どれくらいの間眠っていただろう。
緩やかに眠りから覚めると、そこにマリスの顔がある。
手を伸ばせば届く距離。しかし彼女の心は手を伸ばしても届かない。
嫌われてるんだろうな、俺は。
思いつつも手を伸ばす。
触れるために。存在を確かめるために。
肩を抱き、切なそうな彼女の身体をベッドに引き込む。
「グッドモーニング、マイハニー。寂しかったかい?」
耳元で甘く囁くと、返事の代わりにマリスの肘がみぞおちにめり込んだ。
ぐうっ。大した歓迎だ。
苦痛にうめき、咳をした。抑えた手が血に濡れる。
ガスによって気管がかなり蝕まれているようだ。死ぬほどではないにせよ、無理をするのは少し控えた方が良さそうだ。無茶をして肺をやられると煙草が吸えなくなる。
人工臓器の肺では煙草は美味くない。せっかく自前のがあるのだから、少しは大事にしよう。
血のこびり付いた手をマリスから隠し、フラスクを取り出すふりをしながらポケットの中で拭った。黒い服でよかった。
「どれくらい寝てたんだ?」
栓を抜いたフラスクを傾ける。が、一向に中身は注がれない。
その筈だ。手には何もなく、あった筈の物は、マリスの手中に収められている。
「体にさわるわ。最初に意識を失ってから、三日よ」
そんなに寝てたのか。
夢も見ないで3日とはかなり酷い状態だったようだ。
快復力には自信があるが、ほとんどは一日寝れば動ける程度には何とかなる。今回は本当にヤバかったらしい。汚染地域での大立ち回りだ。無理もないだろうが。
それにしても。
裏切り者め。
俺は横目でマリスに取り上げられたフラスクを見た。どうやら、持ち主に似て女好きらしい。フラスク表面のくすんだ銀は、俺が傾けるときより鮮やかに輝いていた。
手持ち無沙汰な手を開閉し、頭の後ろで組み合わせる。目だけは、名残惜しそうにフラスクを見つめて。
口に広がる血の味を、飲み込む。鉄臭い、乾いた味。
進化した機械は人間と同じ姿になるだろう、と予言した工学者がいたが、あれは間違っている。
人もまた、機械だ。鉄の味をした液体が流れ、運命というプログラムに沿って動く機械。操り人形だ。
俺もその一人。
マリスもその一人。
他者の運命を変えることもまた運命だというのなら……この世に偶然なんて無いと言うことになる。
気の狂いそうな空想だ。だが一抹の真実も含んではいる。
人と人は交錯し、時間を縦に、意識を横にして模様を織りなす。形のない模様を。
全ては予定。全ては確定だ。
やれやれだな。先が見通せるなら憂鬱になることもないのに。
まあ、いい。おかげで飽きない人生が送れる訳だ。
退屈は死に到る病。誰かがそんな風に言ったっけ。そんなことで到れるのなら、行ってみたい気もする。
人生はウイスキーと同じだ。そんな言葉も誰かが残していた。
なら、寝かせておけば美味くなる気もするが、そう上手くはいかないものだ。色々な要素を加味して、旨味が増幅する。ただ樽に詰め込んでおけばいいという物ではない。
人生を味わい深いとは思わないが、ウイスキーは味わい深い。
これは、ロボットでは味わえない、人間だけの特権だ。機械油はご免被りたい。
なるようになるさ。
「マリス、フラスク返して」
「ダメ」
もしくは、これが人生か。
俺はベッドから降りて一歩踏み出す。
眩暈がする。寝たぐらいでガスの後遺症が抜けるはずもない。寝て治るなら医者は要らない、という奴だな。
ふらり、とよろけた感じがしたが、足は地に着いたままだった。
「大丈夫なの?」マリスが怪訝な顔で覗き込む。
「ただの禁断症状だ。頼む……フラスク返してくれ」
「アル中の治療方法は酒を飲まない事よ」冷徹な一言。
……情に訴える作戦、失敗。おとなしく外で調達するか。
「どこ行くの?」
「ウイスキーを買いに」俺はさわやかに答える。
すかさず取り押さえられた。別にアル中ではないんだが。
俺は、比較的自由に動く方の手でマリスの肩を叩いた。ギブアップである。
身体の心配をしてくれるのはいいのだが、間接技と固め技は遠慮して欲しい。死ぬし。洒落にならないぐらい痛い。
「頼むよ~、マリチュ~」
更にねじ上げられた。甘える作戦も失敗。というか、どんどん酷い状況になっている。
「痛い、痛い。諦めるから、離してくれ」
マリスの手が緩む。その隙を逃さず、俺は素早く起き上がると、ドアへと走った。
同時に後頭部に凄まじい衝撃が加わる。延髄を蹴飛ばされたのだろうか。
これで全ての作戦が失敗に終わった。それにしても、である。
「病人は労われ」
そして、視界はブラックアウト。