トリイ・ヘイデンの本はいつも人間というものの在り方について考えさせられる。
人間は、どうすれば人間なのか?
という問いはいつも私の中にあるのだが、もちろん、この問いに答えはない。
この世界には、答えのでない問題の方が多いのだ。1+1ですら、2という保証はない。
自分が何者であるか、という問いもまた答えのでない問いの一つだ。
自分とは何か、を定義することは他人にしかできない。そして他人の見る自分は、いつも違った光景に見える。それはミラーボールのようなものなのかもしれないし、あるいは万華鏡のようなものなのかもしれない。
万華鏡の中身は、いつも同じものが入っているにも関わらず、覗くたびに違う形に見える。
外から見た自分というのはきっとそんなもので、構成している物が変わらないはずなのに、違った物に見えてしまう。本質と、外見は伴わない。
血液型占いや星座占いといった「形を伴った図式」はこの形のない不安から解き放ってはくれるが、その曖昧とした答えの中には原型こそあるかもしれないが、詳細はない。
よって、自分を定義することは何者も出来ないのである。
それでも自分を知りたいと思うなら、それはやはり他者との対話に因ってしか成し得ないものと私は考えているが、そこに至るための対話には互いを受け止めようと言う意志が存在していなければ成り立たない。
答えを出して貰う必要はない。
ただ、聞いてさえくれれば。
自分のあるがままを受け止めてもらえれば、それが「私」という影を映しだしてくれる鏡になる。
どんな精細なスケッチであっても、それは実物ではない。細かく正確に写し取ればそれは限りなく本物に近い質感を得るだろうが、絵に描いたリンゴはどんなに美味しそうでも食べることは出来ない。
だが、精細なスケッチは、外から見ればリンゴという名の事象を映し出す鏡にはなる。
話す、という行為にはそういうものがある、と私は考えている。
問いの中には、問うこと自体が答えであることも多い。
存在を受け止めて貰う必要はなく、ただあるがままの自分を誰かに知って欲しい、という行為はそれほど不可解なものではないと思うのだが、拒絶されたときのこと、嫌悪を催すことを考えてしまえば、やはりそこまで踏み込むのは容易なららざる事だ。
善悪、是非もなく他人の話を聞くことの出来る、少なくとも自分という人間に対してだけはそう接してくれる、そう願うことは不可能なのか?
突き詰めていけば、人生に秘密は必要か否か、というところにたどり着くと思うのだが、問題は、秘密は人に話した時点で果たして秘密足り得るのか?ということだろう。
どうしようもなく相手の口が軽ければそれは秘密にはならない。
他人を理解すること、他人に理解して貰うこと。
私とは何か、という問いはその過程で朧気ながら見えてくるのだろう、と私は思っている。
特にセラピーに関する問題は、こういう問いを強く思い出させるのだが、いつの日にかその答えが出ることはあるのだろうか。
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