ふとでかい事故があると「何もこういう人が死ななくてもなぁ」と考えてしまう。
別に何か目的があるわけでもなく、未来に希望もたいして持ってない私のような人間よりも生きているべき人間というのは間違いなく存在するはずだが、現実というものはそう上手くはいかないものである。
私は「神は無作為に悲喜劇を抽出する巨大なシステムである」という考え方を持っているのだが、しかし現実の理不尽さを払拭するには人間に都合の良い(たとえば善人は救われると言ったような)神様も必要だ。
理不尽に対して、人間の精神はあまりにも弱すぎる。
私の好きな漫画に「アフターゼロ」ISBN:4091842224というのがあるのだが、その一編に宗教的な対立を克服するために「神は存在しない」事を数学的に立証しようとする僧侶の話があるのだが、その結末が非常に素晴らしく今でも何度も読み返してしまう。
「希望は何のために存在するのか?」というのは翡翠の箱庭に於ける命題の一つである。
なんて事はどうでも良くて、読んだ人が面白ければ小説なんて物はどうでもいいのである。
技術とかそういうものよりも、まず面白いものを、という姿勢を貫いていきたい。
小説投稿サイトとかの技術関連の話題にはまったくついて行けないので、己の愚かっぷりを再確認して凹んだりするのだが、今日も元気です@魔女の宅急便。
スレッドをボーっと見ていると「なんか皆よく小説を「勉強」しているなぁ」と思ったりするのだが、そういう姿勢に微妙な違和感を感じつつ、論理思考が出来ないので何が違うのか論破出来ない当たりに悲哀が漂う。
まぁこういう物の作り方に正しい手順なんてものはなくて、みんな泣いたり転んだり凹まされたりしながら、それぞれの形を作っていくものなんだと思う。
これは仕事とかでもそう。
上流で角張った石が、下流では角が取れて滑らかになるように、人間もまた時間と流れによって磨かれていくのだ。
あーでもあれか。掲示板で議論する事も「時間と流れ」に該当するんだ。そうかそうか。
と納得してしまうともう何がなんだか。
つまり何が言いたいんだか自分でも判らなくなってきたぞ。
なにか真面目な事を書こうとするといつもこんな具合。
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