shadow Line

今よりもっと、とくべつに 2

 そう言ってゆきなは椅子を引いた。
「おいで」読子に向かって手を差し伸べる。「膝抱っこしてあげる」
「でも……」
 躊躇う。当然だ。赤子の頃は別であるが、物心ついてから誰かの膝に乗るという経験など一度もなかった。
「いいから。私がそうしたいの」
 ゆきなにそういわれては従うより他はない。何よりも、好奇心が勝った。
 わずかに開いたゆきなの足の上へ、読子は恐る恐る腰かける。
 太ももの上に腰かけるのは初めてで、安定しないので必然的にゆきなへ寄りかかるような形になる。なるべく体重をかけないようにしていたが、どうしてもゆきなの方へ体が傾いてしまう。
 それでも、ゆきながよろめいたりすることはなかった。体勢が落ち着くと、ゆきなはそっと読子の腰に腕を添えて背もたれの代わりに読子の身体を支える。
 手慣れている。ゆきなと心を通わせるようになってから幾度も味わう、それは戦慄にも似た感覚。
 ゆきなは、読子が初めてだと言った。それは嘘だ。行動の端々、扱い方、こうした行為の中に読子は慣れを読み取る。ためらいがないのは年が上だからではない。
 読子の内心の動揺など知らず、ゆきなは身体を密着させる。
「膝抱っこの利点は、なんと言っても顔が近くにあるのに体勢が疲れない事よね」
「重くないですか?」
「幸せな重みだわ」
 それはやっぱり重たいと言うことなのか。読子は眉を寄せながら悩み、それからもうちょっと痩せようと思った。
 ゆきなは、そんな読子の「いつもの仕草」を見て耳元で囁く。
「ねえ。聞かせて、読子のこと。知りたいわ」
「えーえ、えーと」
 突然のことなので何を話せばいいのか判らない。ゆきなの吐息が耳にかかって首筋が熱くなる。
「何を話したらいいのか」
「思いついたことから」
「な、名前は本宮 読子です」
「知ってるわ」
「うう……意地悪しないでください」
「読子は可愛いからね」
「―――――」
 読子は下唇をかんでゆきなを見る。怒っている仕草なのか、拗ねているのか。まだ見たことのないもの。ゆきなの知らない顔の一つ。そうやって本宮読子という女性を解いていく愉悦に浸る。
「冗談で言っているのではないのよ。読子は可愛いわ。だから色々知りたいの。教えて、いろんな事。私たちの間にはまだ知らないことがたくさんあるわ」
「でも、何を話したらいいのか判らないです。」
「何でも。好きな物、好きなこと、好きな人。読子がどんな人で、どんなことを考えて、どんな風にしたいのか。どんな風にしてほしいのか。お互いを埋めるのに手っ取り早いのは、やっぱり言葉だと思うのよ」
「好きな人は、先輩だけです」
「いい答えだわ。続けて」
「好きな事は本を読むことです。神話の本とか魔法とか」
「魔法?」
 しまった。それはこの場にそぐわない話題だ。
 口にしてしまった以上は続けるしかない。
「魔法です。願い事が叶ったらいいな、と思って。いろいろと読み進めていくと、神話や物語の相関とか、宗教とか、心理学とか、哲学とかいろんなところに広がっていくんです。魔法もいろいろあって、魔よけの作り方とか、おまじないとか、悪魔の呼び出し方とか、他にもいろいろと」
「悪魔の呼び出し方はシスターにばれると面倒なことになりそうね。一応、ミッション系なのだし」
「読んでみると面白いんですけど……」
「そうなの? それじゃ今度お勧めの物を読んでみようかしら。もっとも、うちのシスターは悪魔崇拝程度じゃあまり気にしないでしょうけど」
「そうなんですか?」
「まあ、ね……礼拝堂に男連れ込んでるとか色々言われてたわ。嘘だと思うけどね。神に仕えているわりには俗世に対してオープンなのは確かよ」
「オープン?」
「敬虔で厳粛なシスターなら「聖書に書いてあることをいちいち鵜呑みにするな」とか言わないと思うわ」
 どんなシスターだ。
 ときどき見かけるときは真面目そうな印象だったが、人はみかけによらぬものらしい。
「そういえば読子は私を先輩って呼ぶわよね。姉さん、でも姉様でもいいのに」
「先輩は先輩ですから」
「二人きりの時は「先輩」より「姉」として呼んでくれたほうがいいわ。私一人っ子だから妹が欲しかったのよね。特に読子みたいな可愛い妹が」
 耳を甘噛みするように近づけて、言う。
「呼んで」
 凄艶な熱を帯びた吐息が、読子のうなじにかかる。
 ゆきなに「お願い」されては逆らえない。
 ためらいがちに言葉を運ぶ。 
「え、えーと……ゆきな姉様」
 言葉は雷鳴のようにゆきなへ響いた。
 ぞくりとする。
 震えがくる。
 重ねて過去が蘇る。なるほど、あの時の「彼女」はこんな感覚だったのか。
 無邪気に「彼女」をそう呼んだ自分はどう見えていたのだろう。いや、今は判る。そう、この掌中の少女のようであったに違いない。無垢で、純粋で、恐れも、破滅も知らぬもの。
 刺さる痛みと甘い毒。視界が濁り、それがあふれそうになる涙のせいだと気がつく。
 悟られぬように、読子を強く抱く。
「先輩?」
 問うような読子の声が聞こえる。
 だが強く身を寄せた彼女の側からゆきなの顔は見えないはずだ。震える声を笑いに隠す。囁く。
「ゆき姉がいいわあ」
「恥ずかしいのでだめです」
 呼ばないのは判っていた。欲しいのは、過去を押し込めるためのほんの少しの時間だ。こんなものはただの生理反応に過ぎない。涙腺から溢れたただの液体だ。感傷でさえない。
「それは残念。次の機会を楽しみにするわ」
 読子から少し身を離す。
「どうして、どうして先輩は」
「ゆき姉がいいわ」
 従わない。
「どうして先輩は私を受けて入れてくれたんですか?」 
「ポイントがたまったから」
 冗談めかして言う。
「うそは駄目です」
「本当よ。私はね、答えに迷うときは、相手の行動を採点して判断することにしているの。恋なんてしないようにしてたけど、読子が事あるごとにポイントためてくるから、私も無視できなくなっちゃったのよ」
「何ポイント目からですか?」
「うーん、分水嶺は6ポイント目かしら。あの抱きついたときは2ポイントね。手芸部の子にも私にそういうのを投げかけてくる子がいるんだけど、読子が頭一つ抜けてたわね」
「あのとき、本当は怖くて仕方がありませんでした」
「なぜ?」
「嫌われると思ったからです。……嫌われるぐらいなら、片思いのままの方が良かったから」
 密着した身体から伝わる震えを、ゆきなは我が身の事のように感じる。
 性別に関係なく、恋をすることは重い。それは時として実らない。実って、その上で壊れることもある。高揚と喪失の合わせ鏡。答えのない方程式とはよくいったものだ。
「妹になったことを、後悔していない?」
「してません。ずっと、こうしたいと思っていました」
「じゃあ、うちへ養子に来る? 本当の姉妹になれるけど」
「本当の姉妹になったら恋人になれません」
「私のこと、好き? 」
「はい」
「ちゃんと言って」
「好きです。ゆきな先輩」
 背骨を這う甘い電流にゆきなはおののいた。溺れる。血が逆流する。
 赴くままに読子の顔を引き寄せると、嫌も応もなく唇を奪う。
 腕の中にある読子の体は熱く、最初の時のような強ばりもなくゆきなに身をゆだねている。嗜虐心にも似た感情の任せるまま、懐中の読子の反応に浸る。
 十分に堪能した後、ゆきなは読子から身を離した。
「自分で言わせておいてなんだけど」ゆきなはそこで深く呼吸する。「結構くるわね」
「ドキドキしました」
「したわね」
 2人はため息をつく。
 これは、危ない。
 このままでいると、蒼崎に釘を刺されるどころの話ではない。
「海はまだ帰ってこないのかしら」
「そうですね」
 気もそぞろにそんな会話をする。落ち着かない。軽々と一線を越えてしまいそうな情動の猛りが、ただ恐ろしい。触れあうことの心地よさ、耐え難いほどの疼き。溶けて一つになってしまいと願うほどの昂り。
 互いに視線を逸らし、息を整える。ゆきなの心臓はポンプではなくエンジンになったかのように脈打っている。それは読子も同じで、隣接する胸から振動として伝わるほどに激しい。
 いくら海の公認とはいえ、見られて良いものではない。節度、節度だ。
 沈黙に耐えかねて読子が口を開いた。 
「じゃあ先輩の番です」
「こまったわね。話せるようなことなんて何もないわよ」
「聞きたいです。先輩の昔のこと」
 それは。それは、本当に聞きたいのだろうか。本当に。
 血液が氷水に変わったかのように冷めていく。
 あんな事を、本当に聞きたいのだろうか。そうではない。読子が聞きたいのはそんなことではない。あれは取るに足らないことだ。ただ、大げさに捉えていたに過ぎない。
 いらぬことを口にする必要はない。
 深く息を吸う。
「昔々、あるところに女の子がいました」
 ゆきなは昔話を朗読するように話し始めた。
「女の子は人よりずっと背が高いので、男の子に東京タワーと呼ばれたりしていじめられていました」
 嫌な記憶だ。
 だが口からは言葉となって、すらすらと出る。どんな傷もどんな事も、時が癒す。もはや過去に意味はない。話すのは苦痛ではない。
「でもあるとき、別の女の子がそれをかばってくれました。女の子はその時、自分は男の子より女の子の方が好きなんだとわかりました」
 過去の汚泥に沈む灰色の記憶。
「女の子は背が高くてもいじめられないように一生懸命努力して、それから女子校に入りました。女子校ではみんな女の子ばっかりなので、女の子はとても落ち着いて生活できました。いじめる男の子は一人もいなかったからです。でもあるとき、油断していた女の子は悪い魔女にさらわれてしまうのです」
「悪い魔女って私のことですか?」
 読子の問いには答えず、ゆきなは天を仰いで嘆くような仕草をする。
「女の子は今も魔女に捕まったままです。おしまい」
「魔女は酷いです」
 唇を尖らせる読子の頭をゆきなはそっと撫でた。
「魔女の魔法にかかり続けるのも悪くないと思っているのよ。誰かを想うことも、想われることも、素敵な体験だわ」
 社会においては異物でしかない自分の属性を、一時でも薄めてくれるもの。嘲笑と揶揄の対象でしかない現実も、互いに想う相手が居ればずっと楽に受け止められる。
 たとえそれが、仮初めのものに過ぎなかったとしても。
 たとえそれが、淡雪のごとく無くなるものだとしても。
 たとえそれが、定められた結末の茶番だとしても。
 その淵へ耽溺し、身の崩れるまで酔い痴れていたい。
「私もあなたのことが好きよ、読子」
 胸の疼きを押し込めるように、ゆきなはもう一度読子の身体を押し抱いた。

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