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ブリギッドの受難-2

 空中散歩から村に着くまでの道中は全くと言っていいほど快適なものではなかった。
 パラシュートは問題なく開いたし、着地の際に体を痛めるようなこともなかった。だが気分は別だ。アンナのためとはいえ、ジェット機から飛び降りて野原の 真ん中に着地し、さらに道に迷ってようやくたどり着くのが計算のうちだというのなら、ジョシュアを呪いこそすれ感謝しようなどという気は起こらなかった。 こんなことならちゃんと地図を用意すべきだった。GPS付きの携帯電話を持ってきてはいたが、時計としての役割以外まったくなんの役にも立たなかった。
 パラシュートのザックは捨てて来ていいのか、持って帰るべきなのかも判らなかったのでとりあえず背負ってきたが、たたみ方が判らないのでオレンジ色の傘が半分はみ出しており、すこぶる見栄えが悪い。たいした重さではなかったが、それでも邪魔なことに変わりはなかった。
 結局ハルカが徒歩で村に着いたのは陽も落ちかけた午後のことで、パブの扉をくぐるころにはハーマンの差し入れたサンドイッチのカロリーはとっくに底を突いていた。パラシュートは持って入るのもおかしな事なので表に放り出し、古ぼけた扉のノブを捻る。
 村のパブは見た目こそ古かったが、掃除が行き届いていて清潔だった。天井では一目で年代物とわかる古い扇風機がゆっくりと回り、控え目な冷房の風をかき 回している。村人と思しき男が二人、カウンターの隅のほうで話し込んでいたが、ハルカをちらりと一瞥しただけですぐに会話に戻っていく。
 見た目は悪くないな、と思いつつハルカはカウンターへと足を進めた。
「ビール。銘柄は何でもいいや。」
「見かけない顔だね。旅行かい」
 奥のビールサーバーからジョッキに注ぐと、パブの主人はハルカの前に静かに置く。わずかに茶色がかったビールが、冷えた器の中でぷつぷつと泡を吐いていた。
「そんなようなものだよ。待ち合わせててね」
 そう答えてハルカはジョッキに手を伸ばす。持ち手も凍るかと思うほどよく冷えていて、ハルカは一気にこのパブに好感を抱いた。こんな田舎にはもったいな いほど気の利いた店だ。銘柄には無頓着なハルカだったが、ビールも驚くほど濃厚な味で美味かった。一息にジョッキの半分ほどを流し込んでからカウンターの 上に戻す。
「ふう。生き返った心地だよ」
「あんたどこかで見たことある顔だな」
 へんぴな村へ突然やってきた勇ましい女に店主は興味を抱いたようだった。
「そうかい? ご覧の通り日本人で外から来た人間だから、みんな同じに見えるんじゃないのか。そんなことよりここに女の客が来なかったかな? 金髪でブルーの目をしたすごい美人なんだけど」
「いや来てないな。そんな美人なら忘れないはずだよ。待ち合わせの相手っていうのは友達かね」
「そうなんだ。ちょっと早く着きすぎたみたいでね」
 何がちょうど落ち合えるだ。追い越してるじゃないか。
 残ったビールを口にしながらハルカは内心毒づいた。
「こんな田舎に観光かい?」
「まあね。とっくにここへ着いているものかと思ったんだが……当てが外れたかな」
「場合によっちゃ、そのまま帰ることをお勧めするよ」
 店主は声をひそめて言う。
「どうして」
「ここだけの話だけど、出るんだよ。化け物が」
「化け物? まさか」
「本当さ。もう何人も見てるし、デイビッドの牧場じゃ牛がやられちまった。最近じゃ村の中にもちょくちょく姿を現すらしい」
 ビンゴだ。道にさんざん迷ったおかげで間違った村についていたらどうしようかと思ったが、どうやらその心配はないらしい。
「熊か何かの間違いじゃないのか」
 うろついているのは正真正銘の化け物だとは知っていたが、それをここで肯定しても無用な混乱を生むだけだ。さも化け物なんて信じていない、といった風を装う。
「イングランドに熊はいないぜ」
 あっけなく切り返された。
「えっ? そうなのか。知らなかったよ。じゃあオオカミか」
「オオカミもいないってよ。あんた知らないのか?」
「そうか。てっきりオオカミ男がいるなら本物のオオカミもいるもんだとばっかり思ってたよ」
「姉ちゃんはおもしろい奴だな。まあそういうわけで、人を襲うような化け物なんて野生の動物じゃ考えられないってことさ。サーカスか、動物園から逃げてきたやつでもないかぎりはね」
「その化け物の話って言うのは面白そうだ。酒の肴に聞かせてくれよ」
 ハルカが身を乗り出すと、店主はカウンターに肘をついてそれに応じた。
「そいつはな、雲も出てないのに稲妻と一緒に現れるんだ。馬鹿でかい犬の姿をしていて、自動車ぐらい大きい。デイビッドの牧場でやられた牛は下から半分が 囓られてたんだが、あいつは生きたまま牛が貪り食われるのを家で震えながら聞いてらしい。ちょっといかれちまって病院で厄介になっているんで、詳しい話は 聞けなかったけどな。そんな化け物だから見に行ってみようなんて奴はほとんど居ないんだが、不運にも偶然居合わせちまった奴の話だと、真っ暗闇の中で赤い 目が光っているんだとさ」
「その見た奴って言うのは襲われなかったのかい」
「慌てて逃げ出して事なきを得たらしいんだが、熱出して1週間も寝込んじまった。つまりはそのぐらいおっかない奴だって話さ」
「うーん。怖い話としちゃもう一捻りほしいかな」
「いや、これが本当の話なんだって。流石に警察にも連絡してるんだが、なんでも政府のほうから直々に駆除しに来るって話だぜ。なあアーサー」
 店主に呼びかけられてカウンター奥にいた男のうちの一人が反応した。
「本当だよ。ちょうど、今日来てくれるらしいんだがね。なんでもこの手の事件に関しちゃプロ中のプロって事らしいぜ」
「それは頼もしいね」
 やはりアンナはまだ村に到着していないようだ。
「それにしても姉さんいい体してるな」男たちの視線はボリュームのあるハルカの胸よりも、むしろ筋肉のかたまりが連なった太い腕の方に注がれていた。「何をやったらそんな腕になるんだ?」
「毎日牛乳を飲むことかな。あとコーンフレーク」
 男たちがどっと笑う。
 その一人が不意にぽんと手を打った。
「どこかで見たことあると思ったら思い出した。あんたカラテのチャンプだろ」
「気のせいだよ」ハルカは空になったジョッキを店主に掲げて代わりを要求した。「日本人がみんなカラテとかジュードーやってるわけじゃないぜ」
「そうか。よく似てるんだがなあ」
 他愛ない話をしながら時間を過ごす。
 アンナはまだ来ない。陽は落ちて辺りは薄暗く、ひょっとしたら今日は着かないのかもしれないな、とハルカは思った。
「こりゃどこかに寝る場所を確保しないと駄目そうだな」
「ここ、宿無いぞ。簡単な食い物なら出せるが」
「屋根があるところならどこでもいいさ。まさか夜になっても着いてないとは思わなかったぜ」
「道に迷ったとか、車の故障とかでなければいいがね。ハイウェイから来たんだとしたら途中で間違えやすい分かれ道がいくつかあるんだ。心配なら連絡とってみたらどうだい」
「ああ、そうか。電話があったんだった」
 流石に村の中ではアンテナが立っている。
 ハルカは片手で携帯電話を操作した。短縮ダイヤルでアンナの携帯電話を呼び出してみる。だが耳を当てても聞こえてくるのは雑音で、呼び出し音でさえなかった。
「なんだこりゃ」
 いぶかしく思うハルカ。
 電灯が一瞬だけ薄暗くなる。電圧が下がったのか、とハルカは思ったが男たちはそう捉えてはいなかった。
「まずいな……」
「どうしたよ、血相変えて」
「さっき化け物の話をしたろ。もう一つ話があって、あいつが出るときはいつもこんな風に電気が不調になるんだよ」
「噂したから出てきたのかね。意外とサービスがいいのかも」
「冗談言ってる場合じゃないぜ。早いとこ逃げないと」
「なにもそいつが出たって決まったわけじゃないだろ」
「そうでもないらしい」小窓をちらりとのぞいていた店主が言った。「出たみたいぜ」
「み、見つかったら殺されちまう!」
「銃は持ってないのか」
 ハルカは店主に尋ねた。銃があるなら多少の備えにはなる。
「散弾銃は持ってるけどここにはない」
「じゃあ逃げるのが一番だな」ハルカはジョッキに残っていたビールを飲み干して言った。「あたしが時間を稼ぐから、みんなは裏から逃げな」
「じ、時間を稼ぐったって姉さん、あんた一体どうする気だよ」
「さっき、政府の奴らが駆除しに来るって言ってたろ」
「あ、ああ……」
「あたしがそうだよ」
 ハルカはニヤリと笑い、ゆっくりとドアを開けた。
 
 予定がだいぶ狂ったが、嘆いても仕方がない。
 まさかアンナの手助けをするつもりが、自分のほうが先にやりあう羽目になるとは。
 夜の闇は深いが、今は電灯という文明の利器がある。田舎で街灯は少ないとはいえ、視界に困ることはなかった。
 探すまでもなく目標は店のすぐ前をうろついていた。ゆらゆらと蠢く四肢に不気味な赤い目。体重は600ポンドはありそうだ。姿形は確かに犬に似ている が、大きさはざっと7フィートほど。名前の示すとおり黒い縮れ毛で覆われているため、実際にはもう少し大きく見える。そしてそれ自体が発光している赤い眼 は、それがこの世の物ではないことを明確に示していた。
 先ほど話を聞いたとおりの化け物。こんなすぐにお目にかかるとは。
 昔もこんなのとやり合ったっけ、とハルカは述懐する。
 怪物を目の前にしても肝が据わっているのは、ひとえにあの頃身についた度胸のせいだと言える。世界を焼き尽くす巨像やそれを操る魔法使いと戦ったあとで は、いかに伝説級の怪物と言っても比較対象が違いすぎる。数限りない強者と戦いつつも、一度として恐怖を感じたことがないのはそのためだ。
 ブラックドッグがこちらに気づいたが、ハルカが走り出したのもそれと同時だった。
 跳躍し、一段目の足刀。肉にめり込む右足を支えに左足で二段目の蹴り。さらに左足で蹴り込みつつ、相手の体を踏み台にして上へ。高さと勢いを得た状態で体重を乗せた右の蹴りをもう一度。
 それを瞬きするほどの速さで繰り出す、飛猿三段蹴り。本来ならば、段差を利用して上から奇襲することを想定した技だ。
 演舞用として見せ物の域でしか公開されたことのない技だったが、このような形で実戦に投入したのはハルカが初めてだろう。最初の二段の蹴りで相手を駆け 上るのは体重差があるからこそ出来た芸当だ。人間相手ならば最初の蹴りで転倒してしまう。そう考えれば、なるほどジョシュアの言うとおり人間以外のための 技なのかもしれないな、とハルカは思った。
 無論、蹴りに必要な身体の捻りと体重配分を無視した技だけに、一撃の威力は大幅に劣る。技としては曲芸の域にも達するが、この巨躯を相手に与えられるダメージ量は微々たる物だった。
 だがそれで十分だ。これはただの挨拶のようなものだ。気を逸らせて、こちらに注意を向けられればそれでいい。
「異種格闘技戦、無制限一本勝負ってとこだな」
 唸りを上げるブラックドッグを前に、ハルカは歯をむき出して笑った。
 手応えがあったと言うことは、実体が存在するということ。殴れる相手ならやれない相手ではない。右足を前にして腰を僅かに落とし、手刀を構える。この体重差を考えると、受けには回れない。避けるか、捌くかして、まともに打ち合わないことが先決だ。
 専守防衛はスタイルではないが、何処を打てばいいのか判らないうちは慎重に攻めるべきだ。何より最初の奇襲で判ったが、肉は固く、また全身を覆う毛も弾力があり、ある程度の防御力を有していると想定出来る。
 文字通り犬と同じ構造なら、狙う腹か鼻先。懐に潜り込めれば喉。
 逡巡する間もなくブラックドッグが動く。
 巨大な顎が開き、ハルカに噛みつかんとする。ハルカは後ろに退いてそれをかわした。がちり、とトラバサミのような音を立てて顎が閉じる。少し遠いが間合いのうち。その横っ面に右の回し蹴りを当てる。
 確かな感触ではあったが、その巨躯は微塵も揺らいだ様子がない。蹴り足を素早く戻して距離をとった。
「全然効いてるように見えないな、こりゃ」
 狙うなら末端か。耳の後ろを狙うのも手だが懐に入るまでに齧られそうだ。
「提案なんだけど、あんたは森に帰る。あたしはこのままパブでビールを飲む。それで終いにしないか」
 ブラックドッグは唸り声で答えた。
 歓迎しているようには見えない。
「じゃあ仕方ないな」
 再び後屈立ちの構えで向き合う。
 相手は巨体に似合わぬ俊敏さを備えている。そこに体重差が加わると、一撃が致命傷になりかねない。
 こんなことなら牛と一回やっておけばよかったな、などとハルカは思った。雑誌の企画でそんなことが立ち上がったが動物愛護団体の猛反対で企画が立ち消え になったことがある。どちらにせよハルカはその話を受けるつもりはなかったのだが、もし受けていれば貴重な経験が出来たかもしれない。
 噛みつきでは反撃を食らうと学習したのか、ブラックドッグは前足の爪でハルカを引っ掻きにかかる。犬のような姿とは裏腹に、その爪は猫のような鋭さを持っていた。十分に距離はとったつもりだったが、遅れたフライトジャケットの胸の部分が浅く裂ける。
「こりゃ危ねえ」
 横一文字に刻まれた爪跡は刃物のように鋭利だ。
 下段への攻撃で動きを封じようかと考えていたが、やめたほうがよさそうだ。
 となると、カウンター狙いか。
 引っ掻きに対して軸足を狙うか、噛みつきを凌いだあと戻り際に当てていくか。
 呼吸を合わせれば相応のダメージは与えられるだろう。
 もっとも、倒し切れるかどうかまでは怪しい、とハルカは睨んでいた。
 取り憑くタイプと違ってこのブラックドッグは魔そのものが実体化しているタイプだ。物理的な特性を持っているとはいえ単調な物理ダメージの蓄積で消滅させられるとは考えにくい。
 ブラックドッグが低く構えた。
 巨体が舞い、唾液でぬらぬらと光る顎がハルカを狙う。落下地点を予測し、後ろへ飛んで攻撃をかわす。
 射程圏内。
 再び地を蹴るブラックドッグの機先を制する。
 今まさに跳ばんとするその顔面へ、ハルカが突きを放った。
 一撃ではない。秒間四発、計十二撃。
 速さを生むために脱力した状態から拳を打ち込み、命中の瞬間に体を引き締めて体重を乗せる。連打の要は突き出す速度ではなく引き手の速さにある。引き手 の速さは上半身の捻りを加速させる。それに乗せて拳を繰り出せば、自ずと拳速は増す。重さではなく速さで突く。突いて、さらに引く。そして打つ。一撃必倒 ではなく、多段必殺。瞬間的な筋肉のコントロール、引き手の速さ、上体の流れを御する下半身のバネ、三位一体となって繰り出される圧倒的密度の打撃。
 一撃必殺はもちろん存在する。ただ、それを成し遂げるためには途方もない前提条件が必要だ。相手の急所に、寸分の狂いもなく、十分な体重と、一ミリの過 不足もないストロークで、かつ完璧な角度の打撃を当てること。理想だ。完璧な一撃の幻想は空手家を魅了する。仮にその領域に達する者が居るとすれば、それ は達人以上の存在と言えるだろう。
 人は完璧ではない、とハルカは思う。自分自身がいかに未熟で卑小な存在であるか、ハルカはよく知っている。それは戦いに身を置くことで常に感じ取る限界 だ。一度だけ体現した完璧な一撃。おそらく、あの少女だった頃、全てを捨てて放ったあの一撃以上のものを、ハルカはもう生み出せない。
 あの感触、あの幻想から抜け出すのに数年を要した。
 結論は単純なことだった。試合に勝つため、強くなるための一撃など完璧たり得ない。要点はただ一つ、あれは、あの瞬間に、自分の守るべき者のために放ったからこそ為し得た。たったそれだけのことだ。
 一撃のこだわりを捨てたことでたどり着いた境地。偶然性を排除し、瞬間の積み重ねによって相手を打ち倒す。 
 鼻先に乱打を叩き込まれ、ブラックドッグがよろめく。手応えはあった。化け物だけにそこが急所であるか、どの程度の損害を与えたかは定かではないが、少なくとも目に見える限りではそれなりに効いているように思える。
 むろん、代償は軽くない。そもそも人間の手というものは精妙な動きをするぶん華奢である。一流の格闘家といえども、打撃の負荷に対して十分な強度を備え ることは難しい。ひたすらに打ち、骨と皮を鍛えてもなお足らない。そのために作られてきたのがグローブを代表とする拳の保護具と、拳への負荷を低減して打 つための技術である。
 全力の打撃はハルカの拳にも等しい破壊をもたらした。貫くような痛みが両手に響き渡る。
 これほど頑丈な相手とは思わなかった。下手をするとひびが入ったな、とハルカは自己分析する。
 職業格闘家として相応のキャリアをつかんだハルカでさえ、グローブなし、バンデージなしで試合に臨むことはない。裸拳での打撃は相応のリスクを伴った危険な手段なのだ。
 痛みは両手の先を支配し、軽く握るだけで無数の棘が刺さったような刺激を伝えてくる。
「来月試合なのにちょっと張り切りすぎたな」ハルカはぼやいた。
 ブラックドッグが怒りの唸りをあげた。毛が逆立ち、小さな火花を散らしている。
 来るか。
 ハルカは腰を落とした。
 地に爪を立て、巨体が跳ね飛ばされるように直進する。
 ハルカは突進してきたブラックドッグを身を翻してかわし、通り過ぎる刹那に腕を回して首筋を抱える。
 重すぎて受け止めるにはいかず、踏ん張ってみるが明らかに膂力で押し負けている。
 ちょうどフロントチョークのような形でブラックドッグを掴んでいるが、ややもすると投げ飛ばされそうな勢いだ。ハルカの下でうなるブラックドッグからは硫黄に似た生臭いにおいがした。
「盛ったか、犬っコロ。でも悪ぃな、あたしはアンナ専用だ」
 両手をクラッチし、腕力と背筋力で首を締め上げる。
 丸太ほどもあるブラックドッグの首が鈍い音を立ててへし折れた。腕の中で骨のようなものがゴリゴリと軋み歪んでいく感触がする。
 折ったと認識した瞬間、突然手応えが無くなった。
 反射的に飛び退くが僅かに遅い。
 犬のような物だった黒い固まりは、その質量の全てを熱エネルギーと化し膨張、四散した。
 至近距離で生じた爆発はハルカの体を軽々と吹き飛ばし、ハルカはもんどりうって倒れ込んだ。
 最初に叩きつけられたときに背中を打ったせいで肺の空気が押し出され、呼吸が途絶える。庇いきれなかったポニーテールの先端が焦げ、タンパク質の焼けた匂いが立ちこめた。
 たまたま着ていたフライトジャケットが難燃性の素材だったことはいくらか幸いようだ。とっさに庇ったおかげで火だるまになることは免れたらしい。
 まさか自爆するとは。
 暗転しそうになる視界を気力でつなぎ止め、ハルカは身を起こす。
「火炎使いの元魔法少女が焼け死んだんじゃ様にならないな」
 ブラックドッグが顎を開いた。その中はぞっとするほど虚ろな空洞で、奥底が見えない。
 動物ではあり得ないほどに開かれたそれが意図することは『ハルカを丸呑みにする』ということ。
 起き上がり途中のハルカへ覆い被さるようにブラックドッグが跳躍する。
 ノコギリのような歯が並ぶその口にハルカは腕を差し入れた。両手で上顎を支え、同時に左足を突っ込んで下顎を押さえ込む。万力のように締まっていく顎を、全身の筋力で無理矢理押し広げる。
 膠着は長くは続くまい、とハルカは思った。この状態でもう一度自爆されたら今度こそ助からない。投げ飛ばすには重すぎる。その前にこの状態を脱しなければならない。
 両手で支える牙はだんだんと手のひらに食い込んできている。痛めた拳にかかる負荷も無視出来るものではなかった。
 顎を広げられたままのブラックドッグが前足でハルカの腿を引っ掻く。厚手のジーンズのおかげで深手は免れたが、熱した鉄を当てられたような感触がするのは少なからず傷を負ったことを意味した。
「やりやがったな、てめえ」
 牙が皮膚を突き破るのもかまわず、ハルカはそのまま腕を上へと押しやった。
 一旦は閉じかけた顎が再び広げられる。
 そこへさらに立て続けに響いた銃声が加勢した。
 ブラックドッグの口から初めて悲鳴のようなものが漏れる。ごきん、という骨のずれる音。顎の閉じなくなったブラックドッグの頭を右足で押しやり、距離を取る。
 そこへ再び二発の銃声が轟き、ブラックドッグは地に倒れた。
「大丈夫か姉ちゃん」
 パブの店主ともう一人、アーサーと呼ばれていた客が散弾銃を手にして言った。
 やっぱ飛び道具って言うのは偉いな、とハルカはしみじみと思う。
「助かったぜ。いい腕だ」
「あんた無茶だぜ。素手であんな化け物とやりあうなんて」
「あたしにはこれしかないからな」
「何はともあれ無事でよか……うそだろ?」
「嘘ならよかったんだけどなあ」
 ハルカは嘆息する。
 3人の目の前で倒れたはずのブラックドッグが立ち上がっていた。体毛が蠢いて体を再構成しているようだ。揺らめく瞳は怒りをたたえて静かに燃えている。
「化け物がッ」
 店主が残っていた一発を放つとブラックドッグはのけぞるが、すぐに体勢をもとに戻す。
 弾を撃ち尽くした二人は散弾銃を折って排莢した。
 店主がポケットからシェルを取り出して装填しようとするが、取り落としてしまう。
 もう一人も押し込んだはずのシェルが手からすっぽ抜けて草むらへ飛んでいった。
 散弾銃が手から落ちる。
 二人は呆然と自分の手を見た。震えている。
「なんだこれは」
「くそ、俺もだ」
 店主がいきなり膝を折って倒れた。
「おい、大丈夫かよ」
 ハルカは声を掛けるが、二人の変調は明らかだった。
「身体に力が……」
「うえっ」アーサーも嘔吐して倒れこむ。
 こいつは呪いなのか。
 飛び道具に対して掛けられる制約か。いや正体は定かではないが、自分はともかく他の二人がいきなり戦闘不能になったのは確かだ。
「何だかわからないが、お前さんとやりあうのは制限付きみたいだな」
 ハルカは焼け焦げたジャケットを脱いだ。
 睨み合いながらダメージを算定する。胸が痛いのは爆発の衝撃と熱のせいだ。短く息を吸う。痛みの程度からすると骨に至るほどの怪我ではなさそうだ。全身 を打った打撲も我慢できないほどではない。むしろ自ら痛めた拳の痛みのほうが強いくらいだ。足の怪我は引きつるが支障はない。少しふらつくがまだ十分闘え る。
「さて第二ラウンドかな」
 誘うようにブラックドッグの燃える瞳が蠢いている。
 いやな目つきだぜ。
 ハルカは目眩を感じて頭を振った。
「どうやら体を再構成すると結構消耗するみたいだな。さっきより縮んでるぜ」
 ハルカはブラックドッグを挑発するが、状況は正直芳しくない。
 打てる手があるとすれば有効打を積み重ねてブラックドッグを消耗させることだが、援護射撃は期待出来そうもなく、ハルカの拳は全力で打てるほどの状態ではない。体重差を考えると隙の大きい蹴り主体で戦うのは避けたいところだ。
 お互いに視線をそらさずにじりじりと動く。
 少なくともブラックドッグが二人にとどめを刺すような気がないのは確かだった。
「晩飯はあたしってことかい」
 受け身を取り損ねたのが効いたのか、酷い目眩と吐き気に苛まれつつも、ゆっくりと円を描くように動いて様子を探る。
 格闘家としての矜恃に反するが、銃を拾うべきかもしれない。相手が許せばの話だが。
 インターバルを挟みたいところだが、相手にその気がないのは明らかだ。
 ハルカは意を決した。
 打てるのは左右一発ずつ。乾坤一擲、我が身を砕くつもりで打つ。
 変容を肌で感じ、ハルカの足が止まった。肌を突き刺すような冷気が辺りに漂う。
 それが比喩ではなく現実であると気づいたとき、ハルカの心は平静を取り戻した。
 ハルカとブラックドッグの間に、割り込むように氷の柱が屹立する。
 それを引き金として瞬く間に3つの氷壁がブラックドッグを囲み、巨大な棺となって動きを封じた。地下水脈から吸い上げた地下水を遠距離から凝結させ生成したのだろう。
 魔法の発動に伴う気温の低下とは裏腹に、ハルカの血は滾った。
 いまこの時に、こんな魔法を使える人間は一人しか居ない。