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小さな逢瀬

 学園の一角にある図書室は、図書委員である本宮読子にとって聖域である。
 人もまばらなその場所を、彼女はこよなく愛していた。
 古い本のにおい。
 その質量がもたらす静寂。
 昼休みと放課後に開放されるそこは、昨今の活字離れを象徴するかのように閑散としている。
 読子はそこで本の貸し借りや整理をしながら、一人で過ごす。
 友達とどこかへ出かけるのも嫌いではなく、放課後、時間さえ合えばクラスメートと帰宅し、寄り道もする。
 それでも彼女は出来るだけ長くここに居たかった。
 孤独を好むためではない。
 いつ来るかもわからないある人を待つためだけに、彼女はそこへ留まることを願う。
 その鮮烈な記憶。
 自らに芽生えた高鳴りとその正体を理解するのに、彼女は幾ばくかの時間を要した。

 記憶を手繰る。

 名前は知っていた。本に予約をかけていたからだ。
 手芸部の部長であるその人は、読子に軽い衝撃を与えた。
 なによりも背が高い。
 後に知った話ではあるが、180センチを超えているのだという。
 黒曜石をよりあわせて作ったかのような艶のある黒髪は、後ろでひとつに束ねられてポニーテールになっている。対照的に肌は驚くほどに白く、その対比は鮮やかで、読子はいまだにそれを表現する言葉を持たない。
 そして背の高さ、それに伴うであろう偏見など物ともしないようにぴんと背筋を伸ばした立ち振る舞い。
 カウンターにいる読子をすっぽりと影が覆ってしまうほどの人物。
 そして何よりも彼女の心を捉えたのは。
 影になった読子のために、少しだけ体をずらしたことだった。

 彼女の名前は、宮影ゆきなという。
 読子は彼女のいくつか個人的な情報を持っている。
 それは、職務上知りえたもの、つまりは『知ったことさえ表に出してはいけない』事柄。
 学生の登録情報を盗み見て知ったもの。
 それは小さな罪。
 読子はそれを楽しむ。住所、電話番号、それらに直接触れることなく、その場所を想像する。
 ゆきなは手芸部の部長だ。取り巻きも多い。
 読子がその輪に加わることは出来ない。 
 派閥というほどのものではないが、読子のテリトリーは図書室であり、ゆきなの居る場所に入り込むことは出来ない。それは学校という閉鎖社会における縄張りのようなものだ。馬鹿馬鹿しいかもしれないが、影響力は計り知れない。無視できるものでもない。
 手芸部はゆきなの領域であり、彼女の傍に居るためには読子は今のテリトリーを捨てて手芸部に入らなければならない。
 取り巻きの多さから考えれば、そこからさらに生存競争を強いられるだろう。
 勝ち取ることはたやすい。自分は彼女のためならおそらくは何だって出来てしまうだろう。自分がそういう類の人間だということを読子は自覚している。いくつかの、手痛い失敗とともに。
 だが、そこで立てられた波風はゆきなの立場を危うくする。
 自分とゆきなだけが残ればすべてが壊れてもいい。
 それもひとつの解決だ。
 けれど、ゆきな自身はそれを望むまい。
 あの端正な顔が悲しみに歪んだりするのを見たくはなかった。

 図書室の時間は驚くほどゆったりと流れる。
 書架を整理し、壊れた本は修理に回す。返ってきた本に落書きがあればそれを消す。 
 本というものは意外と埃が出るので、こまめに本の上を払う。
 そんなことをしているうちに閉室の時間になり、読子は鍵を閉めてそれを職員室に届ける。
 それで一日の業務は終わり。 
 教師からの受けはいい。地味な仕事を熱心にやり、トラブルも起こさない。絵に描いたような「いい子」だ。 だからこそ出来ることもある。
 ある程度の裁量をもって学生の希望する図書を購入する制度があるのはどこの学校でも同じだ。
 しかるべき手続きを踏めば、予算と必要性の範囲内で新規に本を購入することが出来る。
 読子は毎月買う本のリストの中に、時折自分の欲しいものを混ぜ込む。
 ほんの一冊か、二冊。それは読子が犯す、密やかな罪。
 それでも一年もそれを続けていれば、そこにはおのずと成果が現れる。
 書架の一角で広がり続ける魔術や神話に関する書籍の列がそれだ。暇を見てはそれを紐解き、あるいは借りて自室で読みふける。
 魔法は、憧れだ。自分にはないことが出来る。
 陣を描き、呪文を唱えて、願いをかなえてもらう。

「彼女が、私を得難いものとしてくれますように」

 もちろん悪魔も天使もやってこない。
 願いを叶えるために捧げるのは己自身であり、力を行使するのも自分自身。古来より悪魔とは人の影たる部分を指してきたが、読子の秘められた願いを現実とするなら自らが悪魔を演じるしかない。
 それは堅固な城壁から滲み出す水のように読子の中で囁きを続ける。
 声なき声。形無き叫び。意味だけを持つ音。
 触れるだけなら。
 伝えるだけなら。
 嗚呼、それでもその先はまだまだある。触れる。掴む。奪う。囁く。
 汝、何を望む? 
 主は言われた、「求めよ さらば与えられん」
 読子の心は現と夢の狭間を行き来する。得るなどとはおこがましい。ただ側にいる、その一時の輝きのみが私を満たす。
 今の読子がそう思っていられるのは、幾度と無く確認し、手に取った一枚の紙のせいだ。
 それは約束された切符。
 読子の手元にあるのは何のことはない、ただの本の予約表。
 印刷された、ただの紙の切れ端。文字は神との誓約を交わした血ではなくカーボンの残滓。鋏を入れて小さくなった、B5のコピー用紙の印刷物。
 たったそれだけのもの。
 ああでも。そこには彼女の名前が書かれている。
 それは、自分の元へと彼女が来訪することを示す契約書。
 待つのは仕事だ。
 その時間のもどかしさは、出会いの喜びをより甘美にする。
 けれど待つにも限度がある。焦がれた情念で自分自身が焼けてしまう。
 相反する感情は絶え間なく揺らめく小波のように読子の胸をかき乱す。
 自分は。
 運命とも呼べぬ情と偶然に翻弄される、笹舟のようなものだ。
 この澱みと乱流の中で、ただもがく事と待つことしか出来ない、小さな欠片。
 息を吸って、吐く。ただこれだけの行為を繰り返す。
 意識すると気持ちがいくらか落ち着く。溺れていない。私は、此処に居る。
 彼女も此処に来る。
 図書室の扉に射す影は、一目でそれと分かる。
 時が来た。
 引き戸に張られた摺りガラスにうなじが映るほどの人物といえば、彼女のほかには居るはずもない。
 息を吸う。大丈夫。落ち着いている。
「こんにちは、読子ちゃん」
 引き戸をくぐって現れた彼女は、光が飛び散るかのような笑顔で微笑んだ。
「こんにちは、宮影先輩。頼まれていた本が入っていますよ」
 極力、平静を装う。
 手が汗ばんでいることを知られてはならない。
 破裂しそうなほど、脈動が耳に響くほど高鳴る心音を聞かれてはならない。
 紅潮し、熱くなっていく顔を隠してしまいたい。
 献血でもして血を減らしておけば良かった。
「ありがとう。じゃあ早速だけど借りていくわ。次のテーマに使おうと思ってたの」
 歴史のある学園だけに蔵書の数もかなりのものであるが、もちろんニーズの全てを満たせるわけではない。
 手芸部のような小さな部では予算が限られているので、裏技的に必要な本を希望図書として申請し、必要に応じて借り出すのは伝統的な手段だったりもする。
 学園側も「蔵書に多様性を持たせる」という意味で黙認しており、よほどのケースでないと却下はされない。
 ゆきなはカウンターの前で立って待っている。
 悟られないように、小さく、深く、息を吸い込む。
 微かに香る、彼女の体臭。胸の内が甘く疼く。
 それは痛み。想いがそこで心を刺す、甘い痛み。
 異常、なのかも知れない。こんな想いは普通じゃない。
 けれど、つかの間の逢瀬にそのくらいの悦びを得ても良いではないか。
 彼女は行ってしまうのだ。
 読子の想いとは無関係に、その手は本の貸し出し処理を済ませ、返却日を記したスタンプを押し、ゆきなへと差し出している。手馴れた作業は彼女の意思を介さない。
「返却は二週間後です」
「ありがとう、助かるわ」
 ゆきなは手渡された本を畳んでいた布のバックに押し込む。
 彼女自身が縫ったのだろうか。読子はそれを聞くことさえ出来ない。彼女と自分に許された時間は終わったのだ。
 詮索したら、嫌われるかも知れない。だから聞けない。
 今日の逢瀬はこれで終わり。
 のはずだった。

「あら……読子ちゃん、ボタンが取れてるわよ」
「え?」
 別れは一瞬引き延ばされ、読子は指摘された自分の上着を見る。
 みれば確かに上着のボタンが一つ、糸が解れて垂れ下がっている。
 気がつかなかった。だらしがない女だと思われなかっただろうか。
 次に発せられたゆきなの言葉に、読子は耳を疑う。
「ちょっと貸してごらんなさいな? すぐ付けてあげる」
 そんな事はさせられない。
「大丈夫です、後で自分で付けます」
「いいからいいから」
 ゆきなはそっと手を伸ばす。
 断りたい。そんな事はさせられない。
 それでも、その白い指に手渡したいという誘惑は何物にも代えがたかった。
 読子は上着を脱いでゆきなに手渡した。
「椅子、借りるわね」
 ゆきなは持ち歩いているソーイングセットを取り出すと、ぱちぱちと糸を切ってボタン付けを始める。
 長身のゆきなが小さな針で器用にボタン付けをしていく光景は、どこか微笑ましい。
 それでも手芸部部長だけあって手際はよく、くるくると針を動かしてあっという間に縫い付けていく。針の運びに迷いはない。ミシンのように正確に、踊るように優雅に。
 窓辺から差す光が、まるで天使の梯子の如く一筋の光明となり、ゆきなの手元を照らす。時を止めて、閉じ込めてしまいたい。それはまるで、おとぎ話の織手のように美しい。
 時間にしてどれほどだっただろうか。
 早かった気も長かった気もする。時間などどうでもよかった。
 ゆきなは縫いつけたボタンを上にして畳んだ上着を手渡すと、一言詫びた。
「ごめんね、紺の糸が無かったから黒にしちゃったけど、気に入らなかったら後で付け替えてね」
「は、う、えーと、ありがとうございます」
 読子は上着を胸に押し抱き、小さくお辞儀した。気の利いた返事が出てこない。
 悟られないように息を吸い込む。上着にはゆきなの香りが染み付いている。
「気にしないで、私のお節介なんだから」
 ゆきなは穏やかに微笑みながら、ソーイングセットを片付けた。
「先輩、背が高いし、優しいし、何でもできるんですね」
 お世辞ではなくそう思ったことを、読子は口にした。読子にとってゆきなは万能の象徴だった。もちろん、それがただの思い込みであることは頭の片隅で理解はしていたが。
そんな読子の言葉にゆきなは苦笑いする。
「何でもってわけじゃないわよ。それに背が高いのは良いことばっかりじゃないし」
「そうなんですか?」
「身長大きいから、初対面の人はなんか引いちゃうみたい。
 大きいと目立つし、何かと頼りにされるから結局手芸部でも部長なんかやらされてたりね」
「先輩、そんなに背が高かったら運動部の方が向いてたんじゃないですか?」
「うーん。バスケット部とかバレー部から誘いが来るんだけど、運動は苦手なの。手芸部に入ったのも、寮にいた先輩の薦めなんだけどね」
 謙遜しているが、面倒見の良いゆきなが部を上手くまとめているのを読子は知っている。
「でも、先輩は素敵です」
「おだてても何も出ないわよ?」
 素敵、という表現以上の気持ちを込めても軽くいなされてしまう。
 微かな失望と安堵。彼女に、自分の気持ちは知られていない。憧れ以上のものがある、その重さに。
 椅子に座ったゆきなと、立っている自分の身長が同じくらいだ。わずかに読子の方が高い程度。
 普段は見上げるような彼女の顔が等位にある。それはとても不思議な光景。
 手を伸ばせば届く位置にある。願っても届かなかったものがすぐそばにある。
 吸い込まれる。
 花に誘われる蝶のように、誘蛾灯へと誘い込まれる蛾のように。
 半ば倒れるようにしてその身を預ける。
 得難い物。求めていた物。それは今、自分の中にある。
 息をのむ音。読子は自分の位置を知る。腕の中にはゆきなの身体がある。微睡みのように鈍く曇った魂がその鮮明さを増すにつれ、自分が何をしたのかを知る。
「気は済んだ?」
 ゆきなの問い。
 読子の精神は拘束の解除を命じた。肉体は反射し、両腕を解き、飛び退くように後ずさる。
 何をしたのだ。一体何をしたのだ。一体、どうしてしまったのだ。
 ゆきなは笑っている。
 心臓が音を立てて脈動する。
 壊した。私は、今、壊した。私は、今、かけがえのないものを、壊した。
 こわしてしまった。
 暗転する。
 我は死なり。世界の破壊者なり。
「気は済んだかしら?」
 ゆきなはもう一度問う。
 頷くことも首を振ることも出来ない。ただただ膝から力は抜け、床に座り込むのが精一杯。なんて愚かな。なんて惨めな。魔が忍び寄ったとしか思えない。
 自らの行いに恐怖し、放心し、愕然とする読子の前でゆきなはなおも笑う。
 そこに嫌悪の相は見られない。ただ笑っている。
「貴女がね、初めてじゃないのよ。そういう風に私を見ているのは」
 それが、笑いの理由。
 判っています。
 知っています。
 ごめんなさい。
 どれもが言葉にならない。自分が何故泣いているのかも判らない。制御できない。
 涙腺からあふれる大粒の涙が何を表現しているのかも判らない。
 喉から漏れてくるのは呻くようなすすり泣きの声。それが余計に読子を惨めにする。
 いっそ消えてしまいたい。5分前のことを無かったことにして欲しい。
 魔法の力は働かない。読子が頼りにしている魔法の源は、悪魔の力だから。
 一番大事なときに、一番大事な物を奪っていく。密やかな恋、その宝石のように貴重な時間を。
 ゆきなはハンカチで読子の目元を拭う
「ごめんなさい」ようやく、その言葉を絞り出す。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 ゆきなの手が、頭の上に載る。くしゃくしゃと、優しくなでる。
「言ったでしょう、私をそういう目で見ているのは読子ちゃんだけじゃないって。泣くほどの事じゃないわ」
「でも、私は、気持ちの悪い子です」
「どうして?」
「女同士なんて、おかしい」
「あらあら。それは困ったわ」ゆきなは笑う。それは今まで読子が見たこともない、蠱惑的な笑み。「泣いている読子ちゃんは可愛いのに。私もおかしいのかしら」
「先輩はおかしくなんかないです。おかしいのは私です」
「そうなのかしら?私には、読子ちゃんの方がずっと純粋で、私の方が邪に見えるわ」
 嘘だ。
 本当はそんな事を思っていないのに、この人は私に嘘をついている。
 その優しさに涙が止まらない。
 嬉しくて。そしてどうしようもなく惨めで。悲しくて。
 彼女はそんな読子を待つ。落ち着くまで、ただ、じっと。
 涙が止めどなく溢れる、などということはない。涙はいつか涸れる。涙とはそういうものだ。気持ちを押し流して心を鮮明にする生理的現象。
 泣いていたら、もっと嫌われる。
 息を吸い、吐く。深く吸って、深く吐く。繰り返していると嗚咽がやむ。
 気持ちは落ち着いてはいない。惨めな気分のままだ。自己嫌悪で消えてしまいたい。それでも今は逃げられない。彼女は逃がしてはくれない。
「さて、読子ちゃんは一体どうしたいのかしら?」
 ゆきなは問う。信者を試す、御使いの如く。

「忘れてください」
 それが最良。
「嫌よ」
 ゆきなは、読子の言葉をあっさりとはね除ける。
 予想だにしない言葉に、読子は呆然となった。
 今、彼女はなんと言ったのだ?  『嫌だ』? 意味がわからない。
「どうしたいかと聞いたのは先輩です」
「そうね」ゆきなの声が冷たさを帯びる。「でも、それは嘘でしょう? 私は嘘の答えを聞きたいわけじゃないわ」
「……嘘なんかじゃないです。忘れてください。私は先輩とは釣り合いません。それにこんな気持ちは間違っています」
「あらそう。じゃあ私は間違っているのね」
 読子には理解できない。
 何故ゆきなが苛立っているのか。ゆきなの言葉には今まで片鱗さえ感じたことの無い怒りが含まれている。
「読子ちゃんはもっと素直で正直な子かと思っていたけれど。思わせぶりな、ただの嘘つきだったという訳ね。がっかりだわ」
 ゆきなのぶつける言葉は辛辣で、そこには最早隠そうという意図さえ見えない怒気が込められていた。
 この人は本気で怒っているのだ。
 でも何故。
 何が彼女の怒りに火を付けたのか。
 嘘をついた? 違う、嘘ではない。読子は何一つ嘘はついていない。
 この想いは成就しないのだ。ならば忘れることが互いにとって最良ではないか。
「読子ちゃんの思い通りになんかならないわ」
 ゆきなの影は読子を覆い尽くす。
 目の前の憧れの人に、読子は初めて禍々しさを覚えた。
 射すくめられるとはこう言うことか。それは陶酔などではない、明確な恐怖。
 私は捕らえられたのだ。
 顎に手がかかったときも。
 濃い影が読子を覆うときも。
 そして驚くほどに柔らかく、熱く、甘い、口づけも。

 全てが読子を絡め取る。

「戴いていくわ」

 たった一言。
 それは厳かで、絶対的な拘束力を持つ言霊。
 再び自分の視点が下がる。
 膝が勝手に折れ、力が抜ける。魂を吸い取られる。
 ああなるほど。
 これが腰が抜けた、ということなのか。
「あら、ごめんなさい。ちょっと刺激が強すぎたかしら」
 ゆきなは笑う。その笑みはいつものように屈託が無く、澄んでいる。
「さて、正直になるきっかけはつかめたかしら?」
 計算尽くだったと言うことか。
 怒りなど沸くはずもない。この人は優しい。それはとても残酷で、とても強い事の証だ。
 強くなければ、優しくは生きられない。
 今更ながら、それが惚れた欲目などではなく紛れもない事実だということを読子は悟る。
 それにしても。
「先輩は……先輩はこういうのは、初めてじゃ無いんですか?」
「知りたい?」
 質問を楽しんでいる、そんな顔。
「―――もちろん、初めてよ」
 初めて、とは思えなかったが、それでも読子はそれを信じることにした。
「前にあんな風に迫ってきた後輩がいたから試してみたんだけど、読子ちゃんはそうなっちゃうのね。感受性豊かでうらやましいわ」 
「その、後輩の人はどうなったんですか?」
「どうなったと思う?」
 逆に掛けられた問いに、読子は不吉な予感さえ抱く。
 初めてではない。
 ということはつまり、読子以外にも居るのだ。 居ても不思議ではない。
 つまり。それが意味することは。
 私は。
 あらゆる否定的可能性へと思考は飛び、平静を装ったつもりでも血の気が引いていくのが分かる。
 その表情からゆきなは何かを読み取ったのか、笑いながら首を振った。
「ああ、別に酷いことをしたわけではないのよ、勘違いしないでね。ちゃんと誠実にお断りしたわ。でも、頑張って迫ったのに成就しなかったのはちょっとショックだったみたいね」
 止まりかけていた心臓が再び血液を送り出す。
 それが身勝手な想いであるとはいえ、読子は深く安堵した。
 この人だけは、私の特別だ。
 ゆきなはへたり込んだ読子に手を貸すと、椅子に座らせてくれた。
「さてと。気持ちの確認が出来たところで一つ心配なんだけれど」
 ゆきなの顔が少しだけ曇る。
「そう頻繁には顔を出せないからちょっと待つことになるかもしれないけど、それは許して貰えるかしら?」
 いいわけがない。
 読子が真に望むのは、そのあらゆるものを束縛し、手の内に留めておくこと。
 それは呪いにも似ている。
 恋は呪いだ。私は彼女を縛り付けてしまいたい。彼女自身が、私の心を絡め取るように。
 それが正しいことではないことなんて知っている。
 読子は首を振った。
 待つのはつらい。
 でも。
「待ちます」
 それは矛盾した答え。
 ゆきなはそっと手を伸ばし、読子の頭をそっと撫でた。
「読子ちゃんは、強いのね」
 それは褒めているようには聞こえない、どこか重たい空気をはらんだ言葉。
 両の手を伸ばし、ゆきなに抱きついてみる。許しも得ず。衝動ではなく、自分の意思で。
 身長の差は、まるで子供が親にしがみついているような、そんな風に見えることだろう。
 読子の頭は、せいぜいゆきなの胸の辺りまでしかこない。
 何もいわずに、ゆきなも読子を抱き返す。
 身長の差は読子の肩ではなく頭を抱えるような位置にしてしまう。
 図らずも読子の顔はゆきなの胸に押し付けられるような形になり、読子は幸福感で窒息しそうになる。
 息を吸う。
 肺に満たされていく空気が、すべてゆきなのものだ。
「これ、なんだかすごく良いわね」 
 ゆきながそんな感想を漏らす。
 私もです。
 と答えたかったが胸の中で喋るとまるで息苦しさからうめくように聞こえた。
「あ、ごごめんなさい! 苦しかったよね?」
 慌てた声。それは初めて聞く声音。まだ知らなかった彼女の一面。
 ゆきなが手を解き、一つだったものは再び分かたれた。
 ひとつだったもの、互いの体温、におい、質感、そういったものがすべて現実に戻される。
「時々こうしても良いですか?」
「意外と積極的ね」抱き合ったときにずれたベストの位置を正しながら、ゆきなは笑った。「でも、そういうの、いいと思うわ」
 読子は赤面のあまり顔が爆発するかと思った。
 この人には、かなわない。
「さて、長居をすると部員が心配するからもう行かなくちゃね」
「次はいつですか?」
 行かないで、といったら彼女はきっと困る。
「そんな事言われると女郎部屋に通う侍みたいな気分だわ」それでも、まんざらでもないといった面持ちのゆきな。「あまり間の空かないうちに。それに同じ学校の中に居るんだからそんなに心配しなくても大丈夫よ」
 そうはいっても。
 読子は不安を隠し通すことが出来ない。 知らなければ耐えるのは何とかなる。
 知ってしまうと、次が欲しくなる。
 恋とはそうしたもの。
 思った以上に、自分には堪え性がないようだ。
「そんなお預けをくった犬みたいな顔をしないの」
 ゆきなの両手が読子の頬へと伸びる。 もう一度、影が読子を覆う。
 読子も少しだけ背伸びする。 足りないもの、届かないものを少しでも埋め合わせたいから。
 吸い取られるような感触はもう無い。あるのは、ただ火照り。
「これは手付け」
 頷く。
 しかし、ぬぐえぬ疑問。
「先輩は、それでいいんですか?」
「連れて帰って見せつけるわけにもいかないでしょう?そこが部長の辛いところよね」などと嘯く。
「ずっと一緒にいられる人も居るのに? もっと私よりも素敵な人も居ると思います」
「弱気になった? まだまだ先は長いわよ」
 先、の意味することも読子が理解せぬままに、ゆきなは艶のこもった声で付け加えた。
「私はね、自分の気に入った物を手元に置いておきたい主義なの」
 閨の睦言の如く、みだりがましささえ含んだ一言。
 再び膝から力が抜けそうになるのを感じながら、読子は思った。
 嘘つき。
 絶対に慣れてる。初めてなんかじゃない。
 膝に力を入れて、立つ。
「離れません」
 それは告白。
 ついでに宣戦布告。
「頼もしいわね」
 ゆきなはバッグを肩に掛けてもう一度読子の頭を撫でた。
「本を借りに来て、彼女までできるとは思わなかったわ」
「私もこんな事になるなんて思っていませんでした」
 今自分が立っているのが正しい場所なのか、歯車の狂った世界なのか、読子には判らなかった。
「さて。もう本当に行かないと。それじゃまたね―――読子」
 ちゃん付けではなく、名前だけでそう呼ぶ。
「はい」
 この瞬間に、自分はゆきなの物になったのだ、という確たる思いを抱いたのだった。

 ゆきなは静かに図書室から出て行った。
 世界は薔薇色なんかではなかった。
 幸福感だけではなく不安でも満たされたその高揚感は、言語に窮する感覚だった。
 それはなんと表現すべきなのだろう。白も黒も孕んだ、暴風。あるいは竜巻。渦巻く奔流。混乱の極み。
 のしかかる重さとその意味に、読子の心臓は規定以上の血を送り続けている。
 木漏れ日の差す図書室での、小さな逢瀬。 窓辺に見える、ゆきなの姿。その長身は、豊かな髪を跳ねさせながら、きびきびと遠ざかっていく。
 私があの人のものであるように。
 あの人も私のものだ。
 息を吸う。吐く。もう一度吸って、ゆっくりと吐く。
 私は此処にいる。
 それから考える。
 一体何のまじないが効いたのだろうか、と。
 一つの物語の始まり。
 その妙なる感触に目眩がする。
 息を吐く。吸わずに吐いて、もう一度吐く。
 それから読子は。
 足下がまるでオレンジのシャーベットであったかのように、静かに机に突っ伏した。