shadow Line

ブリギッドの受難-1

  艶のある黒髪が踊るように跳ね、ランニングシューズが規則正しく大地を踏む。
 水分を含んだ空気を肺一杯に吸い込んで速度を落とし、ハルカは呼吸を整えた。
 リズムを刻む両腕は同年代の女性のそれよりも二倍も太く、振りに合わせて隆起する筋肉は力強さを内包しつつも優美さを失っていない。
 そのまま立ち止まることなく歩き続け、屋敷の門をくぐる。
 かつて5人の仲間とともに世界を救った彼女も、いまや身長5フィート6インチの女丈夫である。魔法少女を引退し、彼女が選んだのは自らの拳で未来を掴み取ることだった。
 以来十数年のキャリアを積み、格闘家として名をあげた彼女は、日本を離れイギリス国籍を取得してこの地に落ち着いている。
 この屋敷に住むようになって数年経つが、いまだに慣れない。日課のロードワークが庭を走るだけで済んでしまうなど信じられなかった。メイドや執事が居る と言う生活もだ。日本にいた頃とは何もかも桁が違う。玉の輿と言えなくもないが、普通の家庭に育ったハルカにとってはおとぎの国に等しい。
 現在ハルカが我が家としている屋敷の持ち主バーンスタイン家は、広大な土地を実質的に支配している一族である。その歴史は古く、ルーツを遡るのさえ億劫なほどだ。
 現頭首であるジョシュア・バーンスタインは、齢90を超える老齢でありながらもいまだに各界への発言力を失ってはいない。それどころか、どう見てもまだ 60代の姿を保ち続けている怪人物だ。第二次世界大戦中には非公式の作戦に従事して、なにやら勲章やら爵位やらを手にしたらしいが、ハルカにとってその奔 放な言動と行動は頭痛の種だった。
 ロードワークの最中ずっと考えていたのもそのことである。
 玄関で待っていたメイドからタオルを受け取って軽く汗を拭きとると、ハルカは居間へと足を向けた。
 ジョシュアは自室よりも居間にいることを好み、暖炉前の安楽椅子でパイプをふかすことを日々の務めとしている。
 ハルカが居間の扉をあけると、やはりジョシュアはそこにいた。グレーのポロシャツとスラックスは「黒でも白でもない」と公言する自身の信条の表れだ。頭 髪までグレーとなれば見事というほかはない。年代物の片眼鏡を掛け、ブライヤ製のパイプをくわえたままタブロイド紙に目を通している姿は年を経た風格を感 じさせる。が、それが実に曲者なんだよな、とハルカはいつも思うのだった。 
「帰ったか。その様子だと調整はうまくいっているようだな」
 モノクルを外すとジョシュアはハルカへ視線を向けてそう言った。
「それよりじいさん。あの新聞の文面はなんだ」
 いらだちを隠さずハルカは詰問する。
「何の話かね」
「あの“もうベッドでは眠れないだろうから棺桶を送る”っていうのはどういう意味だ」
 それは先日の大衆紙にハルカの不正疑惑というゴシップ記事が載せられたことに対して、ジョシュアが公の場で発言したものである。実際ジョシュアはそれを 実行し、パイン材の棺桶を相手に送りつけていた。大衆紙のいくつかがそれに食いつき、大きくではないが少なからぬ話題になっている。
「そのままの意味だよ。負けた腹いせに下らないことを抜かしていたからな」
「90も過ぎてなんでそんなに血の気が多いんだ」
「うちの自慢の嫁を侮辱されたら黙っているわけにはいくまい。むしろ、相手の舌を引っこ抜かなかっただけ、ずいぶん自制したものだと思っているのだが」
「興行が絡んでいるんだろうけど、火種を作ってどうするんだよ」
「イベントというものは、盛り上がりさえすれば過程やネタなどどうでもいいものだ。とくに楽しむ方にとってはな。これでお前が勝てばもっと面白いことになるぞ」
 くっくっく、とジョシュアは笑いをかみ殺したが、ハルカは面白くも何ともなかった。
「趣味悪い話だな。あたしはトラブルはごめんだ」
「ゴシップをネタにしてきたのなら、相手が後に引けないようにしておいたほうが面倒があるまい。それに興奮しているのはアンナのほうでな。本人に会ったと き何で息の根を止めなかったのか、ずいぶん叱られたのだぞ。会社を買収して無一文にしろとか、家に火を付けろとか、強盗を装って特殊部隊を差し向けろと か」
 ハルカはため息をついた。
「あんたの家におとなしい奴はいないのか」
「しかたあるまい。バーンスタインの血はそういうものだ。むしろ情熱的と言ってほしいものだな。ああ、アンナには「勝つと判っている試合にムキになるな」と言っておいたぞ」
「アンナはともかくあんたは名が通っている人間なんだ。炊きつけるような真似はやめてもらいたいね」
「おお、こわいこわい」ジョシュアはおどけた調子で肩をすくめた。「だが地球上でお前の組み手の相手になれるようなやつは灰色熊ぐらいなもんだろう」
「そんなわけあるか。あたしよりも強い奴ならゴマンといる」
「そうかな? みたところ、お前の技は人間用のものだけでは無いような気がするが」
 呆れ顔のハルカに対してジョシュアは真顔で答えた。
「何と戦うって言うんだ? サーカスじゃあるまいし」
「ふむ。まあそれならそれでいい」
「引っかかる言い方だな」
「年寄りになると用心深く、疑い深くなるものさ。そして大体それは外れないのだ」
「あんたは疑い深いんじゃなくて、厄介事を起こすのが好きなだけだろうが。変な事ばかり企んでないで、そろそろ大人しくしろ」
「気が向いたらそうしよう」
 ハルカは今日何度目かになるため息をついて居間を通り過ぎた。

 ハルカがイギリスに籍を置いてから8年がたつ。
 むろん、それは彼女がイギリスという異国に可能性を見出したからではない。
 運命の出会いを果たして早十数年。格闘家として大成した彼女にとって必要なのはトロフィーでもベルトでもなかった。
 迷路のような屋敷ではあるが、彼女の向かう先はいつも決まっている。大階段を上り、さらに廊下の奥へ。先祖の肖像画が見守る一角を通り過ぎて扉の前に立 つ。バーンスタイン家の英知と歴史を詰め込み、古今東西の稀書と禁書を揃えた図書室。たとえ使用人であっても容易に進入を許されない。この扉をくぐる資格 があるのは、ごく限られた人間のみだ。
 重いオーク材の扉を開け、ハルカは図書室へと足を踏み入れた。本を守るために明かりの類は最小限しかなく、湿度を保つための空調によって温度も低めに設定されている。
 図書室の中央にあつらえられた閲覧机には、一人の女性が一抱えほどもある巨大な革装の本と向き合っていた。
「ただいま、アンナ」
「お帰り、ハルカちゃん」
 アンナ・バーンスタインはページから目を離すとハルカに向かって微笑んだ。
 豊かな金髪は実った小麦の畑を思わせるほど艶やかで美しく、淡いブルーの瞳は水晶のような輝きを湛えていて、見つめていると引き込まれるようだ。いや、 初めて出会ったときから、ハルカは魅入られている。もしこの世に運命の出会いというものがあるとすれば、まさにそれはあの日あのときの出会いに他ならな い。そして、ハルカはそれを一度たりとも疑ったことはなかった。
 このか弱くて美しい生き物を守らなければならないという強烈な使命感。今に至るまでハルカの行動原理はそこに集約される。幼くして強さの何たるかを求めていた彼女にとって、それは明確で揺るぎない強さの根源となった。
 もちろん、出会ったときとは違って彼女は背が伸びたし、あまり泣かなくなった。年相応の分別と、それから彼女の祖父が言うところの「バーンスタインの血」による勝ち気なところもあって、一人の淑女として立派に成長している。
 それでもなお、ハルカにとっては守るべき者なのだ。その果てにいまのややこしい関係があるのだが。
「今日は出かけなくていいのか」
「まあ、たまにはね」
「最近帰りが遅いから心配してたんだぞ。だいぶ詰めてるだろ」
「そんなことないよ。私もちょっとは偉くなったから、任せられるところは人に任せるようにしているし」
「あたしが手伝ってやれればいいんだけど」
 英国魔術協会の若き幹部であるアンナの居る世界は、ハルカが立ち入ることの出来ない領域だ。
「ハルカちゃんはあたしを十分助けてくれているじゃない」アンナはハルカの手をしっかりと握った。「ハルカちゃんがいるだけで、私は幸せだよ」
「そ、そっか。あ、あたしも、その、アンナがいてくれてうれしいよ」
 直球の賛辞にハルカは顔が紅潮するのを抑えられない。魂の随まで魅了されているこの身にアンナが与える福音は、水蜜桃のように甘く、いかなる美酒にも勝る酔いをもたらす。
 結局のところ、あの頃一目惚れして以来、ハルカは初恋の頂から一度たりとも降りたことがないのだ。
「ありがとう。それよりもハルカちゃん、新聞の」
「あんなもの気にするな。疑惑だとかなんだとかは勝っていると絶対に言いだす奴がいるんだ。そのうち噂なんて消えるさ」
 勝者には常に羨望と嫉妬がつきまとう。勝ち星を重ねればそういった輩が出てくるのも当然だった。ハルカ自身はそれを日本で経験しているため慣れきっているが、アンナが腹を立てるのも判らないわけではない。
「うん。それならいいんだけど。でも本当にハルカちゃんの邪魔になるようだったら言ってね。住所とか勤務先とかちゃんと抑えてあるから、おかしな真似したらすぐドーバー海峡に沈めてあげる。もう棺桶は送ってあるの」
 真摯な表情で物騒なことを口にするアンナ。
 あれはお前の仕業か、と突っ込みたくもなったが、殴り込みに行かなかっただけたぶんマシなのだろう。棺桶を送りつけたりするのもやめて欲しかったが。
 自分がそうであるようにアンナもまた惜しみない愛情を注いでくれるのだが、たまに行きすぎるところだけは何とかして欲しいと思うハルカなのだった。

 調べ物の邪魔をしては悪いと思い、ハルカはアンナと一時別れて自分の成すべき事をした。
 ゴシップは憶測を呼ぶだろうが、屋敷の中に居る限りはハルカの耳に届くことはほとんど無い。外からの取材の一切合切が遮断されていることは、彼女にとって理想的な環境だった。
 雑音を気にしても仕方がない。自らを必要な域まで高め、試合に臨むだけだ。
 ベンチプレスを行い、それから柔軟運動で体をほぐす。
 組み手の代わりに型をいくつかこなし、必要な動きをイメージする。トーナメントまでは後一月。試行錯誤の時期は終わった。後は研ぎ澄ますのみ。鍛錬と休息はパイの生地を織り込んでいくように肉体に蓄積され、強さを形作る。
 一通りのトレーニングが終わると風呂場で汗を流し、それから一人で夕食を取った。
 給仕のメイドも執事も居ないのは『頼むから落ち着いて食えないので一人にしてくれ』とさんざんに懇願したためである。結局納得してもらえるまで2年か かった。本来なら家族で食事を取るのが筋だが、アンナが調べ物をしているときはいつ図書室から出てくるのか判らず、ジョシュアは会合であったりして夜は席 を空けることが少なくない。
 ただ、家族がそろったとしても楽しい夕食を演出できるほどイギリスの料理は美味くなかった。日本の味になれているせいではなく、料理自体に味がないのだ。味付けは自分でやれ、というのが流儀らしい。さすがのハルカもこれには閉口したが、いまや一つの結論に達していた。
 これはこういうもの。
 そんなわけで食事には全く楽しみを見出せていないハルカだったが、それさえ除けばここでの生活は快適の二文字で足りた。
 昼間に掛けた負荷で熱を持った体を休めるために、まだ早い時間ではあったがベッドに入る。試合前はほとんどこんなサイクルでの生活だ。
 ハルカの寝室はアンナとは別になっている。寝室は各人に割り当てられているのがマナーハウスの構造なのだとアンナから聞いたが、おかしなことをするものだと思った。別に一緒でもいいではないか。
 とはいっても折角割り当てられたのだから、ということでハルカは寝室を自分好みに模様替えしていた。まずベッドの天蓋を外し、マットレスを固いものに変 え、布団は綿の重たいものにした。天蓋付きでふかふかのベッドはどうしても落ち付かなかったのだ。サイドテーブルも気になるのでどけてもらった。代わりに プラスチックのカラーボックスを用意してもらい、日用品はそこに納めている。ただ、これはアンナにはものすごい不評だった。
 微睡んでいると、静かに自室のドアが開く。それが誰なのか、確かめる必要はなかった。
「こんばんは、ハルカちゃん」
「いらっしゃい、アンナ」
 一つ屋根の下なのに妙なやりとりだな、といつも思う。
 妙な取り決めではあったが、一緒の寝室ではなく日替わりでお互いの寝室に行ったり来たりしている。
 薄いピンクのネグリジェは下着が透けていて目のやり場に困ったが、薄明かりの中でたたずむアンナの姿は妖精のようだ。自分用の枕を抱えて静かに足を運ぶアンナの姿に、しばし見惚れる。
 ハルカが布団を少し持ち上げると、アンナはその隙間に滑り込んだ。そのままぴったりとハルカに体を寄せて定位置に付く。
 今では当たり前になった二人での就寝。それでもアンナの体を我が身で感じる喜びはいささかも失われない。ハルカにとってアンナは初めてにして唯一の女性だ。それが覆るようなことは天地が逆さまになってもあり得ない。
 ハルカは自分が同性愛者である、などという認識を持ったことは一度もなかった。
 そのような分類の仕方は彼女にとって意味がないのだ。なぜなら、ハルカはアンナのためだけに存在するのだから。
「汗臭くない? 」
「平気。それにハルカちゃんのにおいは好きよ」
「なんかそういう言い方は変態っぽいな」
「ハルカちゃんだから平気なだけよ」そういってアンナはハルカの胸に顔を埋め、大きく息を吸い込んだ。「お日様みたいな匂いがするの」
「恥ずかしいよ」
「大丈夫、二人だけだから」アンナは両腕をハルカの首に回して密着した。「こういうときぐらいは独り占めさせて」
「アンナは二人っきりになるとものすごく甘えん坊になるよな」
「こっちが本当の私よ」
 艶然とアンナは微笑む。
「普段は作っているってことかい?」
「そう。人間はみんな役割に応じて仮面をかぶるのよ。この世は舞台で、男も女もただの役者でしかないの」
「なんだそりゃ」
「シェークスピア。ハルカちゃんにぴったりのもあるのよ。『まことの恋をするものは皆一目で恋におちる』って」
 思いっきりばれているではないか。
「アンナはあたしに一目惚れしてくれなかったのか」
「ハルカちゃんの方が先だったと思う」
「そっか。じゃあ他の奴らにとられなくって良かったよ。ココノとか」
「ココノちゃん、女たらしの才能あるもんね」
 男のように振る舞うことを自らに強い、今も男装で通すかつての仲間ココノはたしかに女性受けする女性だった。中性的な振る舞いと佇まいが女性を惹きつけるらしい。
 かつてほどには交流もなくなった6人だったが、ココノだけは別だった。何か思うところがあったのか、彼女はジョシュアに教えを請い、未だに魔術の研鑽を 欠かしてはいない。加齢に伴ってその魔力は無慈悲にも衰えていってはいるが、ジョシュアはその魔法構築の技術を高く評価していた。
「本人は普通が良いらしいけどな。そういや今の彼氏は悪魔だって話を耳にした様な気がしたが」
「彼氏じゃないみたいだけど。去年、本気でお祖父様に相談しに来ていたわ。つきまとわれて困るって」
「あたしがマンチェスターで試合に出てたときか」
「そうそう。その前は確か石像」
 ハルカの想像力では、石像に好かれるココノという図がどうしても浮かび上がってこなかった。代わりに疑問とも呆れともつかぬ言葉が口をつく。
「……あいつはいったい何をやっているんだ」
「本人の希望とは関係なく、そういう物にどうしても好かれちゃう体質の人って居るんだって。お祖父様が言ってた」
 それはかわいそうに。
「まともに結婚しているのはバーバラとアキだけか」
「私たちもだよ」
 アンナが二の腕をつまんだ。
「おっとそうだった」
 その甘痒い痛みにハルカは現実を思い出し、うなずく。
「みんな元気かな」
 仲間の名前を口にしたせいか、アンナは郷愁に駆られて呟いた。
「そうだな。しばらく会ってないもんな」
「会いたいね」
「一段落したら行くかい? あたしもたまには里帰りしないと」
「カレンちゃんも、バーバラちゃんも、アキちゃんも、ココノちゃんも、みんなに会いたいな」
「ココノはじいさんに会いに来るけど、そういえば全員と一度に会うってことはなかったな。呼んだら集まるな、きっと」
「魔法少女の同窓会だね」
「元・魔法少女の同窓会だな」
 ハルカが訂正するとアンナが小さく笑う。
「私たち、もう少女じゃないもんね」
「レディと女ハルクってとこだよな」
「ハルカちゃんはナイトだよ」
「あたしはナイトって柄かな?」
「そうよ。この世で一番凄くて格好いい騎士様」
 ハルカの疑問にアンナが微塵の躊躇もなく即答する。
「褒めすぎ」
「そんなことないよ。ハルカちゃんはハルカちゃん自身が思っているよりずっと凄いのよ。私が今あるのはハルカちゃんがいるからなんだよ。初めてあったときからずっとハルカちゃんに守られているんだもの」
「これからもだよ」
「うん。判ってる。でも私ももう大人で、ハルカちゃんに頼りっぱなしじゃ駄目なの。だから、ハルカちゃんはハルカちゃんの道を歩いていいと思う」
「なんだなんだ。なんか寂しい話になってるじゃないか。あたしの道はアンナのそばにあるちっちゃい道だよ。あたしはそれで良いんだ。というか、あたしにはそれしか道がないんだよな」
 おどけた口調ではあったが、それはハルカの本心そのものだった。
 自分が過保護なのは自覚している。極めて利己的な言い分であることも判っているが、アンナの心情とは別に、ハルカ自身が自らをそう規定していることは事実で変わりようがなかった。
 真っ向から本心をぶつけてくるハルカに、アンナは苦笑するしかない。
「ハルカちゃん、私のことを甘えん坊だっていったけど、ハルカちゃんも相当な物だと思うよ。私が居なくなったらどうするの」
「考えたこともないや」
「……私も、ハルカちゃんが居なくなったときのことなんて考えたくないけど」
「考えるなよ。ずっと一緒だぜ」
 アンナは答える代わりにハルカに力一杯抱きついた。

 翌朝すでにアンナの姿はなかった。
 大抵の場合一緒にベッドから起きるのだが、今日は一足先に起床したようだ。
 朝のロードワークを終え、朝食を摂った後もアンナの姿は見えなかった。どこかへ行くにしてもハルカに一言もないというのは珍しい。
 ハルカはいつものように居間でくつろぐジョシュアに尋ねた。
「アンナはどうしたんだ。姿が見えないが」
「ああ、ちょっとした野暮用だ。しばらく留守にする」
 留守、ということはどこかに出張に行ったと言うことなのだろう。だがハルカは何も聞いてはいなかった。
「あたしに何の言伝もなくか」
「お前に話しても仕方のないことだからな」
 ジョシュアの答えは素っ気ない。
「どういう意味だ」
「アンナはブラックドッグの駆除に行った。魔術協会がらみの仕事だから、お前に話しても意味がない。だから一人で行った。それだけだ」
「ブラ・・・・なんだ?」
「ブラックドッグだ。稲妻を伴って現れ、人を殺す化け物だ。姿形は名前の通り犬に似ているが、大きさは牛ぐらいある。定期的に現れるらしくてな、うちが駆 除を担当しているというわけだ。まあアンナなら万に一つも後れは取るまい。仮にも伝説級の怪物だ、手こずりはするだろうがな」
「そんな相手に一人でか」
 アンナの魔術師としての実力は一流だ。ハルカの知る限り、アンナを超える魔術師はジョシュア一人しか居ない。それでも魔を祓う場合、最低限バックアップ を二人は連れて行くのが通例だ。魔の強度は、出現時から刻一刻と変化する。天候や周辺の環境によっては、通常想定されるよりもずっと強大な魔に成長してい る可能性があるからだ。
 単独での行動はいかにアンナといえども考えられない暴挙だった。
「そう睨むな。そもそも一人でやるといったのはアンナだ。バーンスタインの名を継ぐとなればそれぐらいの恣意行動は必要だろう。魔術協会とて一枚岩ではない。お前も判っているだろう、真に人を縛り付けるものは力のみだと」
「あたしはそうは思わないがね。本当に強い奴っていうのは、力を見せつける必要なんて無い。誇示するための力なんて、それは強さじゃないぜ。じいさん」
「フフン。いうじゃないか、小娘。それでどうする気だ」
「当然手助けに行く。アンナはあたしの嫁だ」
「魔法も使えないのにか」
「そんなもんいるか」
 ハルカの答えにジョシュアは大笑した。
「ハハハハハハ! それは素敵な答えだ。50年ぶりだ、魔法を「そんなもの」呼ばわりした奴は。いいだろう、行くがいい。ガルフストリームを飛行場に待機させてある。今からならすぐに追いつけるだろう」
「チッ。最初から用意してあるんじゃねえか」
「言っただろう、年寄りになると用心深くなるとな。本当は私が行くつもりをしていたが、お前が行った方がアンナも喜ぶ。ハーマン!」
「お呼びですか、大旦那様」
 バーンスタイン家の執事ハーマンは、まるで影から現れるがごとく呼び出しに応じた。この初老の男性も謎が多い人物である。屋敷を切り盛りし、ジョシュア の私的な秘書としても活躍しているが、一体いつ休んでいるのか、一体いつも何処にいるのかが判らない。上品なクイーンズイングリッシュを話し、ポマードで なでつけた銀髪と乱れのない燕尾服を身にまとって何処にでも現れる。一度追跡を試みたことがあるのだが、いつの間にか巻かれてしまった。
「私の代わりにハルカが行くことになった。すぐ車を手配してやってくれ」
「ただちに」
 執事は一礼し足音も立てずに居間から出て行く。
 動きやすい格好をした方がいいだろうと思い、ハルカも着替えのために自室へと戻った。

 バーンスタイン家が自家用機として使っているガルフストリームは、ハルカが想像していたよりもずっと大きな旅客機だった。自家用機と言えば二人乗りのレ シプロ、大きくてもセスナのイメージが抜けきらないハルカである。全長65フィートのジェット旅客機を個人が所有しているという現実を容易には受け入れら れない。
 そもそも、飛行機の中にソファやテーブルが存在している時点で現実離れしている。おかしい。
 おまけにちょっと低いがバーカウンターまである。
 執事のハーマンまで装備されている。
「お前さん、さっきあたしを送り出したところだよな? 何であたしより先に飛行機の中にいるんだ?」
「それが年の功というものでございます、お嬢様」
 ハーマン・E・オークウッドは恭しく頭を下げながら答えた。
「アンナ様は自家用車で現地に向かわれましたので、今から飛び立てばちょうど目的地付近で落ち合える予定でございます」
「ああ、そう。何もかも手配済みなのね」
「はい。それが仕事でございますので」
「食えないじいさんばっかりだな、この国」
「まあまあ。大旦那様もお二人のことを気にかけていらっしゃるのですよ。自家用機の手配はアンナ様にお仕事が回されるとすぐにしておりました。アンナ様のお仕事がやりやすいように方々へずいぶんと根回しもしておりますれば、憎まれ口ぐらいはご容赦なさいませ」
「あのじいさんがねえ」
「照れ隠しのような物でございましょう。ところで何かお飲みになりますか」
「酒はいいや。それよりちょっと小腹が空いたな」
「はい。そう思いまして、お嬢様のお好きな辛子とハムのサンドイッチをご用意しております」
「あんた本当は予知能力者かなんかじゃないのか」
「長らくこの仕事をやっておりますと、いつ何が必要かというのは自然と判ってくるものでございますよ」
 魔法使いの家に仕えているからといって魔法が使えるというわけではないらしい。
 でも魔法が使えないって言うのは嘘くせえ、とハルカは内心思った。
 離陸はつつがなく行われ、独特の浮遊感を伴って空への旅が始まる。
 機内のソファは適度にクッションが効いていて疲れさせず、ハーマンの用意した厚切りのハムとたっぷりのマスタードを挟んだサンドイッチは絶妙の味つけだった。
 ただ、ソファに身を沈めるハルカの顔は晴れない。昨夜のアンナの言葉が引っかかっているのだ。
 ジョシュアはアンナの行動を『バーンスタイン家の威光を示すため』と言った。ハルカはそうは思わない。アンナは、何よりも自分のために行ったのではない か。過保護すぎるハルカに対して、自らの成長を示すために。そう考えればこそ、昨夜「己の道を行くべき」と説いたのではないか。
 もしそうだとすれば、原因の一端は間違いなく自分にある。
 こういうとき、ハーマンは何も言わない。求めれば助言の一つもくれるだろうが、自ら口を開くことはない。
 ハルカもそれは判っていたし、どうすべきかの答えはすでに出ていた。
「そろそろお時間でございます」
「もう着くのか」
 ものの一時間も経っていなかったが、考えてみればジェット機の速度は時速で500マイルを超す。乗用車に追いつくのに時間がかかるはずもなかった。
「はい。それではお召し物を」
 そう言って彼が差し出したのはパラシュートのザックである。
「なんだそりゃ」
「大旦那様が近くに飛行場がないからこれで直接降りろと」
「くそ、あのジジイ。帰ったら覚えてやがれ」
「紐を引けば開くようになっていますのでご安心ください。万一の場合には緊急用の補助落下傘も開くようになっております」
 ハーマンはおもむろに非常ドアを開けた。
「はいはい、降りりゃいいんだろ、降りれば」
 気圧が下がり、機内に風が渦を巻く。一歩踏み出そうとして、思わず下を見た。
 高い。高所恐怖症というわけではないが、いくら何でも高すぎる。魔法でさえ、こんな高度を飛んだことはない。
 さすがのハルカも足がすくんだ。
「降下地点まであと30秒ほどです」
 インカムに耳を当ててハーマンが言う。
「なあ、やっぱり降りなきゃ駄目か?」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
 そう言われては飛び降りるしかなかった。