「今日はお出かけになられるのですか?」
「ああ。夕方までには戻る」
「今日は確か運転手は休日だと思いましたが……」
「私とて車の運転ぐらいできる」
「あら……残念」
「何がだ」
「運転できないのなら私がお送りしましょうと思ったのに」
「そんなことをしても別に手当ては出んぞ」
「………あなたの辞書には善意の二文字はないのですか?」
「甘いな。善意など策略のための布石に過ぎん」
「日頃の感謝特別記念セールで送迎サービスというのはどうです?」
「何故そんなについていきたがる」
「相手のことを良く知っておくことは高度なサービス提供に欠かせませんのよ」
「適当な言い訳だな」
「その目は疑っておいでですね?」
「お前に疑いを抱かない人間がどこにいる」
私はダークブルーのコートを羽織って玄関を出る。
風が刺すような冷気を運んでくる。
冬が近い。
それは当たり前のことではあるが、頭で理解することと肌で感じることには大きな差がある。
庭先の樹もすっかり葉が落ちて無残な姿をさらしている。
母神の不在。冬の訪れは春の女神が冥界に赴くから…………たしかギリシア神話だったか。
だが、全てを拒絶するかのような冷気と光景は私の嗜好に合う。
低いエンジン音が響く。
明香が車庫から車を出してきたようだ。
妙なところで手回しがいい。
私の眼前で停車させると、後部座席のドアが自動で開く。
私はそれを無視してぐるりと回り込み、助手席のドアを開けて座った。
「後ろでなくてよろしいのですか?」
「目的地もわからんでどこへ行くつもりだ」
「このまま二人でドライブというのも風情がありましてよ」
提案を無視し、ナビゲーションシステムを起動して目的地の道順を割り出す。本来ならばこんなものは必要ないのだが、運転手が明香である以上無駄にはならないはずだ。
「あら?」
ナビを覗き込んでいた明香が驚いたような声を出す。
「なんだ」
「ここ、教会ですわね。孤児院も兼ねた……」
「何故知っている」
「ふふ、どうしてでしょうね」
明香は適当に答えをはぐらかす。
どこからそんな情報を仕入れたのか。
ひょっとしたら、雇っている運転手から聞き出したのかもしれない。
「さて。それではシートベルトを閉めてくださいませ」
自身も目にかかった亜麻色の前髪をかきあげ、ヘアバンドで止める。
普段は決して見せることのない、深い光を湛えた瞳。整った顔だちと相まって、それは美術品のようにさえ見える。
ほんの僅かだけ、その目が細められる。
明香は慣れた手つきで車を発進させた。
明香の運転は、その性格通りの几帳面なものだった。
規定速度きっかりで走り、危うげなところはなにもない。もっとも、こういう仕事を長年続けているのであるならば、当然のことなのかもしれない。
「教会なんて、珍しいところに行かれるのですね」
「私が教会を訪ねてはいけないという法律はない」
「それはそうですけど……」
「それで十分だろう」
明香は何も答えない。
そのまま沈黙が通りすぎていく。
やがて木造の建物が見えてくる。
「ここで降ろせ。帰りは一人でいい」
「いいえ。ここでお待ちいたします」
固い口調の返答。
「好きにしろ」
本人が望むなら止めたりはしない。
私は門の前でドアを開けると車から出た。
木造建築の建物は、築30年のカトリック系教会ではあるが、そんなことはここに住むものにとってはどうでもいい問題だろう。
人が生きるために必要なものは、今日の雨風をしのぐことの出来る場所と明日の食事だけだ。少なくともこの場所には、その二つは完備されている。それと、人の言うところである愛も。
生きるために愛が必要ということはない。
だが、あって困るものでもないだろう。
ここで過ごした者が過去を幸福なものであると認識できるなら、出資者も運営するものも張り合いがあるというものだ。
それもささやかな虚栄にすぎないかもしれない。
扉を開ける。
外気との温度差から、内部の温暖な空気が流れ出す。
清潔な空気だ。
それは物理的なものではなく、感覚的に浄化された場の持つ空気。
寺や教会といったものはこういう空気を生み出す特殊な機構でも備わっているのだろうか。
大小様々な靴の並ぶ下駄箱の前でスリッパに履き替える。
土足で踏み入ってはいけない。
そういう気分にさせられる。
静かだ。
別館にある教室のほうへ皆移動しているせいだろう。
認定さえされていれば、どんな場所でも『義務教育』は達成されたことになる。
ここもそういう場所の一つだ。
無論、あらゆる教育が可能なわけではないので、ある程度の段階になれば必然的に近隣の学校へは編入される。
ここで教えられるのは読み書きと簡単な知識だけだ。
板張りの床が、時折軋んだ音をたてた。
ちょうど高度成長時代の建築か。そろそろあちこちの老朽化が目立つ時期だろう。
ただ、古い建物には独特の味がある。
決してきれいな建物ではない。壁には傷が目立ち、人の触れるところは汚れ、年月と風雨によって歪みが生じている。作られたのは私の住んでいる屋敷よりもずっと後だが、年代の持つ重みという点ではこちらのほうが上だ。家の熟成度は、住む人間の想いと人数に比例する。
家と美術品は古ければいいというものではない。
いちばん奥の部屋へ着く。
やはり木造の、大きく頑丈な扉。
だが見た目よりはるかに軽く、そして温かい扉だ。
軽くノックし、ノブをひねる。
机に向かっていた老女が、丸眼鏡を押し上げて私を見る。
年とともに深く刻まれた皺が形を変え、笑みを形作った。
「おなつかしゅうございます」
「シスターも元気そうで何よりだ」
「もっと近くへ寄ってお顔を見せて下さいまし」
立ち上がり、しっかりした足取りで私に歩み寄る。
この老シスターはここの院長だ。
歳が離れすぎているので友人というには些かの語弊があるが、付き合いは長い。
「時の立つことの、なんと早いこと……」
「そうだな。あいつが死んでからもう7年になる」
「貴方と恭也様はまるでご兄弟のように仲が良かったですものね……いま思っても残念でなりませんわ」
「だが死んだ人間には何もできん。赦すことも愛すこともな」
「まだ後悔なさっているのですか?恭也様がお亡くなりになったのは貴方のせいではありませんでしょうに」
「見殺しにしたのなら同じことだ」
罪は償うことが出来ても、決して消えはしない。償えば許されるわけでもない。
償いとは罪悪感の昇華方法の一つでしかない。償えたと思うのは自己満足でしかなく、冒した罪をあがなうことにはならない。
返済不可能な借金のようなものだ。
ただ、漠然として、多大な利子だけが残される。
金か、時間か、生命か。
償ったと思い、自惚れた者はいつか知ることになるのだ。その代償の重さを。
「由梨香に会って行かれたらどうですか?」
「いや……やめておこう」
「この間も会いたがっておりましたのに」
「真相を知ればそんな気もなくなるだろうさ。父親を裏切った男が、自分の養い親だと知ればな」
「あれは事故のようなものでしょう。情報の誤差、配置の遅れ、偶然が重なった結果でしかないのですよ?貴方はあの時点で最善を尽くした。それは誰もが認めていることではないですか」
「だが、恭也が苦境に陥っている事はだいぶ前から知っていた。手助けしようと思えばもっと早くから援助できた。それをギリギリまで遅らせた結果がこれだ」
「それは貴方が恭也様を信頼していたからではないですか?」
「信頼か……人にはそれを確認する術がない。私は時々思うのだ……恭也への介入は、遅れたのではなく、遅らせたのではないか、とね。私が恭也の輝くような生き方に、嫉妬を感じていなかったと言えばそれは嘘になる。私は友として恭也を信用し、信頼してきたつもりだが、同時に憎んでもいた。私はどんなに背を延ばしたとてゴミ溜めのゴミでしかないが、恭也はそこに咲く薔薇になれる男だった。私生児、という同じ肩書を持っているにもかかわらずな」
「それでも貴方は、恭也様の為に影になられた。光と影は相反しても別れることのないもの……先程恭也様を憎んでいたと仰られましたが、それ以上に貴方は恭也様を愛していらっしゃったのですよ」
「愛か……」
それは普遍的に耳にする言葉。
それは私にとって最も縁遠い言葉。
「親友の死に涙一つこぼさぬ男にそんなものがあるとは思えんがな」
「いいえ。みえずとも、心が泣いておりますわ」
「シスター。あなたはとてもいい人だとは思うが、少し人を過大に解釈する傾向があるな」
「あら?私はお二人を幼少のころよりずっと見てきましたから、大体のことはわかりますのよ」
この老女にはかなわない。
老獪、というやつか。こちらの手の内をすべて読んでいる、知っている、そういうタイプの人間だ。
事実、私のことをこの世で最もよく知る人間の一人なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。
……どこか明香に似ている。というより、明香がこの老シスターに似ている、か。
「まぁその話はもう止めておこう。そんな話をするためにここにきたのではないしな」
私は内ポケットにある封筒を机に置いた。
「いつもいつも、申し訳ないと思っていますわ」
「別に私が道楽でやっているだけだ。金は必要とする人間が使えばいい」
私は天井を見上げた。
台風のときに雨漏りした染み。そしてその側の落書き。
恭也と二人で机に乗り、肩車して私が書いたものだ。
何も変わってはいない。
ただ、月日がたっただけだ。
それでも。
「そろそろここも本格的に補修を行う必要があるな」
「いい加減古い建物ですからね……でも、まだまだ大丈夫だと思いますわよ?」
「小さい子供は何をするかわからんからな。万全を記しておいたほうがいい」
風に乗って、オルガンの音が響く。
荘厳で、麗美で、どこか物悲しい音色。
・・・・・・「主よ、人の望みの喜びよ」・・・・・・。
懐かしい曲だ。
「オルガンを弾ける子供がいるのか」
「え?……いえ、まだオルガンを弾く時間ではなかったと思いますが……」
「では誰が?」
「さぁ。それでも、曲を聞くかぎりなかなかの腕前ですね」
誰が弾いているのか大体予想が付いた。
……まったく。人の家に上がり込んで何をしているやら。
「ちょっと失礼する」
私は部屋を出ると講堂へと足を進めた。
興味をひかれたシスターも一緒についてくる。
曲を聞くかぎりではプロ並み、とまではいかないがアマチュアにしてはなかなかのものであるといえる。
ドアを開ける。
中央に据えつけられたオルガンを、明香が弾いていた。
亜麻色の髪が、腕の動きに合わせて波うつ。
「……明香。何をしている?」
呼び止められて、明香は演奏を止め振り向いた。
「見てのとおり、オルガンを弾いていましたが?」
「車のなかで待っているのではなかったか?」
「私が貴方から受けた命令は『好きにしろ』ですから、好きにさせていただいたまでです」
「お知り合いで?」
「私の雇っている使用人なんだが……勝手に入ってきたらしい」
「ここには私も少し興味がありましたので」
「だからといって不法侵入か」
「保護者同伴ですもの。問題はないと思いますが」
「誰が保護者だ」
横でシスターが笑う。
「ずいぶんと仲がよろしいのですね」
明香はシスターのほうへ向き直ると一礼する。
「少し覗いてみたらオルガンがあったのでつい……。失礼はお詫びいたします」
「いえいえ。なかなか素敵な演奏でしたよ。お暇なときには頼もうかしら」
「シスターがよろしければ、いつでも喜んで」
私はため息をついた。
「車へ戻れ。私ももう帰る」
「あら、お茶でもどうかと思っていましたのに」
シスターは引き留めるが、明香と一緒では居心地が悪い。
変に勘ぐられるのも面倒だ。
「いや・・・・それはまたの機会にしておこう」
「せっかくのお誘いを断ることもないと思いますが。せっかくの休日ですのに」
明香が口を挟む。
よくない流れだ。
「お連れの方もそうおっしゃられていますし、ねぇ?」
仕方ない。
「わかった。一杯だけ戴いて帰る」
私はあきらめに近い感情で承諾した。
性格的に似通った人間は、話も合うのだろう。
シスターと明香が話し出してから既に1時間は経つ。
とりとめのない話題、自分のこと、私のこと、よくも話題がつきないものだ。
私はといえば、逃げ出せないままに、紅茶を飲んでいるだけだ。
話に参加しようという気にはならない。
不意にドアが開いた。
「ただいまー」
栗毛色の髪の少女が顔を出す。
院長室に足を一歩踏み入れてから、その顔がめまぐるしく変わる。
はじめは来客があるにも関わらずに礼を失した失敗の表情、次に私を見つけた喜びの表情、そして最後の表情は・・・・・困惑だった。
だが、もう一歩踏み出すとそれは年頃の少女の顔になり、私に懐かしさと喜びの混じった顔を見せる。
「こんにちは、おじさま」
「元気だったか?」
「うん。おじさまも、元気そうでなにより」
両親を失うという辛い過去を持ったにもかかわらず、由梨香は明るく育っている。時折、見ているものが痛々しくなるほどに。
だが、その明るさは天性のものだ。それだけが私を安堵させる。
「ちゃんと勉強しているのか?来年から高校に行くのだろう?」
「ばっちり。一番上の高校は無理だけど、その下くらいなら合格圏だから」
「そうか。金の心配はいらんからな。自分の行きたいところへ行け」
「でも・・・・それじゃおじさまに悪いよ」
「どうしても嫌だというなら、おまえが大人になってから返せばいい。だが、そんな些細なことを気にして自分の可能性を狭めるのは賢い生き方じゃない」
「うん・・・・・」
「私はお前の親にはなれないが、援助くらいはできる。好きでやっていることだ、気に病むな」
罪悪感。
由梨香を励ますたび、手を差し伸べるたびにそれを感じる。
父親の死の原因が分かったら。
私の素性を知ったら。
由梨香はいったいどんな顔をするだろうか。
「・・・・・おじさま?」
「うん?」
由梨香が背を伸ばし、囁くように訪ねる。
「あの女の人、誰?」
私は苦笑した。
由梨香は明香の存在が気になっていたのだ。
常に一人で行動する私が、女を連れている。その差異が由梨香を混乱させているのだろう。父親的な偶像として私を見ているのだとすれば、ある種当然の反応なのかもしれない。
「一応、紹介しておこう。私の屋敷の管理をしている榊 明香だ」
「初めまして、お嬢様」
笑みを浮かべ会釈する。
「こんにちは、明香さん。伊月 由梨香と申します」
笑顔を形作ってはいるが、その奥にはかすかな敵意が見て取れる。思春期特有の反応だ。
この場は早く引き上げた方が良さそうだ。
「さて。由梨香にも会えたことだし、そろそろおいとまするとしよう」
私は立ち上がり、ハンガーのコートを羽織る。
「明香、車を頼む」
「かしこまりました」
キーを受け取ると、一礼して部屋を立ち去る。
「もっとゆっくりしていけばよろしいのに」
私としては十分に長居したつもりだ。
「これでもわりと忙しくてね。また暇が出来たらお邪魔させてもらうよ」
忙しくはない。ただ、この場に居づらいだけだ。
僅かばかりの後ろめたさとともに、扉をくぐる。
明香が車を門の前に寄せていた。
見送るシスターと由梨香に軽く頭を下げ、私は車に乗り込んだ。
「さしずめ・・・・足長おじさんといったところですね」
唐突に、明香が言った。
「皮肉のつもりか?」
「賞賛のつもりですが」
「そうは聞こえなかったな」
「申し訳ありません」
「別に気にはしていない。偽善といわれればその通りだ。ただの自己満足だからな」
「でも誰かが救われれば、偽善であろうとなかろうとかまわないと思います。結果よければ全てよし、とも言いますし」
明香らしい、楽観的な考えだ。
羨ましくもあるが。
「そう単純な問題でもないと思うがな」
「もっと気楽に生きた方がよろしいと思いますよ。難しく考えてもどうにもならないと言うことはありますから」
「性分だ。簡単には変えられん」
「私はそんなところがいいと思いますけれどね」
「無駄口を叩いていないでちゃんと前を見て運転しろ」
「このまま、屋敷へ向かってよろしいのですか?」
屋敷につくまでに、2時間。
このまま向かってもいいが、10時をすぎるな。
「腹が減った。どこかで食事する」
「お口に合うかわかりませんが、私の知っている店ならすぐ近くに」
「まかせる」
私は目を閉じた。
恭也が死んでからの7年のことを思う。
長い、7年間。
その間に人は育ち、老い、去っていく。
人が悲しみや絶望だけでは死なないことを思い知った7年。
父親の死を、まだ理解できなかった由梨香も、もう15になる。
・・・・らしくないな。
私も老いたのだろうか。
若さに未練はないが、過去を振り返るのは老いの証拠なのかもしれない。
にしても、まだそんな歳ではない・・・・か。
無性におかしくなった。
明香の言うように、私は物事を深く考えすぎる傾向があるな。
そんなとりとめのないことを思っていると、徐々に睡魔がおそってくる。
明香の運転ならば心配もなかろう。
私はそのまま眠りに身を委ねた。