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魔法探偵ココノ 

 この街には、不思議な力で事件を解決してくれる女性がいる、と聞いたことがある。
 話を聞いてくれるのは土曜日だけ。 
 聞いてもらえるのは一人だけ。 
 その人の名前は誰も知らない。 
 事件を解決してもらった人も、顔を思い出せない。 
 でも解決してもらったことだけは覚えている。 
  
 まるで都市伝説だ。 
  
 だけど、何のツテも、力もないただの女子高生である私には、そんな噂話に頼るしか無かった。 
  私が彼女を探していたのは、友達が行方不明になったからだ。足取りは警察にも掴めていない。それにあの子は家出をするような子でもない。不可解なのは、どうやら彼女は自分自身で家から出ていったらしいのだ。理由については家族も、学校も、もちろん私にも思い当らなかった。 
  もう死んでしまったとか、変な組織にさらわれたとか、いろんな噂も聞いた。 
  私が頼れそうなものは何もなかった。不思議な力を持つという、その女性以外には。 
  だから私は、どうやったらいいかも判らずに彼女に助けを求めた。とにかく探した。見たことがある、という噂を辿って街を歩いた。インターネットの掲示板でも聞いてみた。 
  結果は無駄足だった。 
  春先の薄寒い夕方。途方に暮れた私は公園のベンチに腰掛けて、途方に暮れた。陽の落ちかけた公園には私の他に誰もいない。吹き抜ける風は夜の冷気を含んでいて、疲れた体へ吹き付けてくるようだ。その冷たさは私を余計に惨めな気分にした。 
  やはり噂は噂でしかないのか。そんな訳のわからないものに頼るより、自分で友達を捜した方が良かった。 
  私が頭を垂れ、後悔で何度目かのため息をついたとき。 
「僕を探しているのかな?」
  その女性は突然現れた。 
  グレーのパンツスーツに、ソフト帽をかぶった、まるで男のような出で立ちで。

 彼女は真辺 心乃(まなべ ここの)と名乗った。グレーのパンツスーツはしっかりとアイロンが掛けられていて、シワ一つ無い。このあたりに彼女の性格が見えているようだ。目深に被ったソフト帽も薄いグレーで、つばの部分で隠れがちな瞳は強固な意志と同時に柔らかさを感じさせる。
  細身の体ながら、そこには無駄のない力強さが同居している。男装というと宝塚を連想させるが、その佇まいはどちらかというとアスリートのような活動的な印象を私に抱かせた。
「じゃあ、あなたが魔法使いの探偵さん?」と聞いたら彼女は首を振った。
「残念だけど僕は探偵じゃない。あまり期待されても困る」
 目深にかぶったソフト帽から覗く表情は、苦笑いを形作っていた。 
「頼まれて、解決できそうなら解決する。だめなら解決できる人を探す。たったそれだけの事だよ」
「でも魔法使いだって聞きました」
「本格的に魔法を使えたのはずいぶん前の話でね。昔のように空は飛べない」
 苦笑いのまま心乃さんは答えた。 
 空を飛ぶなんて嘘だろう。しかし、少なくとも彼女は私が探している、ということを知っていた。魔法使いではないのかもしれないが、少なくとも事件を解決することができる人間で、その自覚はあるということだ。 
「それで、僕に何を頼みたいのかな?」
  心乃さんは私の隣に腰掛けて尋ねてきた。 
「友達を捜して欲しいんです」
「それは警察の仕事じゃないかな」
  確かにそう思うのが当然だ。 
  でも。 
「警察にはもう届けています。捜査もしていると聞きました。でも違うんです。彼女、家出をしたりするような人間じゃないんです」
「そうかい? 僕だって、たまには違うことをしてみたくなるときがある」
「彼女はそんなのじゃありません!」
  私はつい声を荒げた。 
「彼女は夜に居なくなったんです。それも二階の窓を開けて靴も履かずに。そんなの絶対おかしいです!」
「オオカミ少女か。それは興味深い」
  この人、本当にやる気があるのだろうか。 
  私は彼女を睨み付けたが、相手の口元に浮かんでいるのは愉快そうな笑いだった。 
「話はわかった。まずは探してみようじゃないか」
  心乃さんは立ち上がって私にそう言った。 
「もう夕方ですよ?」
  私は聞いた。確かに今すぐ探してくれた方が、見つかる可能性は高いかもしれないけれど、夕方を過ぎれば聞き込みなんてできない気がする。春が近いとはいっても、まだ陽が落ちるのは早い。暗くなれば人通りは減るし、視界も悪くなるはずだ。 
  だけど心乃さんの考えはそうじゃなかった。 
「夜の方が都合がいいのさ。何が原因か判らないが、ひょっとしたら何かに「憑かれて」いるのかもしれない」
「憑かれる?」私は訪ね返した。
「そう。悪霊とかね」
「まさか」
  ホラー映画じゃあるまいし。 
「魔法があるなら、悪霊だって悪魔だっているさ。天使にはあったこと無いけれど」
  心乃さんはどこか皮肉めいた笑いで答えた。彼女の言葉がどこまで本当かわからない。 
  普通に聞けば胡散臭い話だ。でも私は心乃さんの言うことを信じる気になっている。この謎の女性には、そういう話を本当だと思わせるように何かがあるのだ。 
「ところでその友達、顔とかが判るものがあるかな」
  そういえば探してくれ、とは言ったけれどどこの誰とは言っていなかった。 
「それに君の名前も聞いていない」
  さらにうっかりしてた。 
「す、すみません!」
「いや謝るほどの事じゃないけどさ。名前がわかった方がいいじゃない? 君、じゃ味気ないしね」
「そ、そうですよね」
  うう、これじゃ落ち着きのない、ただの馬鹿な子だ。私は真っ赤になりながらポシェットから学生証を出した。中には彼女と旅行に行ったときの写真が入っている。 
「私は紀田 凉音です。行方不明になったのは友達の竹沢 早樹……この右に写ってる子です」
  女の私が言うのも何だけど、早樹は結構可愛いほうだと思う。目はぱっちりしていて、胸も大きい。性格はどことなくノンビリしていて、それでいてそそっかしい。なんというか、守ってあげたくなるタイプなのだ。箱入りお嬢様ということはないのだが、品の良さがある。みんなに好かれる子なのだ。 
  彼女が二階から出て行くなんていうことは、あり得ないのだった。 
「ふぅん。可愛い子じゃないか」写真から目を離して心乃さんは付け加えた。「凉音ちゃんもなかなかの器量だけど」
「えっと、あの……」
  なんかもの凄く恥ずかしいことを言われた! 
「確かに見たところ、家出をするタイプには見えないね。なるほど、いよいよ憑かれた線が濃いかな」
「でもなんで、いったいどうして早樹が」
「それは僕にも判らない。だけどね、世の中にはどうしても悪霊やそれに類する物に好かれてしまう体質の人間が居る。自分ではどうしようもないタイプだ。後は何らかの呪物に触れて乗り移られるケース。誰かに呪われるケース。色々あるのさ」
  心乃さんは歩きながら説明した。 
「街の外に出ていたら探し方を変えなきゃいけないけど、たぶんまだ出ていないだろう」
「どうしてそう思うんです?」
「窓から出て行く、なんて場当たり的じゃないか。それに着の身、着のままで遠出したら目立つ。ということはまだ何処かに潜伏していると見た方が可能性は高そうだ」
  あ、なんか探偵っぽい。 
「彼女の自宅近くに廃屋とかは?」
「空き家なら何軒か」
「じゃ、ちょっと側まで行ってみようか」
  心乃さんが促した先には黒いバイクが一台止まっている。排気量とかはよく判らないが、結構大型のバイクだ。いつも手入れをしているのか、艶々とした外装には汚れ一つ見あたらない。エンジンやマフラーも新品のような綺麗さだ。 
  あれが心乃さんの愛車かあ、と思ったがふと気がついた。 
  あんな所にバイクなんて止まって居なかった。 
  いったいどこから出したのか。 
「いつの間にバイクなんか……」
「最初からあそこにあったよ」
  心乃さんはとぼけると、自分はさっさとバイクにまたがった。 
「はい、ヘルメット」
  心乃さんは私にハーフタイプのヘルメットを投げてよこす。 
  しかしである。心乃さんはさっきまで手ぶらだったのだ。 
「……そんな物、どこにもなかったですよね?」
「いま持ってるじゃないか」
  そう言って心乃さんはフルフェイスのヘルメットをかぶるのだけれど、納得できない。 
  バッグやヘルメットボックスから出した素振りもなかった。 
  ソフト帽をボックスにしまっているけれど、ボックスを空けるより前にヘルメットを持っていたと言うことは、あのヘルメットはボックスの中にあった物ではない、ということになる。 
  わからない。いや、魔法なのだとしたら、わからないのかもしれないけれど。 
  いったいどこから、どうやって出したのだろう。 
  凄く納得できない。 
「さあ乗って。そうしたら腰に手を回して、しっかり掴まってね」
  恐る恐るバイクの後部に乗る。幻じゃない。でもなんか釈然としない。 
  心乃さんは私の葛藤などお構いなしにエンジンを始動させる。 
  お腹に響くエンジン音を立てて、心乃さんと私を乗せたバイクは走り出した。

 大型のバイクでずいぶんスピードも出るはずなのに、心乃さんの運転は慎重そのものだった。私に気を遣ってくれているのかも。
  見覚えのある通りに出たので、私は心乃さんの腰に回した手を軽くたたいた。
  意図したところを汲んでくれたのか、心乃さんはバイクを止めて視線をこちらに向ける。 
「このあたりなんですけど」
「ふむ。なるほど」
  エンジンを切って、私たち二人はバイクから降りた。この辺りに人気はない。住宅地だけど、この時間帯になるとめっきり人通りが減る。街灯の落とす私たちの影が、夜の訪れを指し示していた。 
  私と心乃さんは並んで歩く。心乃さんはあちこちに目を配ってきびきびと歩き、私は私で姉妹みたいに見えるかな、などと思って道路の両脇に視線を移しながらついていく。
「にゃー」
  心乃さんはおもむろに塀にいる猫へ鳴き真似した。 
「に゛ゃー」
  相手の猫も鳴き返してきた。 
「何してるんです?」
「その友達を知らないか、猫に聞いてみたんだけど」
「判ったんですか?」
「いや全然。何せ僕は猫語が判らない」
  本当はふざけているんじゃないだろうか。 
「まじめにやってください。 それともからかっているんですか?」
「僕はまじめだよ」
  心乃さんは肩をすくめた。 
「猫の言葉がわからなくても動物は邪気に敏感だ。残滓がないか調べれば、自ずと場所は知れる。猫の行動半径は大体決まっているからね。夜の方が都合がいいっていうのはそういう事さ」
  心乃さんの言うことは筋が通っていた。そういえば猫には縄張りみたいなものがあると聞いた事がある。鳴き真似はともかく、心乃さんは猫を指標にしていたというわけだ。
  つい勢いで責めるような口調で言ってしまったが、考えてみれば私は魔法というものについて何も知らないのだ。 
「すいません」
  私が頭を下げると、心乃さんは気にするな、と言った風に手を振った。 
「ま、いいさ。どうやらこの辺りじゃないみたいだから、次の場所に行ってみよう」

 私の知っている場所はあと二カ所。心乃さんは時折もの悲しいメロディの口笛を吹きながら茂みの中を覗いたり、例によって猫に話しかけたりしていた。だけど、そのどちらでも早樹の手がかりは見つからなかった。
「警察もその辺りは捜しているだろうしね」心乃さんは再びバイクのエンジンに火を入れて言った。「もう少し山に近い方に行ってみようか」
  夜はだいぶ深まり、吐く息がわずかに白くなるほど冷え込んできている。私は薄手のジャンパーを羽織っているからそんなに寒くはないけど、心乃さんはちょっと寒そうだ。
  人の姿は全然無くて、聞こえてくるのは犬の遠吠えぐらい。 
  唐突に心乃さんはバイクのエンジンを切った。 
「どうしたんですか?」
「ちょっと静かにしてくれるかな」
  なんだろう。 
  心乃さんは、そのまま耳を澄ますかのようにじっとしている。 
「彼女の居場所の見当が付いた」
  突然、心乃さんはそう断言した。 
「商店街の路地あたりで見かけたらしい」
「どうして判ったんですか?」
  テレパシーとかそういう物だろうか。魔法使いなのだから、それぐらいのことはできるのかも。そんなことを思っていると、私の心を見透かしていたように心乃さんが答えてくれた。 
「犬の言葉は多少わかるんだ。昔ちょっとした間柄だったんでね」
  猫は駄目で犬は判るって……なんか騙されている気がする。 
「まだ疑っているって顔をしているね」
  むむ、顔に出ていたらしい。 
「そんなことはないです」
  と弁明はしてみたものの、説得力がまるでないのだった。 
「犬の鼻がよく利くのは知られているけど、案外耳も良くてね。ちょっと口笛で呼びかけてたのさ」
  あの物悲しいような曲調の口笛はそういうことだったのか。夜に口笛を吹いちゃ駄目だ、というおばあちゃんの教えを心乃さんに言わなくてよかった。本当によかった。また恥を上塗りするところだった。 
  心乃さんのやっていることは、一見するとふざけているようなのだけれど、ちゃんと理由があってそうしているのだ。判ってはいるのだけど、気を抜くと忘れそうになる。 
「犬に顔の判別をしろ、というのは難しいけど条件には合致してる」
「条件?」
「ああ。何日か風呂に入っていない若い女の子」
  それはそうかもしれないけど……何か嫌な条件設定だ。 
「でも、お風呂に入っていない女の子が他にもいるかもしれないんじゃ」
「もちろんそうさ。でも率としてはやはり街にいる線は濃くなった。取り憑いているのはたぶん縄張りを作るタイプだ。まえにも関わった事がある」
「縄張り……ですか? 猫みたいな?」
「そう。でも猫というよりはオオカミとかが近いかな。動物に近い思考をするタイプの奴は群れを作りたがるんだ。生まれたばかりだとあまり力が強くないから、寄り集まって自分を守ろうとする。そしてある程度の規模になってくると、今度はそれを使って邪気や精気を収集して成長する。大きくなると、思考も人間に近くなって、だんだん狡猾になる。そうなるともう手が付けられない。最近じゃまず無い事だけど、過去にはそれで街一つが封鎖されて処分された事がある」
  心乃さんの言葉で、私は自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。 
「じゃあ早樹は……!」
「心配しなくてもいいと思う。大きくなるには結構な時間がかかるんだ。今なら大事になる前に始末が付けられる」
  まだ取り返しが付く。早樹は助かる。 
  そう思うと、この男装の麗人が今まで以上に頼もしく思えた。 
  心乃さんが再びバイクのエンジンをかけたので、私はしっかりと掴まる。 
  いま気がついたけど、心乃さんの身体からはジャスミンの香りがした。男みたいな格好をしてても女の人だな、と思ったらなんだか胸が温かくなる。何だろう、この感じ。 
「さあ、いこうか」
「はい」
  こうして密着していると、なんか役得って感じがする。 
  心乃さんと私はもう一度街へとむかった。

 やっぱり心乃さんの運転は安全運転なのだった。
  バイクなんだからネオンが尾を引いちゃうぐらいに飛ばして欲しかったのだけど、便乗しているだけの身ではそんなことは口が裂けても言えない。
「一息入れようか。疲れたでしょ?」
  心乃さんは最初に出会った公園の脇でバイクを止めた。 
  バイクに乗せて貰うのは初めてだったせいか、確かに身体がこわばっているような気がする。ついでにこんなに長く人と密着していたのも初めてだ。ちょっと袖の辺りの匂いをかいでみると、心乃さんの付けていたジャスミンの香りが微かにする。 
  私と心乃さんは並んでベンチに腰掛けた。 
  最初に出会ったときと同じ位置。あのときの私は、失意と後悔で座っていた。でも今は希望を持ってここにいる。たかだか数時間しか経っていないのに、それは不思議な変化だった。 
  公園には当然のように誰もいない。私と心乃さんは並んで座っているが、その眼前にあるのは無人の空間で、点々と街灯に照らされている遊具は廃墟のように静かだった。一人で居たならきっと震え上がってしまうほどの沈黙も、心乃さんと一緒にいるだけで気にならなくなってしまう。 
  出会ったばかりの時は不真面目で怪しく思う気持ちも少なからずあったけれど、今は全くない。むしろ、世界で一番頼もしい人に思える。 
「一休みして、それから徒歩で彼女のいる場所を探すことにしよう」
  心乃さんはポケットの辺りでごそごそすると、私に缶飲料を手渡した。 
「はい、コーヒー。砂糖入ってる奴で申し訳ないけど」
  暖かい。というよりむしろちょっと熱いぐらいだ。自販機に行った様子もないのに缶が手元にあると言うことは。 
「それ、やっぱり魔法ですよね?」
「はは、さすがにこう何度も使っているとばれるかな」心乃さんは手に現れた缶を開けながら言った。「これは『引き寄せ』の魔法。知り合いの祖父が、これの世界的な使い手でね。昔、手ほどきして貰ったんだ」
  私もコーヒーの缶を開けて、一口飲んだ。中身はやっぱり熱くて、甘い。コーヒーはブラック派なのだけれど、心乃さんは甘党なのかもしれない。だけどコーヒーの甘さは歩き回って疲れた体には心地よく染みていって、疲れが溶かされていくようだった。ひょっとしたらそれを見越して甘いコーヒーなのかとも思ったけど、さすがにそれは深読みしすぎかも。 
  せっかくの機会なので、私は心乃さんに色々質問してみることにした。 
「心乃さんみたいな魔法使いっていっぱいいるんですか?」
「君達が思っているよりは、ね。ただ、才能より素質の世界だから、現役で動いているのはそれほどの数じゃない。人目につかないように隠されているものだしね」
「やっぱり悪い魔法使いと戦ったり?」
「する人もいるね。力のある人は警察の手伝いなんかもしてる。早樹ちゃんが居なくなったのも、もう少し時間が経てば警察に所属している魔法使いが出張ってくるかもしれないね」
「警察にも魔法使いが居るんですか?」
「うん。テレビで見かけるような胡散臭い奴じゃない、ちゃんとした魔法使いがね。でも魔法で一発即解決というわけにはいかない。普通の人が思うほど魔法は万能じゃないのさ」
  そんなものなのか。物を持ってきたり、空を飛べたりしたら十分万能な気がするんだけどなあ。でも「警察に所属している魔法使いがいる」ということは、心乃さんはそうではないと言うことだ。 
「心乃さんって普段は何してるんですか?」
「会社で普通にOLしてるよ」
「えーっ!?」
  こんな男装の似合う人がOLをやっているのは信じられない。せめて執事喫茶とか。女優とか。 
「そんなに驚くことは無いじゃないか。人助けは僕にとって余暇活動みたいなものだよ。お金を稼ぐなら普通に働いた方がよっぽど割がいい。年金も保険も出るしね」
「てっきり人助けでご飯食べているのかと思ってました」
「人助けを始めたのは、かれこれ5年くらい前からかな。本格的に魔法を使っていたのは子供の頃の話でね。信じるかどうかは任せるけど、僕と仲間はその昔、一緒に世界を救ったんだ。きっと、今も僕たちの代わりに誰かが戦っているだろうね」
「心乃さんは?」
「もう無理だね。仲間はほとんど引退してるし、僕も魔法を使って戦えるほどじゃないんだ。魔法はね、年を取ると使えなくなることが多い。知り合いの祖父……僕にとっては先生だけど……が言うには、魔法というのは可能性の力らしい。だから年が若いほど力が強く、年を経るごとに弱まっていって、ほとんどの場合は無くなってしまう。僕がまだ魔法を使えるのは、ちょっとした裏技みたいなものさ」
  心乃さんはそう解説する。力が弱まっている、というのは再三心乃さんが言っているように事実なのだろう。かつて世界を救うほどの力が、今やほとんど残っていない。その喪失感は、私なんかが想像するよりもずっと大きいんじゃないだろうか。 
  だけど、その表情はどこか晴れ晴れとしていて、失われつつある魔法の力という現実を受け止めているように思える。私はそこに心乃さんの強さの源を見た思いがした。 
  とはいっても、疑問に思う事もある。失われているという割には、ぽんぽん魔法を使っている気がするのだ。 
「でもその……「引き寄せの魔法」っていうのは使えていますよね? 呪文とかも唱えてないみたいだし。それは普通の魔法とは違うんですか?」
「凉音ちゃんはなかなか鋭いね。僕は魔法を使っているんじゃなくて、魔法が使われている物を引き寄せているんだ。必要な持ち物にはあらかじめ全部魔法を施してある。呼び寄せれば、物にかかった魔法が作動して手元にやってくるって寸法さ」
「便利ですね」
「使いようによってはね。でも飲み物が飲みたいなら、自動販売機で買った方が手間がかからないよ。いろんな種類の物も選べるしね」
  でも牛乳とバナナをミキサーにかけた奴を用意して、魔法でいつでも飲めるように出来たら魔法万歳だと思う。心乃さんには言えないけど。 
「さて、そろそろ頃合いかな。丑三つ時だ」
  心乃さんが腕時計を見ながら呟いた。 
「ウシミツドキってなんでしたっけ?」
「まあ有り体に言えば悪霊とかが活動する時間帯かな。半分くらいは迷信だけどね」
「あ、思い出した。五寸釘でわら人形を打つあれですね」
「そうそう。人通りが多いと普通の人の邪気にも反応しちゃうからね。憑かれた人間を捜すならこの時間の方が都合が良いんだ。……ちょっと失礼」
  心乃さんはズボンの後ろポケットから銀色に光る小さな水筒を出した。私はそれに見覚えがある。あれ、お酒が入っているフラスクってやつだ。 
  心乃さんはそれに口を付けると一口飲んだ。急にお酒が飲みたくなった、というわけではなさそう。 
「ウイスキーの語源を知っているかい?」
  私は首を振った。そもそも私は未成年でお酒を飲んではいけない歳なのだ。興味が無いわけではないけれど、お酒の由来を知るほどではない。 
「まあ、そうだろうね。ふむ」
  心乃さんはフラスクにもう一度口を付けると、中身を少し飲んでから蓋をきっちりと閉めなおした。 
「uisce beatha、『命の水』だよ。ま、中身はいま君が思ったとおりの物さ」
「儀式みたいなものですか?」
「そうだね。僕の魔法は平日に溜めて休日に使う貯金のようなものでね。ついでに言うと飲まなくちゃいけないから、出来るだけ場所を特定してからじゃないと使えない。飲酒運転になるからね」
  きっと心乃さんにとっては、あれが魔法の源なんだろう。ウイスキーは強いお酒らしいけど、心乃さんの顔色に特に変化はなかった。ちょっとしか飲んでないからかな。 
  心乃さんは首飾りを外すと人差し指と親指でつまむようにして、飾りの部分を下に垂らした。 
  幾何学模様とでも言うのか、細い線が曲がりくねった妙な模様が刻まれた三角形の飾りは、風に吹かれたように揺れている。 
「なるほど。ちょっと反応があるね」心乃さんは首飾りの揺れを見てそう言った。
「それも魔法なんですか?」
「まあね。簡単な探査の魔法さ。さて、それじゃ夜の散歩を続けよう」
  心乃さんに促されて私は立ち上がった。 
  わずかに残っていた眠気も空腹感も疲労も全く感じなかった。

 街灯は付いているし車も時々走っているけど、夜の街がこんなに静かだなんて知らなかった。昼と夜とではまったく違った場所のように見える。
  興奮しているせいかあまり眠くはない。だけど、心乃さんと一緒じゃなかったら、こんな風に夜の街を出歩いたりなんかしなかっただろう。
  私たちはペンダントの揺れを頼りに夜の町を探索する。 
  心乃さんが言うには、ペンダントの飾りは邪気に反応して引かれていくものらしい。 コックリさんとか、あんな感じのものなのだろうか。ゆらゆら揺れるペンダントの飾りは、時折引っ張られるように不思議な動きをしている。 
「やっぱり街にいるのは確かみたいだね」
「でもどうして今まで見つからなかったんでしょう」
「姿隠しの魔法って言うのもあるけれど、どちらかと言えば昼間は隠れているって考えるのが正解かな」
「段ボールとか?」
「まあ、それだけじゃなくて隠れるところはたくさんあるしねえ。マンホールの下とか」
  ああ、なるほど。 
  散々歩き回ったところで、ペンダントが今までにないぐらい大きく揺れた。 
「さて。オオカミ少女のねぐらに着いたかな」
  心乃さんはそう言ってペンダントを弾いた。 
  ビルとビルの隙間には、濃い影が光を遮るように横たわっている。 
  魔法なんか使わなくても判った。そこには生理的に嫌悪するように何かがある。 
  影っていうのは光が当たらない場所のことだ。でもこれは違う。光が当たらないから暗いんじゃなくて、光があってもそれを飲み込んでしまうような暗さだ。本能なんて言葉を使うのはおかしいかもしれないけど、私の何かがそこに近づいてはいけないと警報を出している。 
  それぐらい、言葉に出来ない不快な感触がする。 
「下がって」
  いつになく真剣な口調で心乃さんがいった。 
  足を引きずるような擦過音と共に、男の人が二人。人相も良くないけど、それよりもまず目つきがおかしい。見開いたままの目は濁っていて、焦点が合っていない。男の人が着ているオレンジ色のパーカーは、あまり想像したくような液体で汚れている。もう一人の男の人も気味の悪い緑色や赤の染みがたくさんついたシャツを着ていて、しかも変なにおいがする。 
「心乃さん、あの人たち変です」
  私はじりじりと後ろに下がりながら言った。 
「確かに。デートの誘いじゃなさそうだ」
  たとえデートの誘いだとしても断固拒否すると思う。よだれを垂らしながら誘われて、OKと答える人は地球上には絶対に存在しない。 
  心乃さんはポケットから出した革のグローブを手にはめる。それが例の引き寄せの魔法によるものかどうかはわからない。判っているのは、これから心乃さんは一暴れする気だということだ。 
「ボーイフレンドが二人とは、ちょっと妬けるね」
  殴りかかってきたパーカー男を、心乃さんは上半身を反らして避けた。 
  身を捻ってそのまま一歩前に出ると、まるでワルツを踊るように二人の位置が入れ替わる。右足を軸に心乃さんが半回転する。回転によって加速された心乃さんの肘打ちが、パーカー男の後頭部へ突き刺さった。パーカー男が白目をむいてつんのめる。 
  駄目押し、とばかりに心乃さんは回し蹴りを首へ見舞った。 
  パーカー男は結構な勢いで壁に叩き付けられると、そのままずるずると滑って動かなくなった。 
  もう一人のTシャツ男へは心乃さんの方から仕掛けた。短くステップすると、それほど大きくジャンプしたようには見えないのに、まるで宙を滑るようにTシャツ男に肉薄している。 
  着地と同時に心乃さんが踏み込むと、まるで地震のように大きな音がした。心乃さんはその勢いに載せて拳を打ち出す。 
  みぞおちのあたりへ突き込んだ心乃さんの拳は、目で見ても判るほどにめり込んでいる。あんな殴られ方をしたら、きっと格闘技をしている人だってひとたまりもないに違いない。 
  一歩下がると男の人がゆっくりと前のめりになる。 
  そのまま放っておくのかと思ったら、心乃さんは飛び膝蹴りを男の人の顎に叩き込んだ。 
  痛そうだけどもの凄くいい音がして、男の人はのけぞったまま仰向けに倒れた。当たり前か。 
  容赦ないなあ。 
  そんな感じで早樹を守っていた二人は、思い思いのポーズで動かなくなった。 
「手加減しておいたから大丈夫」
  心配そうな顔をする私の顔を見て、心乃さんが笑顔で言った。 
  どう見ても手加減しているような気はしなかったが、プロが言うのだからきっとそうなんだろう。たぶん。 
  暗闇からは、やがてもう一つの影が現れる。 
「……早樹?」
  答えはなかった。 
  だけど見間違えようもない。 
  月明かりに照らされた早樹の姿はパジャマのままだ。でも顔は泥やら煤みたいのやらで汚れて、普段の可愛らしさが全くない。脚も裸足だ。いったいこの数日間でどんな生活をしていたのか。いつもの顔立ちを知っているだけに、目を吊り上げ歯をむき出しにする早樹の顔は正視に堪えなかった。 
  食いしばった歯の奥から漏れ出る唸り声は、私たちに明確な敵意を表していた。 
「やれやれ。女の子に手を挙げるのは主義に反するんだけど」
  飛びかかってきた早樹を、心乃さんは半身になって避けた。 
  運動音痴の早樹とは思えない素早さ。まるで動物のような動きだ。 
  早樹は大きく振りかぶって心乃さんをひっかこうとするが、心乃さんはそれを膝を曲げてブロックした。下から掬い上げるような攻撃は、そのまま外側へ蹴り払って防ぐ。 
  大振りなのに見えないほど速い早樹の引っ掻きも凄いが、それを受けきる心乃さんの脚捌きも凄い。 
  女の子に手を挙げるのは好かない、といっていたためかは判らないが、心乃さんは早樹に攻撃を仕掛けたりをせずに、ただ器用に腕と脚で相手の動きを捌いていた。 
  じきに早樹の息が上がって動きが鈍ってくる。 
  無理もない。早樹は運動音痴なのだ。体育の時も後ろから数えた方が早いというか正真正銘の最後尾だ。体重が3桁に届きそうな子よりも足が遅いくらいだ。 
  あんな攻撃をしていればすぐに体力が無くなる。 
  ひょっとしたら、心乃さんはそれを見抜いていたんだろうか。すれ違った、と思った二人は、早樹が心乃さんにもたれかかったところで止まった。 
  そのまま早樹がぐったりと倒れ込み、それを心乃さんが抱き留める。 
  避けたときに心乃さんが膝でお腹を打ったようだ。 
  というか。 
  手を挙げるのは主義に反するのかもしれないけど、それは脚で攻撃するって意味じゃないと思う。 
  この人はまじめなのかそうでないのか、時々判断に迷うなあ。 
「さあ凉音ちゃんの出番だ」
  気を失った早樹を抱えて心乃さんは言った。 
「僕の力を使うわけにはいかないからね。手伝ってもらう」
  手伝って、といわれても何をすればいいんだろうか。 
  戸惑う私を察して心乃さんは続ける。 
「彼女の胸に手を触れて、それから強く念じるんだ。元に戻れでも、帰ってこいでも何でもいい。彼女が正気に返るように強く」
  言われるままに早樹の胸に手を当てる。 
  柔らかい。じゃなくて、大きい。じゃなくて。Eカップくらいある。また成長したのか。 
  私にももうちょっと分けてくれ。 
「こら、雑念が入ってるぞ」
  心乃さんに怒られて慌てて念じる。何で判ったんだろう。 
  鼓動が弱々しく伝わってくる。ピンクのパジャマは薄汚れていて、手足の袖は泥にまみれている。よく見れば擦り傷みたいなものもたくさんある。こんなにぼろぼろになるなんて。 
  私はいたたまれない気持ちになった。 
  目を閉じて念じる。 
  早樹はこんな事に巻き込まれていい子じゃない。 
  早く元気になって、また学校に行こう。 
  目を覚まして。 
  途端に、私の身体から何かの力が発せられるのを感じる。 
  今までに感じたことのない奇妙な感覚。それは自分が熱源になって太陽の光を発しているようだ。 
  気がつくと、私の手の上に心乃さんの手が重なっていた。 
「どちらかというと、僕の魔法はこっちが正しい使い方でね」
  こういう使い方、の意味はわからなかったが、光が収まるのと同時に早樹の顔から険が取れていた。 
「さて、これでとりあえずは何とかなった」
「助かったんですか?」
「まあね」心乃さんは早樹の身体をゆっくりと横たえた。「凉音ちゃんが『助けたい』と強く願ったから出来たんだ。そうでなかったら彼女から『あれ』を追い出すことは出来なかったよ」
「あれって何ですか?」
「すぐに判るよ」
  暗闇の中で何かが跳ねた。30センチくらいの小さなその物体を、心乃さんは手で弾く。堅い音がしてはね飛ばされたそれは、地面で二転三転した後にまた動き出した。 
  街頭のわずかな光に照らされて、私にもその正体がわかった。 
  人形だ。 
  人形なのは判ったが、人形が独りでに動き出すはずがない。 
「あ、あ、あれ!? なな何ですか!?」
「付喪神、なんて呼ばれ方をするね。早い話が物に宿った悪魔とか妖怪みたいな物だよ。いい奴も居るんだが……あれはタチの悪い方だな」
  心乃さんはゆっくりと私をかばうように動きながら言った。 
「もしかして、早樹のお父さんがお土産に買ってきたっていう……」
  失踪する数日前に、早樹は出張に行っていたお父さんからアンティークの人形を買ってもらったと言っていた。 
  まさか。 
「古い物や人の形をした物には『魂』が宿りやすい。なるほど、彼女の父君が買ってきたという人形は、残念ながらあまりよくない物だったらしいね」
  フリルの付いたドレスの、青い目の可愛い人形。カールした金髪といい、いかにもアンティークドールといった趣だったが、その姿のまま四つん這いで動き回る姿は出来の悪いホラー映画のようだった。違うのは、これが現実だと言うこと。 
  肉食の動物が獲物を睥睨するように首を動かしている様は、この世のものとは思えない光景だ。 
「どうも凉音ちゃんに取り憑く気満々だね。やれやれ、僕は人形にももてないのか」
  心乃さんはそうごちると、足をわずかに開き、低く胸元で拳を構えた。 
  両手にはめた革のグローブが青白い光を放っている。 
  きっとそれは魔法の光だ。 
  人形は私にむかって飛びかかって来た! 
「そっちじゃないよ」
  心乃さんはそれを虫でもはたき落とすように片手で払う。ジュッ、という水が蒸発するような音が聞こえた。 
  人形がガラスのきしむような音を立て、心乃さんと私から離れた。そして、そのまま壁を伝ってビルを駆け上っていく。 
「逃がすと面倒だなあ」
  心乃さんは呟いてビルの壁に足を付ける。 
  何事もなかったかのように心乃さんは壁を垂直に『歩き始めた』。 
「ええええ!?」
  思わず口から変な声が出た。 
「靴に仕込んだ呪符の持続時間は5分しかないんでね。それまでに何とかしなくちゃいけない」
  心乃さんは苦笑するとそのまま壁を走っていく。 
  人形と人間では歩幅に大きな差がある。それに壁を走る心乃さんの速度は尋常なものではなかった。心乃さんはもう空を飛べないといっていたが、そんなものは嘘だと思わせるほどに。 
  壁を走る男装の麗人と取り憑かれた人形の追走劇はすぐに終わった。 
  心乃さんは一度人形を追い越すと、ビルの屋上で反転して人形の正面に立ち、蹴り落とした。人形はそのまま落ちてくるかと思いきや、排水管に腕を引っかけて体勢を立て直す。さらにそのままくるりと回転して心乃さんに飛びかかった。人形の小さな手は、心乃さんの喉元を狙っている。心乃さんがそれを左手で受け止めた。けれど勢いを完全に削ぐことが出来なかったのか、壁に足をついたままよろめく。 
「あぶない!」
  私は思わず叫んだ。 
  心乃さんがそのまま仰向けに倒れる。 
  けれど違った。倒れたのではない。のけぞることで勢いを逃がしたのだ。壁から足を離したことで心乃さんの体は落下し、人形の下に回り込む形になる。 
  心乃さんの動きは洗練されていて、無駄がない。一つの動作の終わりが次の動作の始まりになっているのだ。 
  心乃さんは落ちながら手を伸ばし、そのまま光る右手で人形を鷲掴みにした。電光のように激しく明滅して人形が藻掻いているのが見える。心乃さんはそのまま地上まで引きずり下ろす気のようだ。 
  一瞬そう思ったが、甘かった。 
  心乃さんは捕まえて降りてくるなんていうことはしなかった。 
  落下の途中で踵から壁に踏みとどまる。人形を捕まえたまま、振りかぶる。上半身を僅かに捻る。右足を大きく前に踏み出す。下半身で付けた勢いに、さらに腰の捻りを加え、肩、二の腕、肘、手首、その全てで段階的に加速されていく美しい投球フォーム。 
  月明かりを背に、地面へ向けてのピッチング。 
  右手の煌めく軌跡が、光の矢のように闇を切り裂いた。 
  心乃さんによって投げつけられた人形は、アスファルトがへこむほどの勢いで地面に叩き付けられた。そして両手足を投げ出した姿のまま動かなくなっている。それを追うように心乃さんも飛び降りてきたが、こちらはうってかわって物音を立てず静かな着地だった。 
「やっつけましたか?」
「まだ、かな。意外とタフみたいだよ」
  死んだふりをしていたのだろうか。人形は突然起き上がると、今度は首と両手首のフリルを震わせて宙を舞った。 
「あ、逃げた!」
  フリルはそんなことをするための物ではないと思うけど、羽虫のような音を立てて空を飛んでいく。 
「今度は飛んで逃げるのか。やれやれ、空が飛べた頃が懐かしいね」
「ど、どうするんですか?」
「ロケットランチャーでも用意しておけば良かったね」
  心乃さんは物騒なことを言う。 
「冗談だよ。流石にそんな大物は持ってない」
  驚きで硬直している私に彼女は微笑んだ。じゃあ小物は持っているのだろうか。冗談に聞こえないところがこの人の怖いところだ。 
  心乃さんは帽子を脱いだ。 
「このソフト帽は結構お気に入りだったのだけど。まあ仕方がないね」
  心乃さんの呟きと同時に、帽子はただのフェルトの固まりになった。繊維は瞬時に編み直され、細い細い糸となって心乃さんの五指にまとわりつく。 
「僕はもう飛べないんでね。降りてきてもらうよ」
  両手を前に振ると、その動きを追従して糸が飛んでいく。蜘蛛の糸とは違い、十指それぞれの糸が意志を持った蛇のように宙を這い、敵に肉薄する。 
  糸は背後から人形を絡め取り、動きを封じた。 
「すごい!」
「フェルトの繊維は動物の体毛だ。魔力を蓄積しやすく、そして繊維自体の鱗状構造のおかげで引っかかりやすい」心乃さんはそう解説する。「そこに加重の魔法を加えるとこうなる」
  手袋の青い光は流れ星のように糸を伝い、空を跳ねていた人形は墜落する。繭と言うほどではないが、複雑に絡み付いた糸の中に人形が見えていた。 
「さて。このまま浄化してしまおう」
  油断無く近づきながら心乃さんが言った。軽い口調だけど顔つきは真剣だ。加重魔法というのがどんなものかはよくわからないけど、心乃さんの魔法に捕らわれた人形は関節を軋ませながらもまだ動こうとしていた。 
「おっと。これは大変な頑張り屋さんだ」
  糸がぷつぷつと切れていく音がする。心乃さんの左手が弾かれたのは、きっと片方の糸が切れたからだ。 
「壊さずにすめば良かったけど、どうやらそうもいかないみたいだ」
  心乃さんは右手の糸で人形を捕らえたまま、蒼く光る左手で虚空に何かの文字を刻み始める。それは見たこともない複雑な文字。いやこの世の言葉ではないのかもしれない。
「心乃が命じる。彼の地より来たりて風と共に去るもの、澱みを抱いて露となれ」
  教会のミサを思わせる厳かな口調。空中に刻まれた不思議な文字は、渦を巻きながら収縮し小さな玉になった。 
  心乃さんが人形を指し示す。やや遅れて光の弾丸が一直線に飛んだ。 
  今にも戒めを破らんとしていた人形が射貫かれる。人形は断末魔のようにきしんだ音を立てて地面の上で暴れていたが、やがて青白い炎が全身を包み、消えた。 
  後に残ったのは静寂と焼け焦げた人形。 
「これで終わり」
  もう動くことの無くなった人形を拾い上げ、心乃さんはそう言った。

「さて、あとは救急車を呼んで僕の役目も終わりだ」
  心乃さんの言葉もあまり耳に入らなかった。
  自分の目の前で起きたことに整理が付かない。動き出す人形に、魔法。夢じゃないのだ。事件が片付いた反動で、私は惚けたようになっていた。 
「こんなことがあるなんて」
  呆然とした私の言葉を心乃さんが繋いだ。 
「ああ、よくあることさ。なにぶん街には人が多いから、澱みが溜まってたまにああいう物が出来る事がある。強い光は、濃い影を作り出す……それがこの世の真理だよ」
「あれは……悪魔じゃなかったんですか?」
「本物の悪魔だったら君も僕も、それから友達も助からないよ」
  心乃さんはこともなげにそう言う。ひょっとして本物にあったことがあるのだろうか。 
  この人は、いったいどれほどの事を見てきたのだろう。そしてどれだけの事を成し遂げてきたのだろう。 
「でも凄いです。あんなのやっつけてしまうなんて」
「昔取った杵柄、という奴でね。あの程度の輩を相手にするのはわけないさ。もっとも、昔なら10秒かからなかったと思うけど」
  今でも十分強い気がするのだけど、10秒だなんて。昔はどれだけ強かったんだろうか。 
  いや、彼女の言葉を信じるなら、ここにいるのは世界を救ったという女傑の一人なのだ。 
  出来て当然だった、というべきか。 
「それに本当に凄いのは知り合いの方でね……未だに第一線で頑張ってる。僕のは道楽だよ」
「でも助けてくれたのは心乃さんです」
  私がそう言うと、心乃さんは首を振った。 
「助けたのは君だよ。君は何の力もなく、何の義務もないのに友達を助けようとした。僕はその手伝いをしただけだ。でも、まずは一件落着といったところかな」
  心乃さんは焦げた人形に目を落とし、少しだけ悲しそうな表情をした。 
「人形も無事ならさらに良かったんだけど」
「あの……それでお礼は幾ら払ったらいいんでしょうか」
  一日で探し出して、さらに助けてくれたのだ。 
  報酬のことも聞かずにお願いしちゃったけど、月賦がきいたら助かるなあ。 
  バイト代で何とかなるといいけど……。 
「札束で、といいたいところだけど。あの帽子は気に入ってたから、似たような奴を買ってくれると嬉しいね」
  その言葉に私は耳を疑う。 
  危ない目にあって、それなのに要求するのが無くなった帽子の代わりだなんてどう見ても割に合っていない。 
「でも、帽子一つだなんて……」
「お金は貰える人から貰うことにしてるんでね。それに、僕は別にお金のためにしている訳じゃあない」
「じゃあ、どうして助けてくれたんですか」
「スカートを履かない時間が必要だからさ」
  意味がよくわからない。 
「他人に言っても理解はされないだろうね。僕にはズボンを履く人生も必要なのさ」
  やっぱり意味がわからない。 
  それでも心乃さんにとっては恥ずかしい告白だったようだ。照れくさそうに頭を掻いてから言った。 
「まあ君には関係のないことだから忘れてほしい」
  ひょっとして。 
  みんなが心乃さんに助けて貰ったことを覚えていないのは、記憶を消されちゃうからなのか。 
「今日あったこと……忘れちゃうんでしょうか」
「残念ながら、幻惑と忘却の魔法を込めた帽子はさっき無くなってしまったからね。僕の素性はあまり吹聴しないでくれると助かるかな」
「判らないんですけど、そんな力があるならもっと有名になったり、お金を稼いだり出来るんじゃないですか?」
「頼まれた人全員を救えるほどの力はないし、それに目立つのは嫌いでね。必要な人にちょっとだけ手助けをする。それが僕の役回りさ」
  遠くでサイレンの音が聞こえる。 
  救急車が近づいているようだ。 
「もうすぐ夜が明ける。そうしたら、またいつもの日常が帰ってくる。それで良いんだよ」
  心乃さんが言うように夜空は白み始めていた。 
  夢のような、そうでないような、不思議な夜が終わるのだ。 
「あ、あと救急隊員への言い訳は君に任せた。そういうのは苦手でね」
  彼女は笑ってそう言うと、サイレンの音とは逆の方へと歩き出す。 
  いよいよサイレンの音が大きくなり、あたりが騒がしくなる。 
  どうして彼女が人助けをするのは私にはよくわからない。 
  ただ、彼女が私の願いを聞いて助けてくれたのは事実で、現実だ。 
「帽子、いいのを買ったら届けます!」
  心乃さんの後ろ姿に叫ぶと、彼女は振り返らず片手をあげて答えた。 
  
  
  
  あれから1年あまりが経ったが、私の手元には今も真新しいソフト帽が箱に入ったままだ。 
  帽子は早樹と二人で選んだ。 
  でも結局彼女に会うことはまだ出来ていない。 
  だけど私は、今も彼女が人助けを続けている事を知っている。 
  だからきっと、また彼女に会うことが出来るだろう。 
  会わなくてはならないのだ。 
  この帽子は彼女の正当な報酬なのだ。なんとしても手渡ししなければいけない。

 再会を心待ちにして、私は街へむかう。
  いつの日になるか判らないけれど。
  私は彼女を探している。