shadow Line

紅玉の杯ー4

 六道という男の話は聞いたことがある。
一族三代に渡って築き上げた強力な人脈を持つ男。
政界、経済界に通じ、発言力は強大。
持つ力は余りに危険すぎて、誰も手を出さない。
誰も手が出せない。
その耳には全ての声が届く。
だから、権力者は六道を怖れる。
同時に、その力にあやかろうとする。
だが、この男には野心がない。
明香が六道について知っているのはそんなところだ。
もう一つ、加えるとすれば六道は彼女にとって面白い人間だ、ということだろう。
彼女が見てきた如何なるタイプの人間とも違う、亜種と言うよりは異種とも言うべきタイプだ。
権力者にありがちな傲慢さ、威圧、穏やかな言葉の中にある応酬、そういう資質を持たない。
自然体とも違う。
徹底的なまでの無快感症。喜ぶこと自体を罪悪と感じるまでの潔癖さ。
強いて言うなら彼にとってこの世の全てはどうでもいいことなのだ。ある一点を除いては。
自分がその禁忌に触れようとしているのは自覚している。
六道がそれに気付いたとき、彼は自分をどうするだろうか。
そう考えると恐ろしくもある。
殺されるだろうか。
死ぬのが恐ろしいわけではない。
いや、死ぬのは怖い。しかし、それはある程度覚悟したことでもある。仕方のないことなのだと。
死をも厭わぬほどに自分を覚悟させるものとは何だろうか。
明香は時にそれを考える。
結局のところ、自分も六道と同じなのかも知れない。
奈落の淵を綱渡りしているのだ。
少しでもバランスが崩れれば、何処までも落ちていく。六道と同じ。
自分の身は、六道がほんの少しでも気まぐれを起こせば壊れていく立場にある。
明香自身が意図せずともこの関係は壊れるだろう。
それは予定調和なのだ。
あらかじめ定められた結末。
とてつもない罪を犯そうとしているのかも知れない。
だが、どうにもならない。明香自身の力では。
それは六道を救う方法でもあるのだ。
救う。
そんな単語が出てくる自分が、無性に情けなく、滑稽に見える。
何が「救う」だ。
結局は他人に操られるまま、六道という男の過去に足を踏み入れ、その傷口に指をかけてこじ開けようとしていることに変わりないのだ。その傷をえぐり出し、触れられたくない物を引きずり出し、晒し、そのうえで「救う」などとどうして自分が言えようか。
もっと、この関係を甘受していたかった。
出来れば永遠に。
時よ止まれ。
そんな風に念じることもある。
無駄な行為。
そんな少女じみた空想に逃げることすら、現実は許さない。
何より、時間がない。
時効などという結果に終われば、彼女の築いてきた3年以上に及ぶ時間は何だったのか、ということになる。
名前もなく、地位もなく、何者でもなく生きてきた今までの時間を無為にすることは彼女の信じるものへの背信行為になる。
耐えろ。今少し、事が成就するまで。
そんな自分を紛らわせるのは一杯のアルコールだけだ。
酔いは感覚を麻痺させる。
身も、心の感覚も。
痛むこともなく、ただ時間が押し流してくれる。
楽でいられる。
壊れてしまえばいい、と思う。
そうすれば逃げられる。
この重圧から。罪悪感から。痛みから。
こんな時、神に祈っても何の救いも得られない。
ずいぶんと神というのは残酷なものだ。何のための祈りか。何のための救いか。
生きている人間を救え、奇跡を起こしてみろ。
怒りに似た感情が、明香を支配する。
それが六道の抱えるものと同じと気付いたとき、酔いは醒めてしまった。
結局、自分は生きていくしかないのだ。
未来は望む、望まないに関わらず勝手にやってくる。
自分の行こうとしているところは、神の手など届かぬ場所だ。
だから自分の足で歩いていくしかない。
たとえその足が、どんなに痛んだとしても。

その日の朝、明香はまだ起きない六道の朝食を用意してから屋敷を出た。
薄いブラウンのコートに身を包み、白い革の手袋を嵌める。まだ、寒さは厳しい。吐く息は雲を吐き出しているかのように見える。白い息が空気に溶けて消えていく様は、春の訪れなど微塵も感じさせない。
冬の並木道は細い枝ばかりが絡み合って気温以上の寒さを伝えてくるかのように見えた。
そんな木々も、目を凝らせば芽吹いて春の近いことを教えてくれる。まだ色も付いていない、薄茶色の小さな芽。樹が内に貯め、守ってきた命の片鱗。綻ぶように開いて、いずれはこの道を緑に染めることだろう。
冬はもう終わる。
なだらかな坂を下っていくと、ちょうど道路との接点でタクシーが止まっていた。
昨日のうちに連絡しておいたのだ。
ドアが開いた。
明香はタクシーに乗り込む。
行き先はもう告げてある。
やりとりもないままに、車は動き出した。
運転手と言葉を交わすことはほとんど無かった。
タクシー特有の奇妙な浮遊感で路面を滑っていく様は、自分がこの世成らざる所へ運ばれていくような錯覚を与える。しかし、それは本当に錯覚であり、現実の明香はタクシーに乗って街へ行くだけだ。
通りの一角でタクシーから降りる。
六道の視野は広い。
目的地までタクシーで行くことは、はばかられた。
もっとも、移動しなかったとしても、いずれはその耳に届くことになろうが。
手書きの地図を頼りに、歩く。
地図と言うにはあまりに大まかなのですこぶる見つけにくい。
それでも、一時間あまり探し回ってようやく目的の建物を見つける。
あまり綺麗とは言えない、小さなビル。
それでも、入り口だけはしっかりと掃き清められていて、確かに人がいることを示していた。
几帳面な人なのかしら。
そんなことを考える。
階段を昇ると、突き当たりには表札もないドアが一つだけある。
明香はドアを小さくノックした。
「柏原ですが」
そう名乗る。
もちろん偽名。しかし、それは相手も判っている。
ノブが回った。
「お待ちしておりました」
明香よりも身長の低い、初老の男が笑顔で頭を下げる。
一見して好々爺だが、何処か剣呑とした雰囲気を漂わせているあたり、堅気の人間ではないことを窺わせる。佐伯、という名前の男であることは知っていたが、この男が如何なる「実務」を担当しているのか明香は知らない。知ろうとも思わなかった。
応接間に通されると、まだパジャマのままで男がコーヒーを飲んでくつろいでいる。
どうやらここで寝泊まりしているらしい。
「やや、柏原さん、お早いですな」
こちらはまた佐伯と違った印象の男だ。ぼさぼさの頭に無精ひげ、よれよれでずた袋を着ているのではないかと錯覚するようなパジャマ、間違っても清潔さとはほど遠い。いかにもだらしなく、頼りなさげな印象を与える。笹本という名前だが、偽名なのは間違いない。
種類も立場も性格も違うが、六道に近いタイプの男だ。
自分のカードは絶対に見せないタイプの男。
「結城さんの紹介できたのですけれども」
「ああ、連絡は受けてるよ。まさかこんな別嬪さんが来るとは思わなかったがね」
「お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞」笹本は大仰に驚いてみせる。「毎日もっと鏡をよく見た方がいい。モデルでも十分に食っていける顔だ」
「残念だけど、演技に自信がないの」
「そうかい?そのわりにはスパイまがいのことをやっている」
「六道家にちょっとしたコネがあるだけよ。こちらこそ、六道に手を出してみたいなんていう酔狂な人間がいるとは思わなかったわ」
「うちらの業界じゃ、六道さんは一種の要塞みたいなもんでね。突き崩すことも忍び寄ることも出来ないわけ」
「目的を履き違えないで欲しいものね」
「もちろん。それはそれ、これはこれだ。六道さんのことは俺の単なる好奇心、うちらみたいな小物が手を出したら、火傷どころか灰も残らない。それでも、西遠寺と六道の二人がどうなるか、というのは野次馬の目にしても面白すぎる取り合わせなんでね」
「用件に入りましょう」明香は封筒を取り出し、テーブルに置く。「中身は読んだら、今この場で燃やすこと」
「証拠は残さない。こちらも一応プロだ」
「信用しているわ」
笹本は封のされた封筒の上端を、指でちぎりとる。
三つ折りにされた便箋を引きずり出し、ソファに深く腰掛けながら目を通した。
眠そうな顔が徐々に真顔になり、読み終える頃には驚きさえ含んだ表情になる。
「これをどうやって手に入れたかは聞かないことにするぜ」
「賢明だわ」
笹本はコーヒーを飲み、気を落ち着ける。
「こんな物、メモだけでも残して置いたら俺もあんたも命がないな」
「それなりの覚悟と利益があるから、お互いに危ない橋を渡れる。そうではなくて?」
「一つ聞いて良いかい、柏原さん」
「応えるかどうかは内容によるわ」
「なんだって、あんたみたいな堅気の人間が六道なんて言う大物にちょっかいを出すんだ?何か恨みでもあるのか?」
煙草の灰皿の上で、便箋が燃えていく。炎に照らされた笹本の顔が心なしか青ざめているように見えた。
まだ陽は高いのに。
「貴方、亡霊の存在を信じる?」
「亡霊?ああ、幽霊とかそういう類か?」
「そう。この世に未練を残した者達の意志。そういうものの存在を信じる?」
「そうだな……………」笹本は少し考える。「世の中にはそういうものがあるのかも知れねぇなぁ」
「それが答え。じゃ、後はよろしく」
笹本は合点がいかぬ、といった顔をしていたが明香がドアを閉めると天井を仰いで呟いた。
「食えねぇ女だなぁ」

 街を吹き抜ける風はまだ冷たい。
コート越しにも冷気が肌を刺す。明香は喫茶店に入り、少し休む事にした。寒さは、必要以上に体を消耗させる。革手袋の下の指もかじかんでいた。震えが止まらないのは、何も寒さのためとは限らないのだが。
コーヒーを頼み、ウインドウ越しに街を眺める。
通り過ぎる人々は様々だ。老若男女、うつむく者、胸を張る者、笑う者、あるいは感情を出さずに過ぎて行く者。どれもが明香とは何の関わりもなく、恐らくこれからも関わることの無いであろう人々。
あの若者が、明香の横で微笑むことはない。
あの老人の肩を、明香が支えることはない。
あの若い女と、明香が談笑することはない。
世界の大多数が驚くべき数の他人によって構成され、生涯において関わることなく過ぎていく。
人は誰しも異邦人で、人と人の出会いはゆえに旅人同士の邂逅に過ぎない。出会うも別れるも流れのまま。
自分と六道の関係も、流れの一つに過ぎない。
六道が如何に強大な権力の持ち主であっても、時と人の流れには逆らえまい。人の出会い、人の流れを支配し変えることが出来るのは神でも困難だ。だからこそ、人はそれを運命と呼ぶのだろう。
流れが交わらなければ、明香と六道が出会うことは決して無かったはずだ。それほどまでにお互いの生きる世界は違う。
ウェイトレスがテーブルにコーヒーを置く。
明香はそれを口に含み、暖色のライト下で体を温めた。喉から胃へと熱いコーヒーが滑り落ちていくと、熱が内から外へ拡散し、その過程で冷気と置き換わっていくのを感じる。
暖房も程々に効いているのが有り難い。
半分ほど飲み終えると、店内の暖かさも手伝って微睡んでくる。
椅子に深く腰掛けて、瞼を閉じた。
流石に寝るのはまずいと思うが、疲れと緊張の為かうとうととする。
心地よい。
意志は溶けて流れ、変わりに緩い暖かさが全身を流れていく。
抗うことも出来ず、抗う気もなく、しばしの休息に身を浸す。
ほんの少しだけ。
少しの間だけ。
頬を支えていた腕がテーブルからずり落ち、明香の意識は急速に現実へ戻された。
眠ってしまった。
ほんの一時。
胸ポケットから懐中時計を取り出し文字盤を覗き込む。
一時間、ずれている。
最初は見間違いかと思ったが、どうやら事実らしい。うとうとしているつもりで、一時間も眠っていたのだ。
コーヒーもすっかり冷めている。
何となく恥ずかしくなり、コーヒーを一気に含む。
自分でもびっくりするぐらいの音でそれを飲み下し、レシートを握りしめた。
カウンターで代金を払い、足早に店を出る。
まだ、買わなければならない物がいくつかあるというのに、陽はすっかり落ちている。
夕食に間に合わなかったらどうしよう。
僅かばかり、焦りを感じる。
いくら休みを貰っているからとはいえ、夕食の支度は何もしていない。献立を時間と秤に掛けながら思い浮かべる。
デパートの地下に、良い豆腐屋が入っていた。湯豆腐と、何か一品。手間の掛かるものはダメだ。かといって、魚を焼くだけというのはあまりに簡素すぎ。肉は脂が多すぎる。煮物は時間がない。生湯葉。それでは豆で二品になってしまう。野菜炒め。しかし湯豆腐とは合わない。鶏を酒蒸しして脂を落とす。
それがいい。
湯豆腐と、鶏の酒蒸し。それに、あり合わせでお吸い物。
考えながら、人混みをぬって歩く。
陽が落ちても人の流れは絶えない。太陽に変わり、ネオンが道を照らす。サーチライトのように。
人口の光の下でも、明香の亜麻色は輝く。光の下にあって欲しいと思うからこそ、自分の名には「明」の字が当てられているのかも知れない。
しかしこの色は目立つ。必要以上に輝く。
それが嫌で、黒に染めたこともある。後の染め直しが面倒なのですぐにやめてしまったが。
結局の所、髪の色などでは何も変わりはしない。染め直しても、そこには「新しく生まれ変わったような気のする自分」がいるだけであって、実際に生まれ変わったわけでも変わったわけでもない。
往来をかき分けてデパートの入り口で買い物かごをひっつかみ、食料品売り場のある地下を目指す。
大手のデパートとは言え、品はたかが知れている。
質の悪さは腕でまかなうしかない。
鶏肉を吟味した後豆腐を買い込み、他の物には目もくれずに出る。
眠り込んだりしなければ時間もあったろうし、服を見る余裕も生まれたろうが、それは次の休みまでお預けだ。
タクシーを呼び止めて屋敷までの道のりを大まかに教える。
相手も六道の屋敷のことは知っているようだった。
規定速度ギリギリの速度で飛ばしてくれたおかげで、思ったよりは早く明香は屋敷に付くことが出来た。

 タクシーに金を払うと、明香は急いで扉を開けた。
ガレージに車はないが、キッチンの明かりがついているということは、六道が居るということだろう。
腹を空かせて機嫌を悪くするような人間ではない。どちらかというと面倒なら一食二食は平気で抜いてしまうような人間だ。たぶん、昼も食べていないに違いない。
それでも「特に腹は空いていない」などという言葉で片づけてしまう。
だからそれでいい、と済ましてしまうのも問題だ。明香の仕事は六道を含め屋敷の管理をすることなのだから。
玄関をくぐると、憶えのある香りが鼻をつく。
朝には空だった花瓶に、ラベンダーの花束が生けられていた。
摘んだばかりなのか、普通に買う物よりも幾分香りが強い。しかし、庭にラベンダーなど無かったはずだ。それに今はラベンダーの季節に外れている。
留守中に何があったのかは判らないが、花一つで妙な違和感を感じる。
しかし、今はそれどころではない。
台所でくつろいでいる六道の前で明香は買い物袋を広げ、急いでエプロンを身につける。
「遅くなって申し訳ありません。すぐにお食事の用意を」
「構わん。適当に済ませる」
いつものように受け流す。もちろん、それが明香に対する彼なりの気遣いなのであろうが。
流し台の上にはカップが一つあるだけ。
つまり、昼食はまるで摂っていない。
予想通りではある。
インドあたりに行ったら断食の苦行が出来るのではないか。
そういう、宗教的なこととは全く無縁であるのは承知しているのだが、時々そのスタイルが何処か超然としているように思える。
ともかく、何か食べさせた方が良いに決まっている。
少し落ち着くと、だんだん色々なことに頭が回ってくるようになった。
ふと、明香は浮かんだ疑問を口に出す。
「そういえばお車がないようですが………」
「ああ。壊した」
何でもなさげにいう。
壊した。
平然と言ってのける六道に、明香は一応尋ねる。
「それでお体の方は」
「見ての通り問題ない。壊すのは、趣味だ」
もちろん、趣味でバラしたということではないだろう。事故にあったのだ。事故にあっておいて趣味だなどと言ってのけるあたり、あまりいいユーモアのセンスではない。
しかし、口調からすると人を轢いたのではないようだ。
「…………左様ですか」口を挟んでも仕方がない。交通事故は彼女の管轄外だ。「御自分を少しは大事にされた方がよろしいかと」
「私が死んでも困る人間は居ない」
「そんなことありませんわ。私が困りますもの」
「金の心配なら無用だ。何なら、次の勤め先を探しておいてやってもいい」
つまるところ、彼にとって人間関係は金銭以上のものではない、ということになる。
自分が誰かに必要とされている、という考えを持ったことなど無いに違いない。
「『やってもいい』ということは、まだ探してくれているわけではないのでしょう?」
「無論だ」
「となると、私にはまだ死んで貰っては困る、という結論になります」
「なるほど。筋は通っているな」
通っているのだろうか。
六道が立ち上がろうとするのを手で押しとどめる。
「お茶漬けでよろしいですか?」
「ああ」
手間を掛けずに即興で作れてかつ六道の好みに合うもの、といえばそれぐらいだ。
戸棚から塩昆布を出して盛りつけ、多めの緑茶を注ぐ。
豆腐も鶏肉も二、三日は持つ。別に無駄な買い物ではなかっただろう。
しかし、急ぐこともなかったわね。
予想はしていたが、少し落胆する。
買い物をしなければ気晴らしするぐらいの時間はあった。
こういう仕事をするならば、主人として選ぶのは多少わがままなぐらいがやりやすいのかも知れない。相手の要求を推察しながら動くのはなかなか労力を要する。
六道はテーブルに出された茶漬けを静かに食べている。
だらしなく、散らかすくせに食事の時に音を出さないなど細かいところは気にする。そこが面白い。
躾担当が食事マナーに厳しい人間だったのかも知れない。
「ところで玄関のラベンダーだが」
「帰ってきたときに気付きました。良い香りですね」
六道にしては珍しい趣味だ、と思う。
此処しばらくは明香も花を飾っていなかったので、それを寂しく思ったのだろうか。
しかし、返ってきたのは六道の意外そうな反応だった。
「お前が生けたのではないのか?」
「いいえ?」
「ふむ」
それきり黙ってしまう。
「なにか?」
「いや。大したことではない」
妙に引っかかるが、明香が気にしても仕方がない。
粒一つ残さず平らげられた茶碗を流し台に持っていき、洗う。
湯沸かし器の湯気が、霧のように立ちこめる。
暖かい。当たり前のことだが、それが心地よい。
蛇口の湯を弄ぶように指を絡めて、スポンジで食器の汚れを拭う。
春が近づくに連れて、夜は短くなる。
窓の外の闇は、まだ幾分明るい。
春は光の季節だ。
暖かくなれば厚着しなくても済むし、炊事の時の水も扱いやすくなる。
庭の芽吹くのを見られるし、周りが緑で包まれるのは嫌いではない。
花が咲くし、光量が増すので屋敷の中も明るくなる。
春が来ればやがて夏が来て、それから実りの秋になり、また冬になる。四季は繰り返し、瞬く間に移り変わり、また巡る。
人の運命と同じだ。
同じところに留まる人間など何処にもいない。流れの速さは違っても、やがて移ろいでいくことに変わりはない。
一通り片づけて一息つくと、六道が何か考え込むような表情で茶を飲んでいる。
「また、難しい顔をしてらっしゃいますね」
揶揄するように言うと、途端に表情が和らいだ。
「何故そんなことをいう」
「だって、眉間に皺が寄ってますもの。癖になりますわよ」
「眉間の皺がか?」
「いいえ、考え方も」
まぁ自分も人のことは言えないのだが、それは客観的な事実だ。
「性分だ。これをやめると私は自分のアイデンティティを失う」
「考え方を改めたぐらいで存在理由が無くなるなんてずいぶんとナイーヴですね」
「悪いか」
「可愛いな、と思いますが」
「男にとってそれは褒め言葉ではないな」
「それは失礼しました」手を休めて付け加える。「男にとってといいましたけど、「可愛い」という言葉が女にとっても褒め言葉になるとは限りませんよ」
「覚えておこう」
適当な相づち。
気持ちはこもっていない。無難な受け答えだ。
このまま話を続けても余りよい方向には流れていかないだろう。
話題を逸らす。
「玄関のラベンダー、戴いてもよろしいですか?」
「別にかまわんが、どうする気だ」
「ドライフラワーにしてから、エッセンシャルオイルと合わせてポプリにしてみたら面白いかなと思いまして」
ラベンダーの香りには、精神安定剤としての作用もある。
馴れないときつい匂いだが、明香はあの苦みのある香りが好きだった。
「ポプリなど買ってくれば済む問題だろう」
「あら『作る楽しみ』というものもありましてよ?」
「別に口出しする気はない。好きにしろ」
六道は解せない、というような顔で言う。
生産、という行為とはほど遠い仕事に携わっている人間だ。確かに物を作って楽しむ、という行為には理解できない部分があるのかも知れない。
「貴方も何か作ってみればいいと思いますけど。よろしければ何かお教えしましょうか?リリアンとかパッチワークキルトとか」
「無理なことを言うな」
「やってみると案外面白いですよ」
「面倒だ」
暇を潰すためにやるから楽しいのに、面倒だというのはどうだろうか。
「洒落た趣味のある人は女受けがいいっていいますけど」
「リリアンやパッチワークキルトの何処が洒落た趣味なんだ」
「洒落てませんか?」
「お前の感覚にはついていけん。編み物は女の趣味だろう」
勘に障る。
成る程、確かに編み物をする男というのは少ないだろうが、編み物は女だけのものではない。
加えて言うなれば、それは偏見だ。
楽しみでやるならば、何事にも男女の差など在るはずもない。
六道がそんな固定観念を持っているというのは、当然だという思いもあるが気分のいい問題ではない。
「『男のやることだから』『女のやることだから』というのは古い考えだと思います」
「すまんな。私は旧世代の人間なんだ」
六道は立ち上がり、いつもの倍の速さでドアへ向かう。
逃げ出す気だ。
「では、おやすみ」
「話はまだ……………」
ドアは一分の隙もなく閉められ、足早に廊下を歩く音だけが響いてくる。
別に腹を立てていたわけではない。
しかし、その逃げっぷりが傍目からはおかしく、明香の頬がゆるんだ。
これを幸福、と捉えて良いのかどうかは判らないが、満たされた気分になる。
日々のささやかな安らぎ。
脆く、蜻蛉の羽のように薄い安らぎ。
だからこそ、人は今この一瞬を大事にする。大事にしなければならない。時間は進むことはあっても、二度と戻らない。出来ることは懐かしむ事だけだ。
可愛らしいところがある、と明香はもう一度思う。
冷酷で、傲慢で、非情な男と噂される彼の、こんな一面を知っているのは自分だけなのだ。
堅い卵の殻、中身は柔らかで弾力のある白身。
湯飲みを洗うと明香はエプロンを外し、台所の明かりを消した。
明日の朝食の準備をしておく方が良いのだが、今夜はそんな気分になれない。
こんなに気分がいいときは、早く寝るに限る。
明香は明かりを全て消して、ゆっくりと寝室へ向かった。

 朝の目覚めは良かった。
カーテンの隙間から差す光は心地よく瞼を刺激し、自然の目覚ましとなって優しく起こしてくれる。
パジャマを脱いで手早く服を身につける。
出来ることならベッドに入ったままいたいぐらいの寒さだったが、朝食の仕込みをしていないので、何かしら準備しなければならない。
階段にさしかかる頃、階下で断続的に何か大きい音がするのを耳にする。
玄関が騒がしい。
ノックではない。もっと強い力で叩かれている。
あるいは殴りつけるような、そんな荒々しい音だ。
窓をぶち破ってこないということは、強盗とかそういう類ではないようだ。
早朝に響き渡る音は流石に六道の目も覚まさせたらしい。
「なんだ」
「外のお客様らしいのですが……………」
「ふむ。穏やかな話し合い、というわけではなさそうだな」
「いかがなさいます?」
「開けてやれ。外は寒いだろう」
そういう問題ではないと思うのだが、明香は扉の錠を外す。
男が三人、扉を蹴破ってきた。
危うく扉にぶつかるところだったが、前髪をかすめていくだけで済んだ。
乱暴な『客』だ。暴漢まがいのこの男達を客の範疇に含めても良いのなら。
「テメェが六道とかいうなめた野郎か」
スキンヘッドの男が六道を威圧する。
当の本人はといえば涼しい顔で、「なめているかどうかはともかく、私が六道だ」
金髪の男が、中心で沈黙を守る男に耳打ちする。
四肢から発する雰囲気、鋭い目つきが男の立場と人生を物語っているような気がした。抜き身の刃物を連想させるような男。斬りつける相手を選んだりはしないだろう。
早朝の来客にしては物々しすぎる。
セキュリティのスイッチを入れれば、警備の人間が来るのに20分はかからない。
明香が一歩退く。
変わりに一歩、六道が前に出る。
この場は任せろ、ということだろうか。
「立ち話も何だろう。来客を玄関に立たせておくのは私の流儀ではないのでな」
踵を返して応接間へと歩いていく。
男達もそれにつられるように後に続く。
奇妙な行進。
ひどく不吉な予感がするが、止まらない。
明香の力でこの状況を打破できるはずもない。
後はメイドらしく、接客とお茶汲みをするだけだ。
いつもは軋む扉が、何の音もせずに開かれる。
男達は応接間の椅子に、どかっと腰を下ろした。
六道も男達に相対する形で座る。
「佐川組の組長が、こんな朝早くから用件とは何だ?地上げの対象にはなっていないと思ったが」
「昨日、事故を起こしたな」
「それが?」
「あれはうちの身内だ」
「知っている」
佐川の目が微かな殺気を帯びた。
「今日はその示談に来た」
「なるほど」六道は頷き、明香に手で合図した。「お茶を出して差し上げろ」
「茶なんかいらねぇんだよ」
佐川が六道を睨む。
言葉尻の変化があからさまだ。交渉のやり方を変える、ということなのだろう。
「こっちの商売がどういうものか、というのは判っているよな?何より面子、というのが大事なんだよ」
「理解している」
「で、アンタはオレの面子を潰してくれたってわけだ。どう落とし前を付けてくれる?」
「治療費は当然こちらで持とう。慰謝料については弁護士と相談した上で本人と直接交渉する」
佐川の恫喝にも、六道はびくともしない。気負いも怯えも、怒りも嘲りもなく、ごく普通の口調で言葉を繋ぐ。
「俺は、アンタが潰した面子のことを言ってるんだよ」
反対に、佐川は熱くなるばかりだ。
それが対称的だった。
同じ場に立ち、明らかに有利なカードを持っているはずなのに、佐川の方が押されている。
交渉術、などというものではない。
ただ単に、明確な格の違い。
「あれはただの交通事故だ。そんなに息を巻くほどのことではないだろう」
「ただの交通事故?全速でフロント潰しておいてただの事故ってのか?」
「警察の調書はそうなっている。事実、そうだった」
「ふざけるな!」
「では、どうすれば気が済むのだね?」
「俺達が欲しいのは、「誠意」だ。判ってるか?誠意の意味が」
「なるほど、「誠意」か。では今後10年、お前達の商売を保証してやろう」
「保証?何でてめぇが俺達の保証をするんだ」
「明香、電話を」
ドスが六道の喉元に突きつけられる。
明香の手が咄嗟に止まる。
刃の銀光が、窓から漏れる朝日で鈍く光る。
時間がひどくゆっくり流れたような気がした。
僅か、数秒。
「サツを呼んでも、ここに来る前にテメェをバラして女を拉致るぐらいは出来るんだぜ」
「慌てるな」
その言葉が明香に向けられたのか、佐川に向けられたのかは判らない。
だが明香に出来ることと云えば命令通りに電話の子機を持ってくるぐらいだ。
明香は自分の膝が微かに震えているのを感じた。
しかしどうにも出来ない。
声も出なかった。
ただ、電話を差し出す。
指先一つ震えることなく、六道は落ち着いた動作で受話器を受け取る。喉元に差し出された刃物に動じることもなく。
登録されている電話番号の一つを選び、かける。
呼び出し音が数回。
「六道だ。…………今、佐川組の組長が遊びに来ているんだが」六道は受話器を手渡す。「お前にだ」
とりあえずドスを喉から離し、いぶかしげな顔で受話器を受け取る佐川。
受話器の声を聞き、顔色が変わる。
「は、はい、ええ、わかってます」
いやに低姿勢だ。
無言で受話器を返すと佐川は湯飲みに残った緑茶を一息にのみ、背を向けた。
「帰るぞ」
「え、でもこの野郎は」
「柴田の叔父貴の友人だそうだ。山岡の親分ともな」
「そ、それじゃ」
「帰るぞ」
「へい」
「『誠意』はこれで十分だったか?」
背後から投げつけられた六道の言葉に、佐川は複雑な表情をする。
「保証の意味はこういうことだ」
「帰るぞ」
佐川は三度言い、そして二度と振り向かなかった。

 ため息が漏れた。
それが六道のものか、明香のものか、二人とも判らなかった。
たぶん、二人同時だ。
椅子にもたれかかる六道の顔には、微かに疲労の色が見て取れる。
もっとも、当たり前といえばそれまでの話だが。
それにしても。
「暴力団を脅し返すなんて、ずいぶんと剛胆ですこと」
「皮肉を言うな」
「称賛のつもりですが」
「それが称賛なものか」
六道は呆れたように言い、生ぬるくなった湯飲みに手を付けた。
「ああいう手合いは扱いにくくて困る。私のような平和主義者にドスなど持ち出されても対応ができん」
明香がたまらず吹き出す。
「何がおかしい」
「暴力団と懇意の平和主義者なんて初めて見ました」
「懇意なわけではない。ただの知り合いだ」
「それだけでも十分だと思いますが」
「向こうが勝手に懐いてきているだけで、私は迷惑だ。どんな人間にも、友人を選ぶ権利はある」
「では、どんな友人をお望みで?」
六道の表情に昏い影が差す。
ほんの僅か、一瞬だけ。
言ってから、明香はそれがどれほどの失言であったかを後悔した。
「私に、友と呼べるような人間はいない。たぶん、これからもな」
「申し訳ありませんでした」
「何故謝る」
「そういう質問は、不適切だと思いましたので」
「別に気にしてはいない」
表ではそうだろう。
内心でも、そうは痛んでいないに違いない。
が、痛みを感じないことと傷つかないことは違う。
他人の傷の深さなど推し量れるはずもないが、それが意図するものでは無かったとしても一つの禁忌に触れたことは確かだ。それは明香自身も常々理解していたことだ。それでも、そういう言葉が口をつく。自分の浅はかさを呪いたくなる。放った言葉は、どんなに願っても取り消されることはないのに。
「そんな顔をするな」
六道が、穏やかな口調で言った。
そんな言葉を掛けられるような表情をしていた自分にも驚く。
一体どんな顔をしていたのだろう。
誤魔化すようにテーブルの上の食器に手を伸ばす。
トレイに載せ、手早くテーブルを片づけた。
一秒でも早くこの場から逃げ出したい気分だった。
実際、そうした。
早足で応接室を出ると、明香は一直線に台所へと歩いていった。

 気まずいまま一日が過ぎていく。
何もかもが上の空で、やることなすこといつもの倍はかかるように感じさえする。
六道は書斎から出てこない。
結局、その日明香が六道と顔を合わせることはなかった。
夕食の時を除いては。
明香の作った鶏の酒蒸しと湯豆腐という食事を終えると、六道はぶらりと席を立った。
やがてボトルを携えて戻ってくる。
甘い香りの白ワイン。
明香はそれを知っていた。
ほとんどただの冷蔵庫と化しているワインセラーのなかに、一本だけあった『エルデナー・プレラート』というドイツ産のワインだ。
六道ほどの資産家にとっては決して高いものではなかったが、普段から安酒を飲む彼としては比較的高価な物にはいる。
「何故これを?」
「たまには、ささやかに贅沢をしてみるのも良いとは思わないか?」
粋な計らい。
不意にそんなことを思ってしまう。
「そうですね」
勧められたグラスを躊躇うことなく受け取る。
口を付け、のどを潤す。
言うなれば、まさに甘露だった。このまま溺れてしまいたいと願うほどに、とろけそうな酔いと香りが体内を巡る。
「美味しい」
何とは無しにそう呟く。
それは心の底からそう思った、飾りのない賞賛だった。
もう一口、口に含んで香りを楽しむ。
心と体は一つなのだな、と思う。気分が優れなくても、身体は内に染みていくアルコールに反応し代謝を高める。アルコールの回りが早いような気もするが、頭のもやは晴れない。体だけが酔い、心は醒めている。それでも、脳に巡る血が、心を軽くしてくれる。酔いとはそういうものだ。
そして、この酔いは、明香が欲していたものだ。
「お互いに、一杯やりたい気分だったと思ったが、読みが当たったな」
「そういうところに気が付くあたり、貴方には執事の才能があるのかも知れないですね」
「他人に使われる気はない」
「そうですね。貴方はそういう人ですもの」
六道は答えず、ただグラスに口を付けるだけだ。
二人の間に、ただ時間が流れる。
不思議と、言葉が出ない。
妙な罪悪感が明香を支配する。
内情を吐露すれば、少しは楽になるだろう。
だが、それはワインの甘さと共に嚥下され、消えていった。
グラスを重ねるたびに、世界が曖昧になっていく。
熱い血とアルコールの霧。
疲労のためだろうか。いつもより、遙かにアルコールの回りが早い。
気が付くと、明香はベッドに横たわっていた。
六道が運んだのか、自分の足で歩いていったのか、全く憶えがない。
何を話したのかさえ、覚えていなかった。
サイドテーブルの懐中時計に手を伸ばす気にもなれず、そのまま布団をかぶってしまう。
まだ、窓の外は深い闇に閉ざされたままだった。
長い夜。
体が寒い。両腕で肩を抱き、布団の中で震える。
朝は来ない。
きっと来ない。
馬鹿げた妄想だとは感じていても、何故かそう思ってしまう。
震えが止まらない。
アルコールの禁断症状みたいだ。
違う。そんなものではない。
怯えている。何かに。
そして明香はそれが何か知っている。
終わりが近い。
六道の元に届く情報や人間から、自分の蒔いた種、その根が絡みついていることを感じる。
その蔓は、彼を絡みとるだろうか。それとも、彼を天に誘う豆の木になるだろうか。
どちらにしろ、何かもかがもうすぐ終わる。
下唇を噛む。
嗚咽は漏れてこなかったが、涙だけが頬を伝い落ちた。
枕に顔を押しつける。
込み上がる何かを堪えていくうちに、意識がゆっくりと溶けていくのを感じた。
それは眠りという心地よさに置換され、明香はそれを躊躇うことなく受け入れた。
酔いにも似た、逃避的な心地よさに。

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