで済ませてしまうのでほとんど湯船につかることもなかったのだから、あの悪趣味な浴槽を磨いてもらう必要もなかった。
「ねぇ、おじ様。もう一人、助っ人を頼んでもいいかしら」
「助っ人?」
「うん。私の友達に、こういうことが得意な子がいるんだけど、多分頼めば手伝ってくれると思うの」
「別にそこまでしてもらういわれはない」
「おじ様だって若い子がたくさん来たら嬉しいでしょ?」
  嬉しいかどうかは時と場合による。
「あまり屋敷に他人を入れたくはないが、お前の推薦なら、まあ良かろう」
「うん、わかった。話しとく。頑張ってみてもさすがに、これを私一人でやるのはやっぱり無理みたいだし、私も部活始めたから週末の時間も取りにくくなって来ちゃったし」
「部活は入らないと言っていなかったか」
「そうなんだけど、なんか内申書とかに響くから形だけでもやっといたほうが良いって。面倒くさいけど、まあ将来のためだから仕方ないわよね」
  由梨香は照れ笑いをして付け加えた。
「ま、あれはあれで、やってみると面白いのよ」
「何の部活に入ったんだ」
「バレーボール」
  根拠は何もないが、背が伸びて良いかもしれない。
  母親に似れば、もう少し大人しかったのかも知れないが、西遠寺の血は濃い。
  この勝ち気な少女は、家の掃除よりも体を使って発散する物事の方が明らかに向いている。なんと言っても、彼女は恭也の娘なのだから。
「でね、毎週は来られないみたいだから、隔週とかでもいいかな?」
「来たいときに来ればいいさ」
「うーん。本当はね、ここから通いたいぐらいなのよ。おじさまの生活、思った以上に滅茶苦茶だし。危なっかしいのよね」
  それを言われると身も蓋もない。
「お前は、お前に出来ることをすればいい。その、友達とやらが来るのも無理にではなくていいんだぞ」
  由梨香は頭を振った。
「そういうわけにはいかないわ。今や私はおじさまの保護者なんだから」
「何を言っている」
「おじさまに必要なのは、バシッと決める人間よ。自堕落は人生の墓場だわ」
「それは手厳しいな」
「まあ見ててよ。おじさまに人並みの生活が出来るようにしてみせるんだから」
「さては西遠寺に何か吹き込まれたな」
「私が、吹き込んだのよ」
「この間の偵察もそれか」
  由梨香は西遠寺から遠ざけたほうが良いのかもしれない。
「なんのこと?」
「いや、いい。何でもない」
「とにかく、おじさまには絶対に監視する人間が必要だわ。例え週一回でも」
  何か話がおかしな事になってきた。
  屋敷の掃除をすることから、監視を付ける方向に話が進んでいる。
「とりあえず、おじさまのお眼鏡にかなう人間じゃなくちゃ駄目だろうから、来週の日曜日はこっちに来てね。面接するから」
「こら、勝手に決めるな」
「いいじゃない。おじさま引きこもりみたいなものなんだから、たまには外に出て空気吸わないとカビが生えるわよ」
「断っても駄目なんだろうな」
「逃げたら悦也おじさんに連れてこさせるわよ」
「わかった、わかった。来週だな」
「いい?これはおじさまのためなんだからね?」
「判っている」
  私の周りには、何故こんなにお節介ばかりが多いのだろうか。
  私はもはや苦笑するしかなかった。

  その週末はひたすらに由梨香に振り回されて終わった。
  面接とは名ばかりで、由梨香の友人とおぼしき女学生達と引き合わされ、よく判らない勢いで食事に連れて行かされ、私が話すまでもなく由梨香が彼女らと話し、別れた後で「あれは駄目だ」というのだった。
  私は殆ど何もしていなかった。
  市内に出てきて、食事を驕らされているだけだ。
  喫茶店、レストラン、ドーナツ屋、そういう場所を回りながら、由梨香は品定めをしているようだった。
  何を基準にしているのかは判らない。
  私本人が出向くのではなくて、財布だけ由梨香に渡せば話は済んだのではないか。
  そんな思いにすら囚われる。
「今ので全部か」
「だいたいね。やっぱり駄目ね、甘っちょろい環境で育ってきたお嬢育ちは」
  凄いことを言う。
「何が駄目なんだ」
「じゃあ、おじさまは誰が良かったの?」
  そういわれると誰も思い浮かばない。
  印象に残る人間がいない。
「誰でもいいんじゃなかったのか」
「誰でも言い訳無いじゃない。だいたい、驕ってくれるなんて理由でホイホイ来るような時点で駄目だわ。マナーもなってないし」
  意外と細かい。
  ついでに言えば、本人もさしてマナーは良くなかった気がするが。
「しょうがないわね。やっぱりおじさまの屋敷を任せられるような人間なんていないわ」
「お前がそういうのなら、仕方ないのだろう。掃除だけなら、業者を入れるという手もあるわけだからな」
「それじゃ駄目だって」 由梨香は、少し落胆した表情で呟いた。「それじゃ駄目なんだから」
「もうすぐ日も暮れる。送っていこう」
「うん」
  車に乗り込んだ由梨香は、どこか沈んだような表情だった。
「これで駄目なら、本当の本当に誰も居ないって事になるのよねぇ」
  由梨香はしみじみ言う。
「まだいるのか」
「ま、私の一番のお友達ってところかな。お婆ちゃんの所に日曜礼拝のお手伝いで来ているオルガンの先生なんだけど」
「その人は、他にも仕事があるんだろう」
「うん。だから、本当の本当に、最後の一人なの。出来ればそんな大変な話を持っていくのも悪い気がするんだけど、このまま行くとおじさま遠からず栄養失調で死にそうだし」
「死ぬものか」
「おじさま、鏡は見たほうが良いわよ? 間違いなく顔色悪くなっているもの」
「外に出ないからだろう」
「…………そう」
  そんな話をしているうちに、由梨香の済んでいる施設へと辿り着く。かつての、私の家。今は過去の一部でしかない。
  日は落ちかけ、霞んでいく陽の光が空を染め上げている。
  風は僅かにそよぐほど。
  門から先にみえる木造の古い教会は、風雨に耐えて痛んでいるとはいえ些かも風格を失ってはいない。信者達によってペンキは幾度となく塗り直され、細かい部分の補修もされてきている。
  かつては、自分と恭也もまたそこでの作業に従事したものだ。
  早くに父親を亡くし預けられた自分と、妾腹で遠ざけられた恭也にとって、ここだけが家と呼ぶに足るものだった。
  互いの道を進み、自らの足で歩くようになってからでさえ、心の支えであった時期があったことは否定できない事実だ。私に唯一郷愁と呼べるようなものがあるのだとすれば、それはこの教会を除いて他にはあるまい。
「たっだいまー」
  由梨香が手を大きく振りながら門をくぐる。
  私もまた、久しぶりに門をくぐった。
  夕日。それは教会の庭先までの細い小道も、淡いオレンジで照らしている。
  赤みがかった、金色の残照。
「おかえり、おねえちゃーん」
  子供達も手を振り返す。
  日曜日で、託児所代わりに子供を預けていく親もいる。
  しかし、彼らの何人かには親がいない。かつての自分たちと同じように。
「おみやげだよー!」
  由梨香が高々と掲げたドーナツの箱に、子供達が色めき立つ。
  歓声を上げて駆け寄ってくる者さえいる。
  その中に、私は見慣れぬ物を見た。
  全てが茜一色に染まっているなか、その中にあってなお、淡く輝く亜麻色の髪。
  子どもたちの環の中に、その女は、居た。
  子供の一人にドーナツの箱を渡し、由梨香は笑みを浮かべて振り向いた。
「ああ、彼女がオルガンの先生。すっごい料理が上手でね、掃除も得意なのよ。彼女なら、結構頑張ってくれると思うんだ」
  由梨香が自慢げに言う。
「雇い主としては面接する必要があるでしょ? 行って来てよ」
  どん、とやや乱暴に背中を突かれ、二三歩前に踏み出す。
  そうなると、自然に足が前に出た。
  歩調はどんどん速くなる。
  だが、ほんの短い距離。
  私は彼女の一歩手前で立ち止まった。
  女は何もせずにそこで立っていた。
「前任者が途中で仕事を投げ出していてな。住み込みで、屋敷の管理をしてくれる人間を捜している」
  口調が早くなる。
「給与休日は応相談、福利厚生社保完備。日払いも可。何なら手の空いている日だけ来てもらってもいい。交通費も支給する」
「魅力的なお話ですわね」
  その女は、口元にどこか謎めいた微笑を浮かべながら、淡い色の瞳で見つめ返してきた。
「住み込みでずっと、と言うわけにはいきませんが、週三日ほどでしたら」
「では契約成立、と言うことでいいかな」
「はい。喜んで」
  右手を差し出して、尋ねる。
「何処かで会ったことがあったかな?」
「さあ? 私のような女は、何処にでもおりますから」
  彼女の細い指が、しっかりと私の手を握った。
「私は六道」
「初めまして、六道さん。榊 明香と申します」

■終わり■