shadow Line

<背徳の街>ーEDEN

「ほい、到着だよ」
 ああ、地獄が……もとい楽園が近づいてくる。
 俺は、金を払ってタクシーを降りると、目を閉じた。
「どうしたの」
「呼吸法で、精神を安定させておく。この後は、ずっと緊張状態の連続だからな」
 しばらくして、敷地内に足を踏み入れた。同時に、くる。
 やばい。愛を説きたくて仕方がない。それを自制すると、頗る不快になる。
「大丈夫か?」
 俺は尋ねながら、マリスの胸を揉んだ。うむ。一応、自制はできている。
 その手が払い除けられ、殴られた。おい、動けるのか?
「平気みたいね。なんか、気分的には少し違和感があるけど」
 精神耐性? いや、そんなものは無意味なはずだ。
 その因子なら俺も持っている。
 あれは精神を操作するとかそういう問題ではない。
 強制的に、知覚を興奮状態にするものだ。気持ちの問題ではない。本能の、あまり歓迎したくない部分を増大させるのが本質的な作用だ。
「おかしいな」
 抱きしめた後、唇まで奪ってみたが、即座に解除された後肘鉄を食らわされた。
「……いっておくけど、もう一度やったら男として再起不能にするわよ」
「それだけは勘弁してくれ」それでも俺は、微かに上気するマリスの表情に気づく。
 これは、まさか、思っていることが口には出ずに手が出ているタイプというオチか? ツンデレなのか?
 でも、いやしかし。
 そんなまさか。
 そんなわけないだろ、と思いつつも疑念は払拭できない。
 そんな俺も、前に較べれば、遥かに馴れてきた。正常な思考が保てるだけ、マシになったというものだ。
 まあ、万が一の状況が起こっても、マリスがいる。彼女を盾にすれば、何とかなるだろう。
 俺は、そっとマリスの腰に手を回した。
「離さないと、殺すわよ」
「キミと離れるなら、死んだほうがマシだ!」
 本当に昇天しそうなボディブローに、つかの間意識を取り戻す。
 ダメじゃん、俺。
 無意識に絡み付くスモーキーの身体を引き剥がしながら、バラード・パークを奥へと進む。
 3人三つ巴でくっついたり離れたりしているが、三角関係というより一方通行なのがきわめて滑稽だ。スモーキーが俺に取り付き、俺がマリスに取り付き、マリスはそれを振り払っているので、遠くから見るとみんなでじゃれ合って見えるのではないか。
 楽器があれば愉快なマーチングバンド三人組に見えないこともない。
 だが、周りにいるガードレスの取り巻きたちも似たようなもので、時々とんでもないカップルたちが仲睦まじく戯れているのは、ちょっと目をそらしたい光景だ。
 胸毛ボーボーの男と立つのも怪しい爺さんのカップルが噴水で水を掛け合ったりしているのはどうなのか。俺としてはそれが愛の一つの形態と認めてはやりたいが、理性が拒否する。駄目。絶対。
 それでも、まともなカップルも多数存在するわけで、愛を囁き合う二人を目の当たりにし、誘惑に屈しそうになる精神に喝をいれながら、悪趣味な神殿へと向かって歩いていく。
 ダウンタウン唯一の楽園、全ての争いから解き放たれた理想郷、愛と蜜あふるる約束の地、バラードパーク。
 ここが「楽園」のディアボロスの統括する領地だ。
「……薔薇の園か……」
 大理石で出来た建物は、もとは図書館か何かだったのだろう。今は一面薔薇の花で埋め尽くされている。
「……悪趣味ね」
「悪趣味って……ロマンのない女だな……。見ろ。あの寄り添う花々。まるで僕らのようだ」
途中から関係ない台詞がぺらぺらと口から出る。俺の意志とは何の関係もなく。
「ガードレス」め。絶対にぶん殴ってやる。
 しかし、怒りは何故か慈しみに変わってしまい、握りしめたはずの拳はいつの間にかマリスの肩を抱いている。
 マリスの反撃にあいつつもひたすらにセクハラ行為を続ける俺。
 何故か痛みまでもが幸せだ。
 全くもって、人類愛は恐ろしい。
 げに恐ろしき。
 しかし、ここは確かに安全だが、この調子ではスモーキーは使い物にならんなぁ。
 どうしたものか。
「ああ、僕がこんなにも心を痛めているというのに、かくも月のように美しき乙女よ」
 ドゲシ。
 と、どこからか効果音の聞こえてきそうな勢いで殴られる。
 人類愛はマゾも許容範囲なのかと納得した。愛は偉大だ。
 痛い痛い痛いけどちょっと嬉しい。落ち込みそうになる気持ちはガードレスの力でブロックされ、ひたすらに幸福感に変えられていく。
 ガードレスの博愛的というには極めて大らかすぎる定義の愛は、範囲内の対象の表層意識に働きかけ、そのとき最もハッピーだろうと思われる行動や願望へ半ば強制的に、しかし本人の意志で駆り立てられるという、はた迷惑な力だった。
 普通は理性と言ったもので押さえ込まれているが、ガードレスの力はそれをきわめて自然な形で解放する。
 「愛されたい」という願望が在れば、それを実現する。対象は曖昧化されていて、時には山羊とかからも愛される。本人も山羊を愛する。「愛されたい」という願望と「守られたい」という願望が相互に補完しあうと、さっきの胸毛と爺さんのカップルみたいなのが生まれる。
 凄く迷惑なのだが、本人たちはもの凄くハッピーで、かつ時々驚くべき生産性を見せるので人的資源という観点からはダウンタウン随一かもしれない。
 有効活用されていないというのは最大の難点だが。
 それにしても、である。
 この、神殿だか薔薇の園だかは、見た目以上に荒廃している。
 大体、以前は無尽蔵に涌いてきた信者たちは、一体どこへ行ったのだ。
「そうね。手入れをされている様子は感じられないわ」
「かといってガードレスが死んだってわけでもなさそうだし」
「その声は十六夜だね!?」
 どこからとも無く声が響く。すぐ耳元から聞こえたような気もするが、姿はない。
「ガードレスか? どこにいる」
「ちょっと所用で身体がないんだ。残念だよ、今すぐにでも抱きしめてあげたいのに」
 声は薔薇の花から聞こえていた。
「それはよかった」
 抱きしめられてたまるか。
「身体が居ないってのは? 信者にご神体にでもされたのか?」
「鋭いね。さすがは僕の想い人」
「……それって、死んだっていわんか?」
「まあ、ミイラだけど、魂の方さえサルベージしてもらえれば大丈夫だと思うよ」
 俺は背負ってるスモーキーを見た。ソウル・サルベージャーならここにいる。
「そうか。まあ、身体の方に会うのは、またの機会に」
 そのことを言わないようにするのは、酷く骨が折れた。
「しかし、何でまた」
「げに恐ろしきは、狂信だよ。気が付いたら、この様だ」
 うむ。因果だな。業が深いから、もう戻れないだろう。
「薔薇を依り代にしたか。そうか、これがあの変な科学者の作ってたヒト遺伝子組み込み型の薔薇って奴か」
「そうみたい。とりあえず、死んでる状態でも依り代にできたからねえ。まさかあの変な発明品がこんな役に立つとは思っても見なかったよ」
 薔薇の花言葉は愛、ということで愛の実現のためにはみんな薔薇になってしまえばいい、というやや間違った考えを前向きに検討した結果生まれたのがバラードパークの薔薇だ。ちなみに本人は実験台一号になって薔薇になり、そのまま元に戻らなかったので犠牲もそいつだけですんだ。
 ガードレスの依り代になっているのはそこから株分けされた奴なのだろう。見た目は少しくすんだ色の薔薇で香りも特別良いとはいえないが、とにかく繁殖力旺盛なため、実用化されずにバラードパークにだけ咲いている。
 正しくは、バラードパークから外に出さないように、みんなで阻止した。
「一つ質問なんだが」
「なに?」
「どうやってしゃべってるんだ?」
「花びらを振動させるとスピーカーみたいに音が出せるって発見したんだよ。ちょっと頑張ればいろんなとこからも音が出せるよ」
 声を出している花びらにふれてみると、確かに振動している。
 器用な奴。
 というか、たぶん体が無くなって動けないので、暇に飽かせて色々やっているうちに出来るようになった、ということなのだろうか。
「ところで、そちらのご婦人は? まさか、伴侶とは言うまいな」
「彼女とは、生死を共にした仲だ。救いの女神と言っても誇張ではあるまい」
「それはよかった。僕からもお礼を言わなくてはね。ミス……」
「マリスで結構よ」
「では、遠慮なく。十六夜を助けてくれてありがとう、マリス」
「仕事だから」
 冷たい答えだなぁ。上辺だけでも、仲間だから助けたって言ってくれ。
「おやそうかい? 君の瞳はそういっているようには見えないね……本心を隠すことはないんだ……神は全てをお見通しだよ」
「おい、待て『ガードレス』」
 こいつ……嫉妬しているのか?
 マリスの精神防壁を外しにかかってやがる。
 実体が無い分、物理的に止められないし……厄介なことを。
「無駄よ」
 力の余波だけで、タガが外れそうになる。獣に還ろうと、理性が悲鳴を上げる。
なのに、力の焦点であるマリスは、何事もないように変化がない。
 いや、変化はある。
「12ディアボロスの力がどれだけのものかと思ったけど、この程度なの」
 その瞬間、マリスのタガが外れた。空気が凝固し、恐怖が噴出す。
 バカが! 死神マリスを呼び出しやがった!
 空間が裂ける。悲鳴とともに辺りが灰燼に帰す。
 純粋な死の召喚。
 楽園が、地獄に変わった。同時に、ガードレスの断末の絶叫が谺した。
 薔薇が全て枯れている。死の世界。生命のない世界。
 その中で、俺とマリスだけが生きている。一応、スモーキーもか。
 それにしても……『ガードレス』め。馬鹿なことを。好奇心は猫を殺すという言葉をしらんのか。
「あーびっくりした」
 どこからともなく間の抜けた声が響いてくる。
「ガードレス!? 死んだんじゃなかったのか」
「もう死んでるよ。死んでるから死体は死なないのさ。薔薇は依り代に過ぎないからね。僕自身への直接的な死の作用はあまり意味がない。そして魂は不滅って言うだろう? 主の御力って有り難いね……流石に依り代ごと向こう側へ行きかけたけど」
「マリスを試したな?」
「だって妬けるじゃないか。女連れで僕の嫉妬心を煽る君が悪い」
「前言は撤回するわ」マリスが姿無き神の使いに言った。「たいした力の持ち主ね、ガードレス」
「いや、やはり井の中の蛙だったようだよ。12ディアボロスなんて呼ばれて、調子にのっていたのかも知れないね。キミが、最後に手を抜いてくれなければ、魂の維持もできなかったよ。神様に感謝しなきゃ」
 とりあえず、仲違いは終わったようなので、俺は一息ついた。
 危なかった。
 マリスが、残りの三つの封印も解いていたら、ここが地獄になるだけではすまなかった。スモーキーやガードレスはともかく、俺も死ぬ。
 これがダグラスであったなら、間違いなく全ての力を解放しただろう。
「それで、用件は何だい? やっぱり僕に会いに……」
「違う。安全な場所を確保しようと思って来たんだ」
 よくよく考えれば、スモーキーは安全だろうが、俺自身の安全を著しく損なう場所だった。
「ふむ。まあ、何もない場所だけど、どうぞ」
 その言葉と同時だった。
 枯れていた薔薇が全て再生し、赤々とした華を咲かせる。
「凄い手品だな」
「なにせ、このバラ園が今のところ依り代だからねぇ。枯れたら大変なことになる」
 緑の葉が再び大理石の図書館を覆うとその奇妙な逆転は終わった。