shadow Line

女難に遭う俺-3

 二日酔いなんてものになったのは大学生の時以来だが、それを二人に悟られるわけにはいかなかった。あんな少しの酒でこの様とは、ちょっと情けない。
 痛む頭を抱えながらスープと堅パンを用意し、サラダも簡単ながら作った。
 けれど、俺は食事を辞退した。二人の時間を作ってあげるためではなく、単に食欲がなかったのだ。
 気を引きたいミカさんと、煩わしそうに見えながらも会話に応じるエマさんの姿は何だかまぶしかった。俺がそこに入る隙はない。もとよりこの場所は俺の居場所ではない。それがわかっただけだ。
 俺は明らかに二人を避けていた。
 いつもの食事とお茶の時間は厳守したが、なるべく自分の仕事に没頭するようにしていた。蔵書の整理も出来るだけ進めなくてはならない。無駄な時間はなかった。
 文章となると相変わらずほとんど読めないが、単語単位でなら何とか判別できるものがある。手製の対照表さえあれば分類は出来た。同じ分野の本がほとんどなので、著者、理論、実践方法などで分けていく。内容は挿絵などで判別するしかなかったが、文字が多ければ理論、図案が多ければ実践、というように判断する。
 それでも、滞在中に片付けることは出来ないだろう。自分の仕事が果てしなく無駄に思えた。それでも手を止めることが出来ないのは、これが仕事だからだ。仕事のいいところは、没頭している限り他のことは考えなくていいことだ。
 自分でも何がそんなにモヤモヤしているのかはよくわからなかった。
 そのせいか、俺はエマさんが書庫の扉を開けたことにも気づかなかった。
「調子はどうだ?」
 いきなり話しかけられたので、慣れないペン先はとんでもない方へ線を走らせた。
「うわっ!」
「ああ、すまない。集中していたのか」
 エマさんが後ろから俺の書き損じを撫でる。指先に灯る光と呼応して、インクは吸い取られるように薄くなり、消えた。
 間近のエマさんは、何だか良い香りがした。心のざわつく匂いだった。
「何か用ですか?」
 俺は振り向きながら慎重に言った。どうしてそんな気分になっているかはわからず。
「実験をするので立ち会って欲しい。ちょっと中庭に降りてきてくれ」
「これが片付いたら、行きます」
 エマさんはうなずき、綺麗な動きで俺に背を向けた。
 俺は手元の紙に視線を落とした。
 インクの線は染み一つなく消えている。後は正しい文字を書き込めば分類用のラベルが出来る。だが俺は、しばらく時間をかけても一文字も書くことができなかった。

 中庭の中央には小さな魔法陣が書かれていた。魔法陣の中央には小さな金属の像が置かれている。何かの儀式だろうか。
 その両脇にはエマさんとミカさんの二人が話しながら立っている。なんだか足取りが重くなった気がした。
「お待たせしました」
「遅えよ」
 ミカさんの言葉を遮ってエマさんが一歩前に踏み出る。
「作業中にすまないな」
「何が始まるんです?」
「転移魔法の実験だ。術式のめどが立った」
 それは朗報だった。帰れる。この世界から。だが、俺はどこか人ごとのようにそれを聞いていた。
「解決すべき問題はまだあるが、まずは成果を見せておこうと思ってな」
 エマさんが魔法陣の方に歩み寄る。
 俺は一歩引き、エマさんとの距離をさらに取った。
 地面に描かれた魔法陣は、二重の円の内側に幾何学的な線が描かれており、回路図を思わせた。魔法陣を構成する線は、銀色の砂を細くこぼしたもので、不規則に明滅している。
 厳かにも聞こえる魔法の詠唱とともに、エマさんの全身に光のラインが走った。それに伴って、周囲の木々がざわめく。大気が冷える。彼女の周囲に集まってくる『何か』の量は以前見たものよりも遙かに増えていた。
 変化は魔法陣にも現れた。銀の文字は赤く輝き、余白の部分は逆に色を失っていく。そこは地面ではなく、何か不気味な黒いものに変わっていた。
 エマさんと魔法陣の両方が目視できないほどの明るさになった後、唐突に全てが収まった。疲れた顔の彼女と、黒く変色した魔法陣。消えた金属の像。
 俺とミカさんは言葉もなくそこに立ちすくんでいた。
 軽くよろめいたエマさんを、すかさずミカさんが抱き留める。
 ややあって、離れた場所にドスンと何かが落ちる音がした。
 俺は一連の出来事を呆然とみていた。
「見たか、コウ。成功だ」
 ミカさんに支えられながらエマさんが笑顔を浮かべた。
「理論的な説明は省くが、強制的に空間に接点を作り、対象をそこに落とし込む仕組みだ。この方法なら、お前を元の世界に送り届けることが出来る」
「ちょっと休んでろよ。無理すんな」
「もう大丈夫だ」エマさんは背筋を伸ばしてミカさんから離れた。それから憮然とした顔で付け加える、「どさくさに紛れて私の胸を触るな」
「え? たまたまだよ、たまたま」
 ミカさんは手をひらひらとさせて笑う。
 ふん、と鼻を鳴らし、エマさんは俺の方に向き直った。
「どうだ?」
「凄いです」俺は素直に感想を言った。「それで、俺はいつ頃帰れるんですか?」
 エマさんは眉根を寄せた。
「そう急くな。ここ一帯の魔力を集めても、まだこのくらいのゲートしか作れん。お前の世界がどこか、座標の割り出しも必要だ」
「そうですか……」
 俺は役目を終えて変色した魔法陣を見つめていた。
「よかったな」
 ミカさんが笑顔で俺の肩を叩いた。俺が元の世界に帰れる可能性が出来たことを、本心から喜んでくれているのだろう。俺も喜びたかった。
 なのに、俺には何の感情もわかなかった。
「どうした? ぼうっとして」
 エマさんは心配そうに俺の顔をのぞき込む。
「えっと……何だか実感がわかなくて」
 俺はごまかした。
「ふむ」エマさんが腕を組んだ。「それもそうか。自分が転移したわけではないからな」
「なぁなぁ、これを使えばどこでも行けるって事か?」
 魔法陣の側でしゃがみ込んでいたミカさんが尋ねた。
「無理だ。と言うより非効率だ。一番近い町へ行く陣を作る時間と資金で、乗合馬車が二往復は出来る」
「そんなにかかるのかよ」
「転移魔法はほとんど使われていない。使われていない魔法というのは、危険か、役に立たないか、その両方かだ。移動のためなら、飛行魔法の方がまだ安全だ。落ちる場所は自分で選べるからな」
「じゃあ、これに失敗するとどこへ行くんだ?」
「わからん。全く別の場所か、空の上か、空間の狭間か。行き先がわからぬから失敗という」
 エマさんは以前俺に言ったのと同じ説明をした。
「うえっ」
 足下の魔法陣が急に忌まわしいものに思えたかのように、ミカさんは足で線を消した。
「じゃあ、こいつを元の世界に戻すってのは博打みたいなもんか」
「そうならないよう、手を尽くしているんだろうが」
「ほんとに出来るのか?」
「出来る」エマさんは断言した。「私に出来ない事などない」
「おーおー。じゃあお手並み拝見だな」
「すぐには無理だ。まだ研究途中なんだからな。……ああ、お前が実験台になってくれるならいつでも歓迎だぞ」
「やんねーよ。さっきのだって空から落ちてきただろ。死んじまうぞ」
「あのくらいの高さでは死なん」
 二人のやりとりを横目に、俺は塔へ足を向けた。
「どこへ行く、コウ?」
「おかげで希望が持てました」
 俺は笑顔で言った。笑顔を作るのには慣れている。それが仕事だったから。
「自分の仕事に戻ります」
 そして俺は背を向けた。